婚約破棄された悪役令嬢ですが、あなたが誇る『魅了魔法』は私の香水ですよ
「――セリア・クラウディス伯爵令嬢! 貴様のような嫉妬深く卑劣な悪役令嬢との婚約は、本日この場をもって破棄させてもらう!」
豪華絢爛な王宮の大広間。幾重にも重なるクリスタルのシャンデリアが眩い光を撒き散らす夜会の真っ只中、王太子エリック殿下の怒声が響き渡った。
殿下の隣には、儚げな美貌を誇る男爵令嬢マリアが寄り添っている。彼女は怯えたように身を縮めながらも、その瞳には隠しきれない優越感を宿していた。
「私には天性の『魅了魔法』で惹かれ合う、真の運命の相手たる聖女マリアがいるのだ! 貴様のように冷酷で、マリアを陰湿にいじめる女など、我が妃として絶対に認めん!」
エリック殿下は勝ち誇った顔で胸を張り、私を指さして嘲笑う。
集まった貴族たちの視線が一斉に私へと突き刺さった。哀れみ、嘲笑、好奇の目。
だが、私はそっと胸元で揺れる、深紅のルビーをあしらった銀のペンダントに手を触れながら、ただ冷ややかに微笑んだ。私の着ている夜会服は、真白なシルク地に繊細な銀糸で月下香の刺繍が施されたドレスだ。金糸を編み込んだ栗色の髪を気品高く結い上げた私は、静かに背筋を伸ばす。
皆様の期待するような、取り乱す姿はお見せできなくて申し訳ないけれど。
(本当に……お可哀想なエリック殿下)
彼は本気で信じ込んでいるのだ。自分が生まれながらにして万人に愛される、特別な『魅了魔法』の使い手であると。
男たちからは羨望の眼差しを向けられ、女たちは一目見ただけで彼に心酔し、どんな理不尽な命令すらも喜んで受け入れる。殿下はその全能感に酔いしれ、己のカリスマ性を疑ったことすらなかった。
けれど、真実はあまりにも残酷で、そして滑稽だ。
「……殿下。私は一度も、マリア様を害したことなどございません。それはすべて彼女の狂言であり――」
「黙れ! 言い訳など聞きたくもない! マリアの清らかな涙が、何よりの証拠だ!」
私の静かな主張を、エリック殿下は一蹴した。
彼の側に立ち、か弱く震えて見せるマリア男爵令嬢。周囲の貴族たちは、まるで信者のような狂信的な瞳で殿下とうなずき合っている。
その光景を見つめながら、私は心の中で静かに溜息をついた。
殿下の身体からは、いまも甘く濃厚な香りが漂っている。それはどこか果実のようであり、甘美な花々のようでもあり、人間の理性を心地よく麻痺させる魅惑の芳香。
人々が「天性の魅了魔法」と呼んで恐れ、讃えるものの正体。
――それは、私が調合した香水だ。
何を隠そう、私セリア・クラウディスは、王立調香師ギルドの最年少最高位マスターであり、裏社会では「天才調香師」と謳われる存在である。
幼少期、パッとしない容姿と凡庸な才能しか持たず、自信に満ち溢れた異母弟に王位を脅かされていたエリック殿下のために、私は持てる技術のすべてを注ぎ込んで「ある香水」を作り上げた。
その香水の名は『アルカディア』。
嗅いだ者の脳内に直接働きかけ、使用者を「抗いがたい魅力を持つ絶対的な支配者」と誤認させる極限の精神作用香水。調合には年に一度しか咲かない幻の花の抽出液と、数多の希少な魔導薬草を要する、私の最高傑作だ。
私がこれを三日ごとに殿下の衣類や肌に忍ばせ、香りを纏わせてあげていたからこそ、冴えない愚鈍な王子だった彼は「人を惹きつけるカリスマ王太子」として君臨することができたのだ。
しかし、権力と称賛を手に入れた殿下は、いつしか自分自身の力を錯覚し始めた。
「私は生まれながらの天才なのだ」「この魅了は神から与えられた天性の魔法なのだ」と。
そして挙げ句の果てに、裏で地道に香水を調合し続け、彼を支えてきた婚約者の私を「可愛げがない」「不気味だ」と疎み始めたのである。
挙げ句、どこからか現れた男爵令嬢マリアの甘言に乗り、こうして公の場で私を「悪役令嬢」と断罪してみせたのだ。
「セリア! 貴様との婚約は破棄し、我がクラウディス伯爵家からの支援もすべて打ち切る! 貴様のような不敬者は、今すぐこの夜会から失せろ!」
「……わかりました、エリック殿下。そのご意思、確かに受け賜わりました」
私はしずしずと深々と礼をした。
「婚約破棄された悪役令嬢ですが、あなたが誇る『魅了魔法』は私の香水ですよ」
私が小さく呟いたその言葉は、殿下の高笑いと会場の怒号にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
……まあ、いいわ。
言葉で説明するよりも、身をもって知るのが一番の薬でしょうから。
私は一度も振り返ることなく、華やかな夜会の会場を後にした。
婚約破棄から三日が経過した。
私はすでにクラウディス伯爵家を廃嫡してもらい(元々父も殿下の暴走に頭を痛めており、私を逃がすために協力してくれた)、王都の路地裏にある自身の調香工房に籠もっていた。
ガラス製のフラスコや試験管が並ぶ静寂な工房で、私はハーブの茶葉を煎じながら優雅なティータイムを楽しんでいた。
「お嬢様、王宮から使いの者が来ております。『大至急、殿下の元へ戻り謝罪せよ』との文ですが……」
長年私に仕えてくれている執事のルークが、呆れたような顔で手紙をトレイに乗せて運んできた。
「破棄すると言っておいて、随分と都合のいいことですわね。燃やして捨ててちょうだい」
「かしこまりました。……それにしても、そろそろ『効き目』が切れる頃でしょうか」
「ええ。三日経てば、肌に残った微香も完全に揮発して消え去るわ」
香水『アルカディア』の効果持続時間は、定期的に使用していても最大で七十二時間。
私が香水の供給を完全に止め、殿下の衣類の洗濯や部屋の香炉から香りを排除してしまえば、彼の「天性の魅了魔法」は影も形も無くなる。
その時、周囲の人々の「正気」が戻ったらどうなるか。
想像するだけで、フフッと笑みがこぼれてしまう。
その日の午後、王宮の政務室は未曽有の混乱に陥っていた。
「……な、なんだこれは!? エリック殿下、この書類の惨状は一体どういうことです!」
重臣である宰相の怒声が、政務室内に響き渡った。
机の上には、殿下が決裁したとされる書類の山。しかしその内容は、男爵家の税率を無制限に免除したり、地方の治水事業の予算をすべてマリア男爵令嬢のドレス代に回すといった、正気を疑うような過激で無茶苦茶な法案ばかりだった。
「な、なんだ宰相、その不敬な態度は! 私に向かって声を荒げるなど――」
「不敬だと!? これまでは殿下の特別な『威厳』に気圧されて判断が鈍っていたが、よくよく考えれば正気の沙汰ではない! こんな滅茶苦茶な決裁、認められるはずがないでしょう!」
宰相は頭を抱え、冷や汗を流しながら殿下を睨みつけた。
これまで、なぜか殿下の言うことなら何でも正しく思え、逆らう気すら起きなかった重臣たち。だが今、彼らの頭を覆っていた霧のような洗脳状態が、完全に晴れていたのだ。
「ひっ……!? な、なぜだ……私の魅了魔法が……効いていない……!?」
エリック殿下は青ざめた顔で己の手を見つめた。
いつもなら、自分が一声発せれば、どんな気難しい臣下も「殿下のおっしゃる通りです」と平伏したはずなのだ。
焦った殿下は、通りがかった近衛騎士たちを呼び止めた。
「おい! そこの者たち! 宰相が私に反逆しようとしている! 今すぐ捕らえろ!」
「……は? エリック殿下、何を仰っているのですか? 理由もなく宰相閣下を拘束するなど不可能です」
「な……ッ! 私の命令だぞ!? 私は天に愛された王子だぞ! なぜ従わない!」
「命じられましても……失礼ですが殿下、本日の殿下は少々……その、匂いも普通ですし、威厳というものがまったく感じられないのですが……」
騎士たちはあからさまに嫌そうな顔をし、引き腰になった。
そう、彼らが殿下に感じていた神聖なカリスマ性や威光は、すべて『アルカディア』が脳に与えていた錯覚に過ぎない。
香りが消えた今のエリック殿下は、ただの「我が儘で仕事ができない、顔が良いだけの平凡な男」でしかなかったのだ。
「そんな……バカな……! 私の……私の魅了魔法が……!」
「エリック様ぁ〜ん、どうしたのですかぁ?」
そこへ、着飾ったマリア男爵令嬢が媚びるような笑みを浮かべて現れた。
「マリア! マリア、お前ならわかるだろう!? 私と運命で結ばれた聖女であるお前なら、私の溢れ出る魅力を感じ取れるはずだ!」
殿下は縋りつくようにマリアの肩を掴んだ。
しかし、マリアは殿下の顔を間近で見つめると、急に引きつったような表情を浮かべ、さっと距離を取った。
「……え? あの……エリック様……?」
「どうしたマリア!?」
「なんか……すごく……普通ですね? というか、なんだか頼りないし、声もウルサイし……ううん、なんで私、こんな人のために男爵家で威張ってたんだろ……?」
「な、なんだと……!?」
マリアにとっても、殿下の『魅了』は絶大だったのだ。
しかし香水が切れた今、彼女の目にも殿下は単なる「口ほどにもない世浮かれ王子」にしか映らない。
運命の愛などというものは最初から存在せず、ただ香水によって歪められた感情の錯覚に過ぎなかったのだから。
追いうちをかけるように、王宮内に鐘の音が鳴り響いた。
国王陛下が、緊急の謁見を開くという合図だった。
王宮の大講堂には、国王陛下をはじめ、文武百官、そして名だたる大貴族たちが集結していた。
壇上に引きずり出されたエリック殿下とマリア男爵令嬢は、青ざめた顔でガタガタと震えている。
「エリック……お前の愚行、もはや庇いきれん」
玉座に腰掛けた国王陛下は、痛悪に満ちた眼差しで我が子を見下ろしていた。
「セリア嬢との婚約を勝手に破棄したばかりか、重要書類の乱造、国家予算の私的流用……何より、セリア嬢という我が国の宝たる『最高位調香師』を不当に追放した罪は重い!」
「父上! 違います! 私は悪くありません! 私はただ、自分の天性の魔法で……!」
「黙れ!!」
国王の一声が講堂に響き渡る。
「お前が『魅了魔法』と呼んでいたものの正体について、クラウディス伯爵から報告を受けた! ……セリア嬢が作った特別製香水『アルカディア』の効果だったとな!」
「な……ッ!?」
エリック殿下は絶句した。
その時、講堂の重厚な扉が開き、ドレスを纏った私が静歩で入ってきた。
「――お呼びでしょうか、国王陛下」
「おお、セリア嬢! よく来てくれた。……エリック、見よ。お前が踏みにじったのは、我が国の国益そのものだ」
私はエリック殿下の前に歩み寄り、冷ややかな視線を投げかけた。
「う、嘘だ……! 嘘だセリア! あれは私の力だ! 私が生まれながらに持っていたカリスマなのだ! 貴様ごときが作った香水ごときで、人々が私にひれ伏すはずがない!」
「いいえ、殿下。あれはすべて私の調香によるものです」
私はポケットから、小さなクリスタル製瓶を取り出した。
ふたを少しだけ緩めると、瞬く間に甘美で芳醇な香りが広がる。
「あっ……! その香り……! それだ! 私の体から漂っていたのは、その香りだ!」
貴族たちが息を呑む。香りを目にした瞬間、誰もがかつての「神々しい殿下」の幻影を思い出し、そして一瞬で理解した。殿下のカリスマの正体が、瓶に入ったただの液体であったという事実を。
「殿下は三日ごとに私が差し上げる香水を、『肌に馴染む不思議な魅了の汗』だと信じ込んでおられましたね。……あまりに愚かで、指摘する気にもなれませんでしたけれど」
「あ……ああ……」
「あなたが誇る『魅了魔法』は私の香水ですよ。それなしでは、貴方はただの無能な王子でしかなかったのです」
私の決定的な一言が、講堂内に響き渡った。
「ざまぁみろ」と言わんばかりの冷徹な事実の提示。それが、エリック殿下の誇りとプライドを完璧に打ち砕いた瞬間だった。
「うあ……ああああっ!」
殿下はその場に崩れ落ち、頭を抱えて泣き叫んだ。
彼を「運命の人」と持ち上げていたマリア男爵令嬢も、「騙された!」と叫んで逃げ出そうとしたが、騎士たちにあっさりと取り押さえられた。
「エリック・フォン・グランヴェル! お前を王太子の座から廃嫡し、北方辺境の修道院へ永久追放とする! マリア男爵令嬢もまた、国家惑乱の罪で平民へ降格、幽閉とする!」
国王陛下の厳格な判決が下り、場内からは歓声と拍手が巻き起こった。
自らの身の程を知らず、他人の成果を自分の才能だと過信し、支えてくれた者を害した愚か者たちの、これ以上ない自業自得の結末だった。
騒動から数ヶ月が経った。
王宮から無事に離脱できた私は、王都の一角に念願だった自分の小さな香水専門店をオープンさせていた。
「店主様、本日も開店前から大行列ですよ」
「まあ、嬉しい悲鳴ね。ルーク、準備を手伝ってちょうだい」
私の店『セリアの香油堂』は、連日大繁盛だった。
王太子を失脚させた「幻の調香師」としての名声は瞬く間に広がり、今や国内外の貴族や富豪たちが、私の作る安全で美しい香水を求めて殺到しているのだ。
もちろん、人の心を歪めるような『アルカディア』のような危険な香水は二度と作らない。今作っているのは、人を幸せにし、心を癒やすための真の香水だ。
「セリア様、少しお時間をよろしいでしょうか?」
店の奥から現れたのは、第二王子のルシアン様だった。
かつて幼いエリック殿下が王位を脅かされると恐れた、あの異母弟が彼である。兄であるエリック殿下が廃嫡された後、誠実で聡明な彼が新たな立太子として選ばれたのだ。彼は私の店の常連であり、私の才能を誰よりも正当に評価してくれている。
「ルシアン様。本日はどのような香りをお求めで?」
「いえ……今日は香水を買うためではなく、あなたに申し込みたいことがありまして」
ルシアン様は少し耳を赤くしながら、美しい紺色の瞳でまっ振りに私を見つめた。
「私の正式な婚約者として、傍にいていただけないでしょうか。……もちろん、香水による魅了などではなく、私の素の心からの願いです」
「ルシアン様……」
「あなたの作る香りは素晴らしい。ですが、私にとって最も愛おしいのは、その香りを生み出すあなたの情熱と、凛とした気高さそのものです」
まっすぐで、偽りのない言葉。
誰かを狂わせる香水など使わなくても、心と心が通じ合う本物の温もりが、そこにはあった。
私はそっと微笑み、彼の手に自分の手を重ねた。
「ふふ……喜んで、お受けいたしますわ」
窓から差し込む温かな日差しの中、新しい店には心地よい花の香りが満ちていた。
愚かな元婚約者はすべてを失い消えていったけれど、私は自分の力で、最高のハッピーエンドを掴み取ったのだ。




