「令嬢」としか呼ばないあなたへ、婚約の指輪をお返ししま
夜会の広間で、婚約者は幼馴染の名を呼んだ。
「マルグリット、踊ろうか」
柔らかい声。親しげな笑み。
隣にいた侍従にも「ヴィクトル、飲み物を」と気さくに声をかけ、すれ違った侍女にすら「エマ、ありがとう」と微笑んでみせた。
アレクシス・フォン・シュタール公爵嫡男は、誰に対しても分け隔てなく名前で呼ぶ人だった。
——私を、除いて。
「令嬢、今宵も美しいですね」
3年間、ずっとそうだった。
令嬢。令嬢。令嬢。
私の名前はリーゼロッテ・フォン・ヴァイス。8文字もある長い名前だけれど、覚えていただく程度の価値はあると思っていた。少なくとも最初の1年は。
「ありがとうございます、シュタール様」
微笑んで、グラスに口をつける。
扇の向こうで、令嬢たちが囁いていた。
——公爵嫡男様、幼馴染のマルグリット様のほうがお似合いですわよね。
——だって、婚約者のことは「令嬢」としかお呼びにならないんですもの。
いつもの噂。いつもの夜。
ただ今夜は、マルグリットの名を呼ぶ声が妙にはっきり聞こえて、胸の奥で何かが静かに折れた。
私は扇を閉じた。
「シュタール様。少しお時間をいただけますか」
露台に出ると、夜風が冷たかった。
彼は穏やかな顔でこちらを向いた。相変わらず、完璧な微笑みだ。
「お話というのは?」
「婚約の指輪を、お返しいたします」
差し出した手は震えなかった。3年かけて、こうなる練習は充分にしてきたから。
アレクシスの微笑みが、凍った。
「——は?」
「3年間、お世話になりました」
「待ってくれ。何が——」
「何が、ではありません」
声は自分でも驚くほど静かだった。
「シュタール様は、マルグリット様を『マルグリット』とお呼びになります。ヴィクトル様を『ヴィクトル』と。エマさんを『エマ』と。厨房の料理長すら『ハンス』と呼んでいらっしゃいました」
指を折る。1本、2本、3本。
「この3年で、私が名前で呼ばれたことは一度もありません。いつも『令嬢』です」
アレクシスの顔から、完全に血の気が引いた。
「それ、は——」
「ご安心ください。責めているのではありません。ただ、事実を申し上げています」
だって、彼が悪いわけではない。好きになれない相手を好きになれと言うほうが無理だ。呼称とは距離の表れ。名前を呼ばないとは、近づきたくないということ。
3年かけて理解した結論を、私はようやく口にした。
「『令嬢』としか呼べない方のお隣に、これ以上いる意味がわかりません」
指輪を彼の掌に置く。
踵を返す。
「待っ——令嬢!」
ほら。
やっぱり、令嬢。
「お元気で」
涙は出なかった。出ないように、ずっと、練習してきたのだから。
*
翌朝。
婚約解消の書類を整えるため、シュタール公爵邸に荷物を引き取りに来た。
応接間でヴィクトルが出迎えてくれた。いつも通りの完璧な所作。ただ、目の下の隈がひどい。
「リーゼロッテ様、お荷物はこちらに」
——あなたは呼んでくださるのに。
「ヴィクトル様。昨夜は大変でしたか」
「……大変という言葉では足りません」
彼は周囲を確認してから、声を落とした。
「殿下は昨夜から一睡もされておりません。執務室に籠もったきり、出てこないのです」
「まあ。突然の話でしたものね」
「突然ではありません」
ヴィクトルの声に、初めて感情が混じった。
「殿下。もう3年です。3年。私が何度『リーゼロッテ様、とお呼びしてはいかがですか』と申し上げたかご存知ですか。100回は申し上げました。100回ですよ。私の胃がもちません」
その切実さに、少し笑ってしまった。
「ヴィクトル様の胃は大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません。殿下のせいで薬が手放せなくなりました」
荷物は思ったより少なかった。
着替え、数冊の本、それから——文箱。
婚約期間中に届いた手紙をまとめていた箱だ。
「こちらは、殿下からの贈り物の包みも入っております。ご確認ください」
文箱を開けた。
手紙は全て「令嬢へ」で始まっていた。当然だ。
ただ。
贈り物の包み紙の裏側に、何か書いてあった。
——リーゼロ
途中で止まっている。
別の包み紙の裏にも。
——リーゼロッテ ロッテ リーゼ
何度も書いて、何度も消した跡。
インクが滲んで、紙が少し波打っている。
次の包み紙。
——リーゼロッテ様へ、と書きたかった。
一行だけ。震える字で。
その下に、横線が引かれて消されていた。
「……ヴィクトル様」
「はい」
「これは」
「……私からは何も申し上げられません。殿下のお許しなく」
文箱の底から、もう一つ、折り畳まれた紙が出てきた。
開くと、便箋一枚に、同じ名前が繰り返されていた。
リーゼロッテ
リーゼロッテ
リーゼロッテ
リーゼロッテ
何枚も、何枚も。
私の名前だけが、震える筆跡で、繰り返されていた。
指先が冷たくなった。
「——これは、いつ」
「婚約初日からです」
ヴィクトルが、静かに言った。
「殿下は、あなたの名前を口にしようとすると——声が、出なくなるのです」
*
廊下を歩きながら、頭の中が混乱していた。
名前を呼べないのではなく、呼ぼうとして——呼べなかった?
3年間?
3年間、ずっと?
荷物を抱えたまま、執務室の前を通りかかった。扉が薄く開いている。
中から声が聞こえた。
「——リーゼ、ロッテ」
区切れている。
明らかに、練習している声だった。
「リーゼロッテ。リーゼロッテ。……駄目だ、舌が回らない」
「あんた、いい加減にしなさいよ!」
マルグリットの声。
「3年も何してたの! 私が何回練習に付き合ったと思ってるの!」
「わかっている、わかっているが——」
「わかってないから逃げられたんでしょうが!」
「逃げられた、という言い方はやめてくれ……事実だが……」
「事実でしょ!!」
扉の隙間から、見えた。
公爵嫡男が、執務机に突っ伏している。隣で幼馴染が腕を組んで仁王立ちしている。
その構図があまりにも情けなくて、あまりにも——愛おしかった。
「リーゼロッテ、って言ってみなさいよ。ほら」
「り、リーゼ——」
「ロッテ! ロッテまで言いなさい!」
「リーゼロッ——……ッ」
噛んだ。
公爵嫡男が、自分の婚約者の名前で、舌を噛んだ。
マルグリットが天を仰いだ。
「……もう帰っていい?」
「待ってくれ、もう一回——」
私は、扉から離れた。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。
笑いたいのか泣きたいのかわからない。
ただ——名前を呼べないから距離を置いていたのではなく、名前を呼ぼうとして3年間もがいていた人が、いた。
でも。
足を止めた。
振り返らなかった。
「——知っていても」
声に出したのは、自分だけに聞こえる音量で。
「言葉にしてくれなければ、届かないのよ」
荷物を抱え直す。
馬車は玄関に待たせてある。
これで、終わり。
あとは書類の手続きだけ。
廊下を進む。途中、公爵家の事務官が書類の束を抱えて通りかかった。
ちらりと見えた公文書の宛名欄。
「リーゼロッテ殿」
——の、「リ」の字だけが、異様に筆圧が濃かった。
まるで、この一文字を書くたびに覚悟を決めているような筆跡。
泣きそうになった。泣かなかった。
廊下の窓から、庭園が見えた。手入れの行き届いた薔薇。リーゼロッテ種。
3年前、婚約記念に植えてくれた薔薇だった。
名札がついている。
——リーゼロッテ。
花には、呼べるのだ。
花には。
「……馬鹿」
震える声が、廊下に落ちた。
*
「リーゼロッテ様」
馬車に乗り込もうとした瞬間、ヴィクトルが走ってきた。
「お待ちください。もう一つだけ——」
「ヴィクトル様。これ以上は」
「社交界の件です」
息を整えながら、彼は告げた。
「昨夜の夜会で、あなたについて噂を流していた令嬢方——レーゲンスブルク伯爵令嬢とノイマン男爵令嬢ですが」
「ああ。扇の向こうで囁いていた方々ですね」
「今朝、公爵閣下が直々にレーゲンスブルク伯爵家とノイマン男爵家へ書状を送りました。『我が家の客人に対する侮辱は、シュタール家への侮辱と同義である』と」
「……婚約解消の話はもう」
「閣下は、『まだ解消されていない以上、あなたは我が家の客人である』と」
ヴィクトルが初めて、疲弊ではない表情を見せた。
「殿下ではありません。殿下がお願いしたのでもありません。閣下がご自身の判断で動かれたのです。あなたが3年間、シュタール家に対して礼を欠かさなかったことを、閣下はずっと見ておられました」
足が止まった。
「そして——」
屋敷の正面扉が、大きな音を立てて開いた。
アレクシスが走ってくる。
上着もなく、髪も乱れたまま。公爵嫡男にあるまじき姿で。
マルグリットが後ろから「転ぶわよ!」と叫んでいる。
彼は、私の前で止まった。
肩で息をしている。
目が赤い。一睡もしていないのが、わかる。
「令嬢——」
また。
また、令嬢。
もう——
「——じゃ、ない」
彼が、拳を握った。
顔が、赤い。耳まで。首まで。
「令嬢じゃ、ない。違う。ずっと、言いたかった」
声が、震えていた。
「3年間、毎日練習した。包み紙の裏に書いた。便箋に何十回も書いた。ヴィクトルにも、マルグリットにも笑われた。あなたの前に立つと声が出なくなるんだ。あなたが綺麗すぎて、笑うと胸が潰れそうで、名前を口にしたら全部——全部伝わってしまう気がして」
息を吸う音が聞こえた。
彼の。
——私の。
「リーゼ——」
止まる。喉が詰まるのが見えた。
ヴィクトルが目を閉じた。マルグリットが拳を握った。
庭師が手を止めた。門番が背筋を伸ばした。
全員が、息を止めていた。
「——リーゼロッテ」
声が、震えていた。
不格好で、途切れそうで、それでも最後まで——
「リーゼロッテ。僕の、リーゼロッテ。行かないでくれ」
ああ。
3年間、ずっと聞きたかった音が、こんなにも不器用に、こんなにも必死に、届いた。
「……何ですか、その顔は」
声が震えるのを止められなくて、仕方なく笑った。
「練習の成果が、3年越しですか」
「…………遅く、なった」
「ええ。とても」
「すまない」
「謝らないでください」
指輪を、昨夜返したはずだった。
彼がポケットから出した。一晩中握っていたのだろう。体温で温まっていた。
「もう一度、渡してもいいか」
「条件があります」
「何でも」
「毎日呼んでください。私の名前」
彼の耳が、限界まで赤くなった。
「……毎日は」
「毎日です」
「……善処する」
「善処ではなく、確約を」
ヴィクトルが背後で崩れ落ちた。
マルグリットが「やっっっと!!」と叫んだ。
アレクシスが、不器用に、指輪を嵌めてくれた。
指先が震えていた。私の指も、たぶん同じくらい。
「リーゼロッテ」
2度目は、少しだけ滑らかだった。
「リーゼロッテ」
3度目は、笑っていた。
「——ああ、もっと早く言えばよかった」
そうですよ、と言おうとして、声が詰まった。
だって——こんなにも優しい声で、私の名前を呼ぶ人が、ずっとここにいたのだから。
庭園の薔薇が揺れた。
名札に書かれた「リーゼロッテ」の文字が、朝の光に透けている。
花に呼べるなら、きっと最初から——
この人は、私の名前を、世界で一番大切に思っていたのだ。
【作者から読者様へお願いがあります】
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