僕を処刑しようとした醜い女帝に、なぜか求婚してしまった
その日、レオン王子は、自分の婚約者とは絶対に結婚できないと確信した。
「レオン様。結婚したら、まずその髪をどうにかいたしましょうね」
向かいに座るクラリッサが、優雅に紅茶のカップを傾けながら言った。
「……髪?」
「ええ」
彼女は、レオンの少し癖のある焦げ茶色の前髪を見つめた。
「王族としては少々無造作すぎますわ。それから服も。紺や黒ばかりでは地味でしょう?」
「僕は気に入ってるけど」
「ですから、結婚したら変えるのです」
「僕が?」
「もちろん」
クラリッサは当然のように微笑んだ。
彼女自身は、誰が見ても美しい令嬢だった。
陽光を受けて輝く金髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、白い肌には染み一つない。
淡い青のドレスには小粒の宝石が散りばめられ、耳元では王都でも滅多に見ない大粒の真珠が揺れていた。
姿勢も、微笑みも、カップを持つ指先まで完璧だった。
だからこそ、レオンには息苦しかった。
「それと、あの盤上遊戯もそろそろおやめになった方がよろしいですわ」
「どうして?」
「子供っぽいですもの」
「戦術の研究にもなるよ」
「実際に戦争へ行くわけでもありませんでしょう?」
「古代史の本は?」
「それもほどほどになさいませ」
「城下町を歩くのは?」
「王子が平民の店を覗いて歩くなんて」
「……じゃあ、僕は何をすればいい?」
クラリッサは目を丸くした。
まるで、そんなことを聞かれるとは思っていなかったようだった。
「立派な王になればよろしいのですわ」
「その立派な王は、何を楽しみに生きるんだ?」
「レオン様?」
「いや。何でもない」
レオンは窓の外へ視線を向けた。
庭園では風に揺れる木々の間を、小鳥が自由に飛び回っていた。
――無理だ。
クラリッサは悪人ではない。
少なくとも、今のところは。
だが、彼女と五十年一緒に暮らす自分を想像した瞬間、レオンは牢獄の方がまだ広そうだと思った。
◇
「嫌です」
その夜。
レオンは父である国王と母である王妃を前に、きっぱりと言った。
「クラリッサとは結婚しません」
国王は額を押さえた。
「またその話か」
「何度でも言います」
「公爵家との縁談ですよ」
王妃が困ったように息子を見る。
「家柄も申し分ありません。クラリッサ嬢は美しく、教養もある。何がそんなに不満なのです?」
「話が合わないんです」
「結婚は遊びではないぞ」
「分かっています」
レオンは父をまっすぐ見た。
「だからこそです。何十年も一緒に生きる相手でしょう?」
国王は黙った。
レオンは続ける。
「僕は王子です。いつか国のために嫌なこともしなければならない。それは分かっています。でも、自分の家に帰ってまで、ずっと誰かが望む『理想の王子』を演じ続けるのは嫌です」
王妃がわずかに目を見開いた。
国王は長い沈黙のあと、大きなため息をついた。
「……ならば、自分で探せ」
「え?」
「そこまで言うのなら、自分が結婚したいと思える女性を連れてこい」
レオンの灰青色の目が輝いた。
「本当に?」
「ただし」
父王が指を一本立てる。
「一週間だ」
「……はい?」
「七日以内に連れてこい」
「一週間で人生の伴侶を!?」
「できなければ、クラリッサ嬢との婚約を進める」
「横暴だ!」
「国王だからな」
「そういう権力の使い方は間違ってるでしょう!」
「ではクラリッサ嬢と――」
「探します!」
即答だった。
王妃が小さく吹き出した。
◇
しかし。
一週間で結婚相手を探すなど、まともな人間がすることではなかった。
「殿下はどのようなことがお好きなのですか?」
「最近は古代戦術について調べていて――」
「まあ! 素晴らしいですわ!」
「興味がある?」
「いいえ。でも殿下がお好きなら素晴らしいに決まっていますもの」
「……そう」
別の令嬢には盤上遊戯について尋ねた。
「よかったら一局どう?」
「まあ、殿下と? でも、わたくしが勝ってしまったら失礼ですもの」
「勝つつもりなんだ?」
「え?」
「いや、何でもない」
三日目。
レオンは逃げた。
正確には、気分転換のため馬で王都を出た。
「僕は何をしてるんだ……」
森の中を進みながら呟く。
条件を比べる。
家柄を見る。
容姿を見る。
数十分話して判断する。
これでは伴侶を探しているのか、商品を選んでいるのか分からない。
「そもそも、一週間って……」
馬が突然立ち止まった。
「どうした?」
顔を上げる。
見覚えのない森だった。
振り返る。
来たはずの道がない。
「……嘘だろ」
その瞬間。
ズン――。
地面が震えた。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
レオンはゆっくりと横を向いた。
そこに。
巨大な岩の人形が立っていた。
城門ほどもある身体。
太い両腕。
顔らしき部分には、青白く光る二つの眼。
「……ゴーレム?」
ゴーレムが一歩近づいた。
「待ってくれ」
さらに一歩。
「僕はただ迷っただけなんだ。話し合おう」
巨大な手が伸びる。
「言葉、分かる?」
胴体を掴まれた。
「分からないか!」
持ち上げられた。
「せめて馬は置いていけ! そいつは悪くない!」
ゴーレムは律儀に馬だけ残して歩き出した。
「そこは聞くんだ……」
◇
森の奥深く。
木々が途切れた場所に、巨大な城があった。
かつては壮麗だったのだろう。
しかし今は城壁を蔦が覆い、尖塔の一部は崩れ、掲げられた旗は風雨で色を失っている。
城門を抜けても、人影はなかった。
兵士はいない。
使用人もいない。
中庭の噴水は枯れ、庭園には野草が生い茂っていた。
「誰もいないのか……?」
返事の代わりに、ゴーレムの足音だけが響く。
城内も同じだった。
豪華な絨毯は色褪せている。
壁には何十人もの人物を描いた古い肖像画が並んでいるのに、廊下には誰もいない。
やがて巨大な扉が開いた。
その奥。
広大な謁見の間。
最奥の玉座に――一人の女が座っていた。
レオンは言葉を失った。
醜い。
そんな一言では足りなかった。
灰色がかった肌は乾き、頬から首にかけて黒い亀裂のような模様が走っている。
鼻は大きく曲がり、左側の頬は不自然に歪んでいた。
口元からは不揃いな歯が覗き、痩せた指は異様に長い。
黒ずんだ爪は、まるで猛禽の鉤爪だった。
長い黒髪は艶を失い、乾いた藁のように乱れている。
身体もひどく痩せていた。
童話に出てくる恐ろしい魔女を、そのまま現実に引きずり出したような姿。
ただ一つ。
その目だけは違った。
深い紫。
澄み切った紫色の瞳が、玉座の上からレオンを射抜いている。
そして何より。
彼女は堂々としていた。
古びた黒紫のドレス。
頭上には黒い宝石をはめ込んだ小さな冠。
背筋は真っ直ぐ伸びている。
その異形の姿にもかかわらず、レオンは反射的に姿勢を正した。
――この人は、本当に支配者だ。
「下ろせ」
女が命じた。
ゴーレムが手を開く。
「うわっ!」
レオンは床に落ちた。
「もう少し優しくできないのか……」
「名を」
低いが、よく通る女性の声だった。
「その前に客の扱いについて――」
「名を」
「……レオン・アルヴェイン。この国の第一王子だ」
紫の瞳が細くなる。
「王子?」
「ああ」
「証拠は?」
「……ない」
「では、自称王子だな」
「本物だ!」
「侵入者は皆、自分を重要人物だと言いたがる」
女は骨ばった指で頬杖をついた。
「私はヴァレリア。忘れられた帝国を統べる女帝である」
レオンは周囲を見回した。
広い。
豪華だ。
しかし。
誰もいない。
「……誰の女帝?」
沈黙。
ヴァレリアの紫の目が細くなる。
「ゴーレム」
「申し訳ありません、陛下」
レオンは即座に頭を下げた。
「判断が早いな」
「長生きしたいので」
「残念だ」
「……何が?」
「その願いは叶わぬ」
ヴァレリアは玉座から立ち上がった。
痩せた身体なのに、立ち姿には妙な威圧感がある。
「我が領域への無断侵入。その罪により、お前を処刑する」
「待ってくれ!」
「何だ?」
「僕は迷っただけだ!」
「侵入した事実は変わらぬ」
「国境を示す看板すらなかった!」
「無知は罪を消さぬ」
「なら、知らずに蟻を踏んだ人間も殺人犯か?」
ヴァレリアの眉が動いた。
「……ほう」
「何?」
「死刑を宣告された直後に、私と言い争う者は久しぶりだ」
「普通は何て言うんだ?」
「命乞い」
「じゃあ僕もする。助けてください」
「遅い」
「そんな!」
ヴァレリアの口元がわずかに歪んだ。
笑った。
ほんの一瞬。
それをレオンは見逃さなかった。
「……よかろう」
ヴァレリアが指を鳴らす。
空中に銀色の石が現れた。
「機会を与える」
「本当に?」
「一つ、問いに答えろ」
紫の瞳がレオンを見据える。
「姿を見る前に選ぶことができる。だが、姿を見てから選んだのでは、私にとって意味が変わってしまうもの――それは何だ?」
「……何?」
「猶予は三日」
「三日!?」
「三日後、答えを持ってここへ戻れ」
銀色の石がレオンの手のひらへ落ちる。
「転移石だ。私の名を呼べばここへ戻れる」
「間違えたら?」
「処刑」
「やっぱり!?」
「今でも構わぬぞ」
「三日ください」
即答した。
今度こそ。
ヴァレリアは声を出して笑った。
◇
三日間。
レオンは本気で考えた。
書庫に籠もった。
学者にも聞いた。
紙に思いつく言葉を書き並べた。
信頼。
忠誠。
友情。
運命。
約束。
どれもしっくりこない。
「姿を見る前……?」
机に突っ伏す。
目を閉じる。
すると。
なぜかヴァレリアの顔が浮かんだ。
恐ろしい顔。
紫色の目。
あの一瞬の笑い。
「……なんで君が出てくるんだ」
顔を上げる。
考える。
またヴァレリアが浮かぶ。
あの偉そうな声。
こちらの言葉を即座に切り返す頭の回転。
王子である自分に一切遠慮しなかった態度。
「いや、謎を考えろ、僕」
だが。
答えは出なかった。
◇
三日目の夜。
レオンは転移石を握っていた。
行かなければいい。
それだけだ。
あの城の場所は分からない。
ヴァレリアが王都まで追ってくる保証もない。
王子なのだから、兵を集めることだってできる。
「……」
石を見る。
――三日後、戻れ。
「約束したんだよな」
ため息。
そして石を握り締めた。
「ヴァレリア」
景色が歪んだ。
◇
玉座の間。
ヴァレリアは本を読んでいた。
レオンが現れた瞬間。
紫色の目が大きくなる。
「……来たのか」
「戻れと言っただろ」
「答えは?」
「分からない」
「……」
「だから来た」
ヴァレリアは本を閉じた。
「お前、馬鹿なのか?」
「最近それを疑い始めてる」
「逃げればよかっただろう」
「約束したから」
「命より約束を取るのか?」
「いつもじゃない」
「今回は?」
レオンは少し考える。
「逃げたら、一生気になりそうだった」
「謎が?」
「それもある」
「他には?」
紫の瞳を見る。
「君が」
沈黙。
「……」
「……」
「今のは忘れてくれ」
「断る」
「お願いします」
「絶対に断る」
ヴァレリアは顔を背けた。
しかし。
長い爪で口元を隠している。
笑っていた。
「よかろう。処刑は取りやめる」
「本当か!?」
「逃げずに戻った褒美だ」
「助かった……」
レオンは大きく息を吐いた。
これで帰れる。
父との約束に戻らなければ。
あと一週間――いや、もう残りはほとんどない。
結婚相手を――。
レオンはヴァレリアを見る。
「……」
「何だ?」
「ヴァレリア」
「何だ」
「僕と、結婚を前提に付き合ってくれないか?」
ヴァレリアの動きが止まった。
「……」
「……」
「ゴーレム」
「待って!」
床が震えた。
「やはり処刑しろ」
「どうしてそうなる!」
「私を愚弄するために戻ってきたのか!」
「違う!」
「鏡を見たことがないとでも思ったか!」
ヴァレリアが立ち上がる。
長い黒髪が揺れ、黒い爪が玉座を掴む。
「お前の国には美しい女がいくらでもいるだろう!」
「いる!」
「即答するな!」
「嘘をついても仕方ないだろ!」
「なら、なぜ私だ!」
「最初は事情があった!」
「ほう?」
レオンはしまったと思った。
「言ってみろ」
「……一週間以内に結婚相手を見つけないと、婚約者と結婚させられる」
ヴァレリアは無言でゴーレムを指差した。
「待て! 最後まで!」
「つまり、誰でもよかったのだな」
声が変わった。
怒っている。
だが。
それだけではない。
レオンは初めて気づいた。
傷ついている。
「違う」
「何が違う」
「確かに最初は逃げ道を探してた。でも――」
レオンは言葉を探した。
「三日間、君のことが頭から離れなかった」
「謎だろう」
「途中から分からなくなった」
「お前の頭が悪いだけでは?」
「そういうところだよ!」
「何?」
「僕にそんなことを言う女はいない!」
ヴァレリアが瞬く。
「皆、僕が王子だから笑う。褒める。ゲームをすれば負けてくれる。僕が間違っていても正しいと言う」
レオンは彼女を見た。
「君は違う」
「私はお前を処刑しようとしたぞ」
「そこはかなり大きな欠点だ」
「帰れ」
「でも」
レオンは笑った。
「もっと君と話してみたい」
ヴァレリアは黙った。
その黒い爪が、ゆっくり玉座から離れる。
「……後悔するぞ」
「それを確かめたいんだ」
「変な男だ」
「よく言われる」
「嘘をつけ」
「今日から言われる」
ヴァレリアの口元がまた少しだけ緩んだ。
「……好きにしろ」
それが最初の返事だった。
◇
翌日。
「チェックメイト」
「……嘘だろ」
「七敗目だ」
ヴァレリアは細長い指で黒い駒を倒した。
盤上の王が転がる。
「もう一回」
「まだやるのか?」
「次は勝つ」
「六戦前にも聞いた」
「今度こそ」
「根拠は?」
「王子としての勘」
「では負けるな」
「ひどい!」
ヴァレリアが笑った。
声を上げて。
レオンの手が止まる。
「何だ」
「いや」
「言え」
「君、そんなふうに笑うんだな」
笑顔が消えた。
「悪いか?」
「逆」
レオンは盤上の駒を並べ直す。
「もっと笑えばいいのに」
ヴァレリアの長い指が止まった。
「……昔は」
「うん?」
「いや。何でもない」
再び駒を並べ始める。
「次だ」
「今度は本当に勝つ」
「期待していない」
八戦目もレオンが負けた。
◇
それからレオンは、何度も城を訪れた。
ただし。
毎回同じではなかった。
ある夜。
二人は巨大な食堂で向かい合っていた。
長いテーブルには二人しかいない。
何十人も座れそうなのに。
「これ、君が作ったの?」
レオンは皿の上の黒い物体を見る。
「そうだ」
「料理名は?」
「焼いた肉」
「……元は何の肉?」
「食べれば分かる」
「食べても分からない気がする」
「なら食うな」
「食べるよ」
一口。
「……」
「どうだ」
「ゴーレムって食べられるのかな」
「そこまで不味いか!?」
「冗談だ!」
ヴァレリアが本気で怒り始めたので、レオンは慌てて二口目を食べた。
少し焦げている。
いや、かなり焦げている。
それでも飲み込んだ。
ふと。
向こう側に並ぶ空席を見る。
「昔は、ここにたくさん人がいた?」
ヴァレリアの手が止まった。
「……なぜ聞く」
「椅子が多いから」
「くだらぬ理由だ」
「答えたくないならいい」
「聞かないのか?」
「君が話したくないんだろ」
ヴァレリアは黙った。
レオンは肉を切る。
「……昔は」
小さな声。
レオンは顔を上げた。
「賑やかだった」
それだけ。
「そうか」
レオンも、それ以上聞かなかった。
食事を続ける。
しばらくして。
「レオン」
「ん?」
「不味いなら残していい」
「じゃあ残す」
「少しは遠慮しろ!」
「どっちなんだよ!」
広い食堂に二人の声が響いた。
何年ぶりなのか。
その夜。
空っぽだった食堂には、長い間消えていた笑い声があった。
◇
別の日。
二人は城を歩いた。
色褪せた肖像画。
閉ざされた部屋。
枯れた花壇。
レオンは、一枚の大きな肖像画の前で足を止めた。
顔の部分だけが刃物で傷つけられている。
「これは?」
「見るな」
ヴァレリアがすぐに布をかけた。
その動きがあまりに早かったので、レオンは何も聞かなかった。
二人は歩き出す。
やがてヴァレリアが呟いた。
「美しいものを愛するのは簡単だ」
「え?」
「美しい花。宝石。整った顔」
彼女は前を向いたままだった。
「誰だって愛せる」
「そうかな」
「そうだ」
「僕は宝石には興味ないけど」
「そういう話ではない」
「分かってる」
レオンは横目で彼女を見る。
灰色の荒れた肌。
歪んだ顔。
黒い爪。
それでも。
以前ほど、その姿ばかりが目に入らなくなっていることに気づいた。
ヴァレリアが何か考えるとき、右の眉だけ少し上がること。
笑いを我慢すると、口元を爪で隠すこと。
盤上遊戯で罠を仕掛けるとき、紫の瞳がわずかに輝くこと。
そういうものの方が、先に目に入る。
「何だ?」
「何でもない」
「今、私の顔を見ていただろう」
「見ちゃ駄目?」
「……好きにしろ」
ヴァレリアは顔を背けた。
その耳が。
灰色の肌でも分かるほど、少し赤くなっていた。
◇
一週間の期限は過ぎた。
レオンは両親に、選んだ女性がいると伝えた。
これでもう。
ヴァレリアのもとへ通う必要はない。
翌日。
レオンは城へ行った。
その翌日も。
さらに翌日も。
四日目。
ヴァレリアが本を閉じた。
「レオン」
「何?」
「お前の問題はもう解決したのだろう?」
「何の?」
「結婚だ」
「ああ」
「では、なぜ来る?」
レオンは答えようとして。
止まった。
なぜ?
最初は逃げ道だった。
クラリッサとの結婚を避けたかった。
だが今は。
「君に会いたいから」
ヴァレリアが固まった。
「……私より美しい女など、いくらでもいる」
「いるだろうね」
「そこは否定しろ!」
「嘘は嫌いなんだろ?」
「お前は本当に腹が立つ!」
「でも」
レオンは笑った。
「君より会いたいと思う女性はいない」
ヴァレリアは何も言えなくなった。
レオンも、それ以上は言わなかった。
その夜。
城へ戻る途中。
ようやく自分で気づいた。
「……ああ」
馬上で額を押さえる。
「僕、本当に好きになってる」
◇
紹介の日。
ヴァレリアが王宮の大広間へ入った瞬間。
すべての会話が止まった。
国王。
王妃。
大臣。
貴族。
全員が彼女を見る。
嫌悪。
驚愕。
恐怖。
ヴァレリアは気づいていた。
しかし背筋を曲げなかった。
レオンは彼女の隣へ立つ。
「父上、母上」
そして。
「紹介します。忘れられた帝国の女帝、ヴァレリアです」
国王の口が少し開いた。
「……レオン」
「はい」
「少し話をしよう」
「ここでどうぞ」
「二人でだ」
「彼女に聞かれて困ることなら、話す必要はありません」
ヴァレリアの紫の瞳がレオンを見る。
国王は息を吐いた。
「本気なのか」
「本気です」
「お前なら、もっと――」
「父上」
レオンは遮った。
「選べと言いましたよね」
「……」
「自分が結婚したいと思える女性を連れてこい、と」
「ああ」
「僕は彼女を選びました」
広間が静まり返る。
ヴァレリアの長い黒い爪が震えた。
ほんの少し。
レオンは、その手を取った。
国王はしばらく二人を見つめていた。
やがて目を閉じる。
「……王は、自らの言葉を違えてはならぬ」
王妃が微笑んだ。
「あなたに似て頑固な子ですこと」
「お前に似たのだ」
「まあ」
ヴァレリアが小さく笑った。
◇
しかし。
王と王妃が認めても、他の者たちは違った。
噂は広がった。
――王子は魔女に魅了された。
――醜い女帝が王国を乗っ取ろうとしている。
――あんな怪物を未来の妃にするなど正気ではない。
そして。
最も激しく反発したのはクラリッサだった。
ある夜会。
彼女は大勢の貴族の前でヴァレリアへ近づいた。
「お気の毒ですわ、レオン様」
「何が?」
「魔術というものは恐ろしいのですね」
「かけられてない」
「ご本人には分からないものです」
「君との結婚を嫌がったときから僕は正気だよ」
周囲で誰かが咳払いした。
クラリッサの笑顔が引きつる。
「……その女の何がよろしいのです?」
レオンではなく。
今度はヴァレリアへ向いた。
「あなたも惨めですわね」
ヴァレリアは杯を置いた。
「何がだ?」
「鏡をご覧になったことは?」
「ある」
「なら分かるでしょう?」
「何が?」
「自分がどれほど醜いか」
広間の空気が凍った。
ヴァレリアの表情は変わらない。
ただ。
杯を持つ長い指が、ほんの少し強く締まった。
「クラリッサ」
レオンが呼ぶ。
「黙って」
ヴァレリアが止めた。
「続けさせろ」
「でも――」
「構わぬ」
クラリッサが笑った。
「王子の隣に立つ資格があると、本気で思っているのですか?」
「資格を決めるのはお前か?」
「少なくとも皆、同じことを思っていますわ」
周囲を見る。
誰もヴァレリアの目を見なかった。
「あなたのような怪物を、本気で愛せる人間などいるはずがありませんもの」
ヴァレリアの指が止まった。
その瞬間。
レオンは見た。
強気な女帝の顔ではない。
紫色の瞳が。
ほんの一瞬。
怯えた。
そして。
ヴァレリアがレオンを見る。
何も言わない。
だが。
レオンには分かった。
――本当に?
そう尋ねている。
レオンは歩いた。
クラリッサの前ではない。
ヴァレリアの隣へ。
黒い爪の手を握った。
「いるよ」
「……え?」
クラリッサが瞬く。
「彼女を愛している人間なら、ここにいる」
広間がざわめいた。
「レオン……」
「君は口が悪い」
「……は?」
「性格も悪い。ゲームでは容赦しない。料理は焦がす。最初に会ったときなんて僕を処刑しようとした」
「今それを言うのか!?」
何人かが思わず笑った。
レオンも笑う。
「でも、君といると楽しい」
ヴァレリアの瞳が揺れる。
「君と話したい。明日も会いたい。何十年経っても、君と盤上遊戯をして負けていたい」
「最後は勝て」
「努力する」
レオンは、その醜い顔をまっすぐ見つめた。
「僕は君を選んだ」
「……」
「愛してる、ヴァレリア」
紫の瞳から。
一粒。
涙が落ちた。
その瞬間。
ヴァレリアの首に走っていた黒い亀裂が、淡く光った。
「……!」
彼女は自分の首を押さえた。
「ヴァレリア?」
「来るな!」
突然、レオンの手を振りほどいた。
走り出す。
「ヴァレリア!」
追いかけた。
しかし。
廊下の先で銀色の光が弾ける。
彼女は消えた。
◇
レオンは探した。
王宮。
庭。
城下町。
そして。
あの森。
「ヴァレリア!」
夜になっていた。
枝で頬を切っても構わず進む。
「どこだ!」
返事はない。
やがて。
すすり泣く声を聞いた。
木々の向こう。
月明かりの下に、一人の女性が座っていた。
レオンは足を止めた。
見たことのない女性だった。
腰まで流れる、黄金色の髪。
月の光を受けるたび、一本一本が金糸のように輝いている。
白く滑らかな肌。
すっと通った鼻筋。
柔らかな唇。
細い顎。
涙に濡れた顔でさえ、息を呑むほど美しかった。
「……すみません」
レオンが声をかける。
女性の肩が震えた。
「この辺りで女性を見ませんでしたか?」
答えない。
「黒い髪で……」
「醜い女?」
レオンの呼吸が止まった。
女性が顔を上げる。
そして。
レオンは見た。
紫色の瞳。
何度も盤上越しに見た。
怒ったとき。
笑ったとき。
寂しさを隠したとき。
ずっと見てきた目。
「……ヴァレリア?」
女性の唇が震える。
「遅い」
「……」
「探すのが遅いと言っている!」
「ヴァレリア!?」
「何度言わせる!」
レオンは呆然とした。
しかし。
間違いない。
この怒り方。
この声。
そして、その目。
「どういうこと……?」
「呪いだ」
ヴァレリアは膝を抱えた。
「私は、ずっと呪われていた」
レオンは黙って隣に座った。
「昔の私は、この姿だった」
金色の髪を指ですくう。
「美しいと言われた。毎日のように」
自嘲するように笑う。
「臣下も、友も、求婚者も……皆、私を愛していると言った」
「……」
「だが、ある魔女の怒りを買った」
ヴァレリアは目を閉じる。
「『お前が愛されているのは、その顔があるからだ』と言われた」
レオンは、あの城を思い出した。
空席だらけの食堂。
枯れた庭。
誰もいない廊下。
傷つけられた肖像画。
「そして私は、あの姿になった」
ヴァレリアは笑った。
「驚いたぞ」
その声は笑っていなかった。
「皆、本当にいなくなった」
「……ヴァレリア」
「臣下も。友も。私を永遠に愛すると誓った男も」
金色の髪が顔を隠す。
「一人残らず」
レオンは何も言えなかった。
「呪いを解く方法は一つだった」
ヴァレリアが続ける。
「私の本当の姿を知らぬ者が、醜い私を心から愛すること」
レオンが目を見開く。
「じゃあ……」
「お前が解いた」
「僕が?」
「大馬鹿な王子がな」
「もう少し感動的に言えない?」
「無理だ」
いつもの返事。
レオンは少し笑った。
しかし。
ヴァレリアは笑わなかった。
「レオン」
「何?」
「私を見ろ」
見る。
美しい。
あまりにも。
「今なら」
ヴァレリアの声が震える。
「誰だって私を愛せる」
「……」
「お前もそうなのか?」
「どういう意味?」
「今の私を見てしまった」
紫の瞳から涙が落ちる。
「もう私は分からない」
「何が?」
「お前が愛しているのが……私なのか、この顔なのか」
レオンは答えなかった。
ヴァレリアの表情が曇る。
「……そうか」
「ヴァレリア」
「分かっている。男なら当然――」
「困ったなと思って」
「何?」
レオンは彼女を見る。
「確かに綺麗だ」
ヴァレリアが唇を噛む。
「でも、この顔だけじゃ分からない」
「何がだ」
「盤上遊戯が強いか」
「……は?」
「料理を焦がすか」
「おい」
「笑いを我慢するとき、口元を手で隠すか」
「……」
「罠を仕掛けたとき、右の眉が少し上がるか」
ヴァレリアの目が大きくなる。
「寂しいくせに、寂しいって絶対言わないか」
「レオン……」
「僕が好きになったのは、そっちだよ」
レオンは笑う。
「顔は変わった」
そっと彼女の頬に触れる。
「僕が愛した女は変わってない」
ヴァレリアの顔がくしゃりと歪んだ。
「……馬鹿」
「知ってる」
「大馬鹿だ」
「それも聞いた」
「最低だ」
「それは初めて聞いた」
ヴァレリアは泣きながら笑った。
「レオン」
「うん?」
「目を閉じろ」
「どうして?」
「いいから閉じろ!」
「はいはい」
目を閉じる。
次の瞬間。
唇に柔らかな感触が触れた。
ほんの一瞬。
目を開ける。
ヴァレリアは真っ赤になって顔を背けていた。
「今――」
「何も言うな」
「でも――」
「ゴーレムを呼ぶぞ」
「この森まで来るの?」
「試すか?」
「黙ります」
「よろしい」
そして。
二人は笑った。
◇
数か月後。
王都の大聖堂。
王子の婚礼を一目見ようと、多くの人々が集まっていた。
貴族。
大臣。
外国の使節。
そしてクラリッサも。
誰も。
花嫁の姿を知らされていなかった。
扉が開く。
ざわめきが止まった。
黄金色の髪。
白い花嫁衣装。
紫色の瞳。
息を呑むほど美しい女性が、ゆっくりと祭壇へ歩いてくる。
「誰だ……?」
「外国の王女か?」
「なんて美しい……」
「では、あの醜い女帝は?」
囁きが広がる。
クラリッサも呆然としていた。
やがて。
口元に小さな笑みを浮かべる。
「やはり……」
彼女が呟く。
「レオン様も目を覚まされたのね」
別の貴族が頷く。
「当然だ」
「あのような怪物より、こちらの方が王子にふさわしい」
「実にお似合いだ」
ヴァレリアの歩みが一瞬止まる。
だが。
祭壇で待っていたレオンが笑った。
彼女も笑う。
そして隣に立った。
レオンは参列者たちへ向き直った。
「皆様」
静寂。
「どうやら、まだ花嫁を紹介していませんでしたね」
クラリッサが微笑む。
レオンはヴァレリアの手を取った。
「僕が自分自身で選んだ女性」
ヴァレリアが彼を見る。
「僕が、誰に何を言われても妻にすると決めた女性」
広間を見渡す。
「そして――僕が愛する女性です」
一呼吸。
「忘れられた帝国の女帝、ヴァレリア」
沈黙。
「……え?」
誰かが声を漏らした。
クラリッサの笑顔が消える。
「う、嘘……」
「女帝?」
「あの女が!?」
「そんな……!」
ざわめきが爆発する。
そして。
昨日まで彼女を怪物と呼んでいた者たちが、今度は口々に言い始めた。
「なんと美しい……」
「やはり気品がおありだと思っていた」
「王子にふさわしいお方だ」
ヴァレリアは彼らを眺めた。
昔なら。
その言葉が欲しかった。
誰よりも。
今は。
「くだらんな」
小さく呟く。
「何か言った?」
レオンが尋ねる。
「いや」
ヴァレリアは彼の手を握る。
「私は一人いれば十分だ」
「何が?」
「教えぬ」
「気になる」
「一生考えていろ」
「また謎?」
その言葉で。
ヴァレリアが立ち止まった。
「あ」
「何?」
「そういえば」
彼女の口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「お前はまだ、私の最初の謎に答えていない」
「……今?」
「今だ」
「結婚式の途中なんだけど」
「答えろ」
「相変わらず横暴だな」
「処刑されたいか?」
「それ、妻になってからも使うつもり?」
「便利だからな」
レオンは苦笑した。
そして。
あの日の問いを思い出す。
――姿を見る前に選ぶことができる。
――だが、姿を見てから選んだのでは、私にとって意味が変わってしまうもの。
三日間考えても分からなかった。
今なら。
「愛」
ヴァレリアの紫色の瞳がわずかに開く。
「正確には――」
レオンは彼女の手を握る。
「姿に左右されない愛」
ヴァレリアは黙っている。
「美しい人を見て恋をすることが間違いだとは思わない」
レオンは続けた。
「でも、君が知りたかったのは、それじゃなかった」
「……」
「君は確かめたかったんだ」
あの孤独な城。
誰もいない食堂。
傷つけられた肖像画。
そして。
醜い姿で一人、玉座に座っていた女帝。
「自分の姿がどうであっても、誰かが君自身を選んでくれるのか」
長い沈黙。
ヴァレリアが微笑んだ。
「……正解だ」
「やっとか」
「遅すぎる」
「仕方ないだろ」
「何がだ」
「途中から謎より難しい女帝に夢中になってたんだから」
「誰のことだ?」
「僕を処刑しようとした、口が悪くて、料理が下手で、盤上遊戯だけは異常に強い女帝」
ヴァレリアは目を細めた。
「結婚式が終わったら処刑してやろう」
「せめて新婚旅行の後にしてくれ」
「考えておく」
「そこは否定してくれないんだ?」
ヴァレリアが笑う。
レオンも笑った。
かつて。
彼は結婚から逃げるために、妻を探していた。
誰でもいいわけではなかった。
それでも。
結婚とは、自分に課せられた義務なのだと思っていた。
今は違う。
レオンは自分からヴァレリアの手を取った。
そして。
かつて誰にも愛されるはずがないと思っていた女帝も。
その手を、強く握り返した。
二人は大勢の祝福と驚きの声の中で、夫婦となった。
その後。
王宮では、ときどき奇妙な噂が流れるようになったという。
夜になると王子夫妻の部屋から、
「待て! 今のは罠だろ!」
「戦場で敵に『罠を使うな』と頼むつもりか?」
「もう一回!」
「これで十二敗目だぞ」
そんな声が聞こえてくる、と。
どうやら王子が女帝に盤上遊戯で勝つという願いだけは――。
結婚してからも、なかなか叶わなかったらしい。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
ここまで読んでいただけたことだけでも、とても嬉しく思います。
まだまだ未熟なところも多いと思いますが、少しでも楽しんでいただけた部分があれば幸いです。
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「ここが少し気になった」
「こういうところをもっと読みたかった」
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もちろん、最後まで読んでいただけただけでも十分嬉しいです。
この物語を見つけてくださり、本当にありがとうございました。




