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「令嬢」としか呼ばないあなたへ、婚約の指輪をお返ししま

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/10

 夜会の広間で、婚約者は幼馴染の名を呼んだ。


「マルグリット、踊ろうか」


 柔らかい声。親しげな笑み。

 隣にいた侍従にも「ヴィクトル、飲み物を」と気さくに声をかけ、すれ違った侍女にすら「エマ、ありがとう」と微笑んでみせた。

 アレクシス・フォン・シュタール公爵嫡男は、誰に対しても分け隔てなく名前で呼ぶ人だった。


 ——私を、除いて。


「令嬢、今宵も美しいですね」


 3年間、ずっとそうだった。

 令嬢。令嬢。令嬢。

 私の名前はリーゼロッテ・フォン・ヴァイス。8文字もある長い名前だけれど、覚えていただく程度の価値はあると思っていた。少なくとも最初の1年は。


「ありがとうございます、シュタール様」


 微笑んで、グラスに口をつける。

 扇の向こうで、令嬢たちが囁いていた。

 ——公爵嫡男様、幼馴染のマルグリット様のほうがお似合いですわよね。

 ——だって、婚約者のことは「令嬢」としかお呼びにならないんですもの。

 いつもの噂。いつもの夜。

 ただ今夜は、マルグリットの名を呼ぶ声が妙にはっきり聞こえて、胸の奥で何かが静かに折れた。


 私は扇を閉じた。


「シュタール様。少しお時間をいただけますか」


 露台に出ると、夜風が冷たかった。

 彼は穏やかな顔でこちらを向いた。相変わらず、完璧な微笑みだ。


「お話というのは?」


「婚約の指輪を、お返しいたします」


 差し出した手は震えなかった。3年かけて、こうなる練習は充分にしてきたから。

 アレクシスの微笑みが、凍った。


「——は?」


「3年間、お世話になりました」


「待ってくれ。何が——」


「何が、ではありません」


 声は自分でも驚くほど静かだった。


「シュタール様は、マルグリット様を『マルグリット』とお呼びになります。ヴィクトル様を『ヴィクトル』と。エマさんを『エマ』と。厨房の料理長すら『ハンス』と呼んでいらっしゃいました」


 指を折る。1本、2本、3本。


「この3年で、私が名前で呼ばれたことは一度もありません。いつも『令嬢』です」


 アレクシスの顔から、完全に血の気が引いた。


「それ、は——」


「ご安心ください。責めているのではありません。ただ、事実を申し上げています」


 だって、彼が悪いわけではない。好きになれない相手を好きになれと言うほうが無理だ。呼称とは距離の表れ。名前を呼ばないとは、近づきたくないということ。

 3年かけて理解した結論を、私はようやく口にした。


「『令嬢』としか呼べない方のお隣に、これ以上いる意味がわかりません」


 指輪を彼の掌に置く。

 踵を返す。


「待っ——令嬢!」


 ほら。

 やっぱり、令嬢。


「お元気で」


 涙は出なかった。出ないように、ずっと、練習してきたのだから。



    *



 翌朝。

 婚約解消の書類を整えるため、シュタール公爵邸に荷物を引き取りに来た。

 応接間でヴィクトルが出迎えてくれた。いつも通りの完璧な所作。ただ、目の下の隈がひどい。


「リーゼロッテ様、お荷物はこちらに」


 ——あなたは呼んでくださるのに。


「ヴィクトル様。昨夜は大変でしたか」


「……大変という言葉では足りません」


 彼は周囲を確認してから、声を落とした。


「殿下は昨夜から一睡もされておりません。執務室に籠もったきり、出てこないのです」


「まあ。突然の話でしたものね」


「突然ではありません」


 ヴィクトルの声に、初めて感情が混じった。


「殿下。もう3年です。3年。私が何度『リーゼロッテ様、とお呼びしてはいかがですか』と申し上げたかご存知ですか。100回は申し上げました。100回ですよ。私の胃がもちません」


 その切実さに、少し笑ってしまった。


「ヴィクトル様の胃は大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません。殿下のせいで薬が手放せなくなりました」


 荷物は思ったより少なかった。

 着替え、数冊の本、それから——文箱。

 婚約期間中に届いた手紙をまとめていた箱だ。


「こちらは、殿下からの贈り物の包みも入っております。ご確認ください」


 文箱を開けた。

 手紙は全て「令嬢へ」で始まっていた。当然だ。


 ただ。


 贈り物の包み紙の裏側に、何か書いてあった。


 ——リーゼロ


 途中で止まっている。

 別の包み紙の裏にも。


 ——リーゼロッテ ロッテ リーゼ


 何度も書いて、何度も消した跡。

 インクが滲んで、紙が少し波打っている。


 次の包み紙。


 ——リーゼロッテ様へ、と書きたかった。


 一行だけ。震える字で。


 その下に、横線が引かれて消されていた。


「……ヴィクトル様」


「はい」


「これは」


「……私からは何も申し上げられません。殿下のお許しなく」


 文箱の底から、もう一つ、折り畳まれた紙が出てきた。

 開くと、便箋一枚に、同じ名前が繰り返されていた。


 リーゼロッテ

 リーゼロッテ

 リーゼロッテ

 リーゼロッテ


 何枚も、何枚も。

 私の名前だけが、震える筆跡で、繰り返されていた。


 指先が冷たくなった。


「——これは、いつ」


「婚約初日からです」


 ヴィクトルが、静かに言った。


「殿下は、あなたの名前を口にしようとすると——声が、出なくなるのです」



    *



 廊下を歩きながら、頭の中が混乱していた。

 名前を呼べないのではなく、呼ぼうとして——呼べなかった?

 3年間?

 3年間、ずっと?


 荷物を抱えたまま、執務室の前を通りかかった。扉が薄く開いている。

 中から声が聞こえた。


「——リーゼ、ロッテ」


 区切れている。

 明らかに、練習している声だった。


「リーゼロッテ。リーゼロッテ。……駄目だ、舌が回らない」


「あんた、いい加減にしなさいよ!」


 マルグリットの声。


「3年も何してたの! 私が何回練習に付き合ったと思ってるの!」


「わかっている、わかっているが——」


「わかってないから逃げられたんでしょうが!」


「逃げられた、という言い方はやめてくれ……事実だが……」


「事実でしょ!!」


 扉の隙間から、見えた。

 公爵嫡男が、執務机に突っ伏している。隣で幼馴染が腕を組んで仁王立ちしている。

 その構図があまりにも情けなくて、あまりにも——愛おしかった。


「リーゼロッテ、って言ってみなさいよ。ほら」


「り、リーゼ——」


「ロッテ! ロッテまで言いなさい!」


「リーゼロッ——……ッ」


 噛んだ。

 公爵嫡男が、自分の婚約者の名前で、舌を噛んだ。


 マルグリットが天を仰いだ。


「……もう帰っていい?」


「待ってくれ、もう一回——」


 私は、扉から離れた。

 胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。


 笑いたいのか泣きたいのかわからない。

 ただ——名前を呼べないから距離を置いていたのではなく、名前を呼ぼうとして3年間もがいていた人が、いた。


 でも。


 足を止めた。

 振り返らなかった。


「——知っていても」


 声に出したのは、自分だけに聞こえる音量で。


「言葉にしてくれなければ、届かないのよ」


 荷物を抱え直す。

 馬車は玄関に待たせてある。


 これで、終わり。

 あとは書類の手続きだけ。


 廊下を進む。途中、公爵家の事務官が書類の束を抱えて通りかかった。

 ちらりと見えた公文書の宛名欄。


「リーゼロッテ殿」


 ——の、「リ」の字だけが、異様に筆圧が濃かった。

 まるで、この一文字を書くたびに覚悟を決めているような筆跡。


 泣きそうになった。泣かなかった。

 廊下の窓から、庭園が見えた。手入れの行き届いた薔薇。リーゼロッテ種。

 3年前、婚約記念に植えてくれた薔薇だった。


 名札がついている。


 ——リーゼロッテ。


 花には、呼べるのだ。

 花には。


「……馬鹿」


 震える声が、廊下に落ちた。



    *



「リーゼロッテ様」


 馬車に乗り込もうとした瞬間、ヴィクトルが走ってきた。


「お待ちください。もう一つだけ——」


「ヴィクトル様。これ以上は」


「社交界の件です」


 息を整えながら、彼は告げた。


「昨夜の夜会で、あなたについて噂を流していた令嬢方——レーゲンスブルク伯爵令嬢とノイマン男爵令嬢ですが」


「ああ。扇の向こうで囁いていた方々ですね」


「今朝、公爵閣下が直々にレーゲンスブルク伯爵家とノイマン男爵家へ書状を送りました。『我が家の客人に対する侮辱は、シュタール家への侮辱と同義である』と」


「……婚約解消の話はもう」


「閣下は、『まだ解消されていない以上、あなたは我が家の客人である』と」


 ヴィクトルが初めて、疲弊ではない表情を見せた。


「殿下ではありません。殿下がお願いしたのでもありません。閣下がご自身の判断で動かれたのです。あなたが3年間、シュタール家に対して礼を欠かさなかったことを、閣下はずっと見ておられました」


 足が止まった。


「そして——」


 屋敷の正面扉が、大きな音を立てて開いた。

 アレクシスが走ってくる。

 上着もなく、髪も乱れたまま。公爵嫡男にあるまじき姿で。

 マルグリットが後ろから「転ぶわよ!」と叫んでいる。


 彼は、私の前で止まった。

 肩で息をしている。

 目が赤い。一睡もしていないのが、わかる。


「令嬢——」


 また。

 また、令嬢。

 もう——


「——じゃ、ない」


 彼が、拳を握った。

 顔が、赤い。耳まで。首まで。


「令嬢じゃ、ない。違う。ずっと、言いたかった」


 声が、震えていた。


「3年間、毎日練習した。包み紙の裏に書いた。便箋に何十回も書いた。ヴィクトルにも、マルグリットにも笑われた。あなたの前に立つと声が出なくなるんだ。あなたが綺麗すぎて、笑うと胸が潰れそうで、名前を口にしたら全部——全部伝わってしまう気がして」


 息を吸う音が聞こえた。

 彼の。

 ——私の。


「リーゼ——」


 止まる。喉が詰まるのが見えた。

 ヴィクトルが目を閉じた。マルグリットが拳を握った。

 庭師が手を止めた。門番が背筋を伸ばした。

 全員が、息を止めていた。


「——リーゼロッテ」


 声が、震えていた。

 不格好で、途切れそうで、それでも最後まで——


「リーゼロッテ。僕の、リーゼロッテ。行かないでくれ」


 ああ。


 3年間、ずっと聞きたかった音が、こんなにも不器用に、こんなにも必死に、届いた。


「……何ですか、その顔は」


 声が震えるのを止められなくて、仕方なく笑った。


「練習の成果が、3年越しですか」


「…………遅く、なった」


「ええ。とても」


「すまない」


「謝らないでください」


 指輪を、昨夜返したはずだった。

 彼がポケットから出した。一晩中握っていたのだろう。体温で温まっていた。


「もう一度、渡してもいいか」


「条件があります」


「何でも」


「毎日呼んでください。私の名前」


 彼の耳が、限界まで赤くなった。


「……毎日は」


「毎日です」


「……善処する」


「善処ではなく、確約を」


 ヴィクトルが背後で崩れ落ちた。

 マルグリットが「やっっっと!!」と叫んだ。


 アレクシスが、不器用に、指輪を嵌めてくれた。

 指先が震えていた。私の指も、たぶん同じくらい。


「リーゼロッテ」


 2度目は、少しだけ滑らかだった。


「リーゼロッテ」


 3度目は、笑っていた。


「——ああ、もっと早く言えばよかった」


 そうですよ、と言おうとして、声が詰まった。


 だって——こんなにも優しい声で、私の名前を呼ぶ人が、ずっとここにいたのだから。


 庭園の薔薇が揺れた。

 名札に書かれた「リーゼロッテ」の文字が、朝の光に透けている。


 花に呼べるなら、きっと最初から——

 この人は、私の名前を、世界で一番大切に思っていたのだ。

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