第5話「神龍、飛ぶ」
## 1
暗い部屋だった。
窓のない石壁の空間に、錆びたパイプ椅子がひとつ。その上にクラウスは座らされていた。両手首は背もたれの後ろで魔術錠によって繋がれ、足首にも同様の拘束具が嵌められている。
クラウスは静かに息を吐いた。
抵抗した痕跡は、スーツの袖口に残る土汚れと、額の端にうっすらとにじむ切り傷だけだった。それ以外、彼の表情は驚くほど平坦だった。まるで電車を一本逃した程度の不便さしか感じていないかのように。
足音が近づいてくる。
ふたつ。重いのと、軽いの。
扉が開くと、まず入ってきたのは大柄な男だった。日に焼けた肌、顎に走る古い刀傷、そして腰に吊った二丁の魔導拳銃。賞金稼ぎガンダ。元冒険者崩れの、品のない笑みを浮かべた男である。
その後ろから、対照的に痩せた長身の男が続いた。銀縁の眼鏡、白衣のような長いローブ、そして指先に嵌められた大小様々な指輪——すべてが魔術触媒だ。魔術師ラムウ。
「久しぶりだな、クラウス」
ガンダが椅子の前にしゃがみ込んだ。煙草の匂いがする。
「私に一体なんの用ですか」
クラウスの声は、まるでオフィスで来客を迎えるときのそれだった。
ガンダの目が不快そうに細くなる。
「忘れたとは言わせねぇぜ。お前は俺の狙っていた賞金首を横取りした」
「……ああ」
クラウスはわずかに目を伏せた。記憶の引き出しを探っている顔だ。
「ガンダ、でしたか。灰狼のガンダ。八年前の——」
「そうだ。オルテガ山脈の盗賊王、懸賞金四千二百万。俺が三ヶ月かけて追い詰めたところを、お前が涼しい顔で先に仕留めやがった」
「先に到着したのは事実です。ただ、横取りと言われると心外ですね。依頼はギルド経由で正規に受けています」
「知ったことか!」
ガンダが椅子の脚を蹴った。金属音が石壁に反響する。クラウスの表情は変わらない。
「まあまあ」
ラムウが、仲裁するように手を上げた。その声は穏やかだったが、穏やかすぎて不気味だった。
「ガンダさんの恨みは恨みとして、私の用件も聞いていただけますか」
「どうぞ」
「あなたの担当するアイドルについてです」
クラウスの指先が、わずかに動いた。
ラムウは眼鏡の位置を直しながら、ゆっくりと口を開いた。
「私がテロ計画のために育成していたダースドラゴンを——見事、退治してくれましたね」
沈黙が落ちた。
石壁に染みた湿気の匂いだけが、二人の間を漂う。
「あれはダースドラゴン討伐隊がやった」
クラウスは淡々と答えた。
「ミリカは関係ない」
「騙されるとでも思っているのですか?」
ラムウの声から穏やかさが消えた。代わりに、指輪のひとつがかすかに明滅する。
「討伐隊が到着するまで三日。到着時にはダースドラゴンはすでに瀕死だった。討伐隊の報告書は読みましたよ——『到着時、対象は既に著しく消耗しており、最終撃破は討伐隊員の一太刀によるもの』。実に美しい作文だ」
「軍の公式記録です。私がどうこう言える話ではありません」
「ならば、あの映像はどう説明します?」
ラムウがローブの内側から小型の魔導端末を取り出した。画面に映っているのは、ダンジョン内の監視カメラの映像だった。画質は荒いが、ドラゴンのブレスの光の中で踊る少女のシルエットは、はっきりと見て取れる。
「AI生成動画です」
「……あなた、本気で言っていますか?」
「大真面目です」
クラウスは真顔だった。ラムウは数秒間、その顔を凝視してから、端末をしまった。
ガンダが腕を組んだ。
「まあ、どっちでもいいさ。体力のデカいボスモンスターを倒すには、まず近くにいる雑魚から倒す——冒険者の定石だ」
ガンダの指が、クラウスの顎を持ち上げた。
「お前を盾にすりゃ、あの化け物も大人しくなるだろう。せいぜい役に立ってくれよ」
ラムウが薄く笑った。
「くくく……あの子は今ごろ置き手紙を読んで、震えていることでしょうね」
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## 2
ミリカは震えていなかった。
それどころか、満面の笑みでステージに立っていた。
『ミリカちゃーん!』『こっち向いてー!』『今日もかわいいー!』
ファンの歓声が会場を揺らす。ミリカはきらきらと照明に照らされながら、振り付けをこなしていく。汗が頬を伝い、鎧ドレスの肩当てに光が弾ける。
ステージ袖には、クラウスの姿がなかった。
代わりに、プロダクションの別のスタッフが慣れない手つきでタイムテーブルを確認している。ミリカは一度もそちらを見なかった。
ライブが終わり、楽屋に戻ったミリカは、テーブルの上に置かれたミネラルウォーターを手に取った。いつもならクラウスが温度を調整した飲料水を用意してくれるのだが、今日は市販のペットボトルだ。
ミリカはそれを一息に飲み干した。
「お疲れさまー! ミリカちゃん、今日も最高だったよ!」
代理スタッフが声をかける。
「ありがとうございまーす!」
ミリカは笑った。いつもと同じ笑顔だった。
少なくとも、代理スタッフにはそう見えた。
---
翌日も、その翌日も、ミリカはいつも通りだった。
朝のダンスレッスン。昼のボイストレーニング。午後のダンジョン配信。夕方のカフェバイト。夜の筋トレ。
スケジュールを一秒たりとも空けることなく、ミリカは回り続けた。
人気は絶頂を迎えていた。
ダンジョン配信の再生回数はうなぎのぼりで、ミリカの名前は毎日トレンドに上がる。鎧ドレスでモンスターのブレスを浴びながら踊るミリカの映像は、もはや伝説と化していた。
『AI生成動画だ』
『HPが高いとかそういう次元じゃない』
『いやこれCGだろ? 誰か検証してくれ』
『検証班です。CG判定ツール全部パスしました。実写です』
『嘘だろ……』
ネットの声は賛否入り混じっていたが、ミリカは気にしなかった。
常に全力投球だった。
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## 3
シーフのニアは、不審に思っていた。
ダンジョンの安全エリアで、携帯食をかじりながら、向かい側に座るミリカを観察している。
ミリカは栄養バーを小さく齧っていた。食事制限中だ。アイドルだから。
「ねえミリカちゃん」
「んー?」
「最近さ、前にも増して忙しくない?」
「そうかなー? いつも通りだよー」
「いつも通りが異常なんだって」
ニアは携帯食の包み紙をくしゃくしゃに丸めた。
前々から気になっていたのだ。ミリカはどうしてここまで働くのか。
ニアは守銭奴を自認している。冒険の動機を聞かれたら「金っすよ、金ー!」と即答する。だが、稼いだ金はちゃんと使う。休みの日は温泉に行くし、新作スイーツの店には並ぶし、配信機材のアップグレードにも惜しみなく投資する。
金を稼ぐのは、使うためだ。当然の話である。
だがミリカには、それがない。
冒険が終わればアイドル活動。アイドル活動がなければカフェのバイト。バイトが終わればまたダンジョンへ。
遊びに誘っても「今日はバイトー!」と断られる。たまに空きがあっても「ちょっと用事があるんだー」と消えてしまう。
一体、あの金はどこに消えているのか。
強いぶん食費がかかるのかと思ったが——いま目の前で栄養バーを齧っている。アイドルの食事制限だ。
家族に病気の人がいるのかとも疑ったが、先週ミリカの実家からみかんがダンボールで届いていた。ミリカは「お母さん元気だなー」と嬉しそうにしていた。仕送りが必要な家庭には見えない。
借金? ギャンブル? ——ミリカにそんな知恵があるとは思えない。
とすると。
ニアの脳裏に、ひとつの仮説が浮かんだ。
(ひょっとして——悪い男に貢がされてるんじゃ?)
ニアの目が鋭くなった。
特に怪しいのが、三十代前半の元冒険者で目つきの悪いマネージャーだった。
たしかにクラウスは有能だ。ミリカのスケジュール管理、装備の手配、健康管理、メンタルケア——すべてにおいて隙がない。だがそれは裏を返せば、ミリカの生活を完全に把握しているということでもある。
そしてミリカのクラウスを見る目。
あの、きらきらした、ちょっとぽわんとした目。
(絶対あれは恋に落ちてる。間違いない)
守銭奴の直感は、金の匂いと恋の匂いには敏感なのだ。
(よし)
ニアは決意した。
「ミリカちゃん、今日の配信終わったらお茶しない?」
「ごめん、今日はちょっと用事があるんだー」
「だよね」
予想通りだ。ニアは笑顔で手を振った。
そして——尾行を開始した。
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ダンジョンを出たミリカは、まっすぐ繁華街へ向かった。
ニアは建物の影から影へ、シーフの本領を発揮して追跡する。正直に言えば、ミリカを尾行するのは楽だった。周囲を警戒するという概念がこの子にはない。鎧ドレスのまま堂々と歩いているので、むしろ目印になる。
ミリカはドラッグストアに入った。
十分後、出てきたミリカの両腕には——
「…………え?」
段ボール箱が六つ。
しかもトラックに積むような、業務用サイズのやつだ。ブロッコリー、鶏むね肉、プロテイン、そしてなぜかドッグフード(超大型犬用)。
ミリカはそれを両腕に担いで(軽々と)、住宅街を抜け、商店街を抜け、やがて人通りの少ない路地へ入っていった。
その先にあったのは、古びた神社だった。
石段を駆け上がるミリカ。ニアは鳥居の陰に身を潜め、息を殺した。
境内に足を踏み入れたミリカは、拝殿の裏手に回った。
そこに、いた。
うねるような巨体。玉虫色に輝く鱗。渦を巻く長大な尾。天を穿つ角。
——神龍。
伝説にしか存在しないはずの、天界の守護者。
その神龍が、ミリカの姿を見た途端、信じられない動きをした。
尻尾を振ったのだ。
ばたんばたんばたんばたんばたん。
巨大な尾が地面を叩くたびに境内が揺れ、石灯籠がガタガタと音を立てる。
「ただいまー! 今日はブロッコリーが安かったよー!」
ミリカが段ボールを開けると、神龍は首を低くして、がつがつと食べ始めた。その巨大な頭を、ミリカは両手でなでなでしている。
「よーしよしよし、おいしい? おいしいかー?」
神龍の目が細くなった。至福の表情である。前足がぱたぱたと地面を掻いている。
ニアは鳥居の陰で呆然としていた。
(……犬じゃん)
不意に、神龍の瞳がぎろりとこちらを向いた。
脳に直接、声が響く。
『我が聖域に立ち入るとは何ごとか、穢れた人間め』
テレパシー。
ニアは反射的に身構えた。シーフの本能が「逃げろ」と叫んでいる。だが足が動かない。
神龍はミリカにお腹をなでなでされながら——仰向けで、足をぴーんと伸ばした情けない格好のまま——続けた。
『命が惜しくば立ち去るがよい。ここは貴様のような穢れた心の持ち主が来るべき場所ではない』
ミリカに腹を撫でられて恍惚としながら、最大級の威嚇を送ってくる。矛盾の塊だった。
ニアは、恐る恐る心の中で呼びかけた。
(神龍、お前、神龍だよな? デカいラブラドールレトリバーとかじゃないよな?)
思考がテレパシーで伝わったらしい。
神龍は一瞬、遠い目をした。
視線が虚空をさまよい、長い沈黙が落ちた。
どうやら自分でも、神龍なのかデカいラブラドールレトリバーなのか、たまにわからなくなるらしかった。
「あれ?」
ミリカがこちらを見た。
「ニアさん、来ちゃったんだー」
秘密を見られて恥ずかしそうに笑っている。頬がほんのり赤い。
ニアは鳥居の陰から出て、ゆっくりと歩み寄った。
「……ミリカ。ひょっとしてお金を稼いでいたのって、こんな大きなラブラドールレトリバーを飼ってたからなの?」
「うん」
ミリカは神龍の鼻先をぽんぽんと叩きながら言った。
「あんまり知られたくなかったけどね。だってみんな怖がるし」
『ラブラドールレトリバーではない』
「この子、食べる量がすごいんだよー。一日に鶏むね肉二百キロ、ブロッコリー百キロ、あとドッグフード——」
『ドッグフードではない。神龍食だ』
「名前はねー、ラブちゃん!」
『我をその名で呼ぶな』
ミリカは、神龍の声が聞こえていないようだった。魔法適性がゼロなのだ。
ニアはしゃがみ込んで、神龍の顔を覗き込んだ。
ラブの宝石のような瞳と目が合う。その奥に、とてつもない知性と、とてつもない甘えん坊が同居しているのが見えた。
「それで、今日はエサをやりに来たんだ」
「うーん、今日は他のこともやりに来た感じかな」
ミリカの声のトーンが、わずかに変わった。
笑顔は変わらない。でも、目の奥の光が違う。
ニアはシーフだ。人の表情の変化を読むのは得意だ。
「……どんなこと?」
「クラウスを助けに行くの」
ミリカは、鎧ドレスの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
置き手紙だった。
クラウスの几帳面な筆跡で、こう書かれている。
『ミリカへ。私用で数日不在にします。スケジュールは代理の者に引き継ぎ済みです。レッスンをサボらないこと。菓子パンを食べないこと。ダンジョンにソロで潜らないこと。以上。クラウス』
一見すると、普通の連絡事項だ。
だが、ミリカは紙をひっくり返した。裏面の端に、小さな——紙を重ねて、上からボールペンで強くなぞったような、うすい文字が浮かび上がっている。
『B29』
「卑怯だよねー。こういう事をする人って……何か他に楽しい事はないのかなって思う」
「ミリカ……行くの?」
ニアは、それが罠だとすぐに気づいていた。シーフの勘だ。
ミリカは置き手紙を丁寧に折り畳み、ポケットに戻した。
「覚えてる? クラウスはさ、私が深夜1時に秋葉ダンジョンの地下29階に呼びつけても、迎えに来てくれたんだ。……だから、今度は私が迎えにいくの」
そして——ミリカはすでに戦闘モードに入っていた。
目の色が違う。レッスンスタジオで見せる目でも、ダンジョン配信で見せる目でもない。あのダースドラゴンの前に立ったときと、同じ目だ。
ミリカは神龍の背中にひらりと飛び乗った。
そして、ニアに手を差し伸べた。
「さあ! 一緒に行こう!」
ニアは、その手を見上げた。
シーフの本能が「これはヤバい案件だ」と警告している。報酬の話も聞いていない。危険度も不明。そもそも神龍に乗るということ自体が、人生で初めての経験だ。
だが。
ニアはその手を取った。
「——あとで請求書出すからね」
「ニアさんらしーい!」
ミリカが笑った。
神龍が身じろぎした。鱗が光を弾き、境内に風が渦巻く。石段の落ち葉が舞い上がり、鳥居の注連縄が激しくはためいた。
『ふん……仕方あるまい。あの男には、わたしも少々、借りがある』
(借り?)
『前にミリカが風邪をひいたとき、あの男がわたしのエサを届けに来たのだ。しかも、わたしの好物の鶏レバーを追加で持ってきた。……だからといって、なついてなどいないが』
(好物把握してるマネージャーすごいな……)
神龍の巨躯が光に包まれた。
境内の空気が震え、重力が消える感覚がニアの足裏を抜ける。
次の瞬間——神龍は空へ飛翔した。
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## 4
風が、吠えていた。
雲を突き抜け、神龍は矢のように飛んだ。背中にしがみつくニアは、あまりの速度に声も出ない。前方に座るミリカは、風圧を正面から受けながら、目を細めてGPSの画面を見ていた。
鎧ドレスにクラウスが仕込んだ発信器——普段は位置確認のためのものだが、今はクラウスの端末の最終位置情報を逆算するのに使われていた。
「あった」
ミリカが指さした先に、荒野が広がっている。その中央に、崩れかけた石造りの建物が見えた。
「行くよ!」
神龍が急降下する。ニアの胃がひっくり返った。
---
石壁が爆ぜた。
神龍の降下の衝撃波が建物を揺るがし、天井に亀裂が走る。
砂煙の中から、ミリカが飛び込んできた。
「マネージャーっ! やほーっ!」
椅子に拘束されたクラウスの前に、満面の笑みで着地するミリカ。
驚きに目を見開くガンダとラムウ。
「な、なんだあれは!」
ガンダが魔導拳銃を抜いた。窓の外にうねる巨体——神龍が、こちらを睨んでいる。
「これはまずい、予想外の早さです……!」
ラムウが歯を食いしばった。
ミリカが毎回ダンジョンから脱出して、そのまま夕方のレッスンに間に合う理由。それは単純な体力だけの問題ではなかったのだ。神龍による超高速移動——地上部での移動を、ものの数分で行っていた。
だが、ラムウは震える手を押さえ、指輪のひとつに魔力を流し込んだ。
「だが——何も対策をしていない我々ではありません!」
ラムウの全身から魔力の波動が噴き出した。指輪が一斉に輝き、空中に無数の数式が浮かび上がる。
「神の確率を求めよ——『ディバインダイス』!」
空間にサイコロ型の魔法陣が展開された。六面体が回転し、光を放ちながらミリカに向かって殺到する。
数理魔法ディバインダイス。
対象の体力を確率的に削減する魔術。二の目が出れば体力を二分の一に。六の目が出れば六分の一に。高確率で、現在HPの一定割合を強制的に削り取る。
体力が大きければ大きいほど、削り取る量も大きくなる。
巨大モンスター用の対抗魔術として開発された、理論上最強の削り手段。
サイコロが回転し——三の目が出た。
「三分の一削減——発動!」
ミリカの体を光が包んだ。
数理魔法の効果が体内を走り、HPを削りにかかる。
削った。
削った。
削り続けた。
——削れない。
ラムウの目が、徐々に見開かれていった。
「……なぜ、止まらない……?」
ディバインダイスは、現在HPの三分の一に到達するまで体力を削り続ける魔術だ。通常なら一瞬で完了する。
だが、いま、魔術が「三分の一」に到達できずにいた。
削っても、削っても、削っても。
ミリカのHPの「三分の一」という地点に、魔術が辿り着かないのだ。
「馬鹿な……! この女のHPは一体いくつだ!?」
ラムウの指輪が激しく明滅し始めた。魔術触媒が悲鳴を上げている。
ミリカは——立っていた。
顔色ひとつ変えずに。
いや、少しだけ首を傾げた。
「なんかピリピリするなー。静電気?」
「静電気であってたまるか!」
ラムウが叫んだ。冷静な魔術師の仮面が、完全に剥がれていた。
指輪が一つ、砕けた。
続いてもう一つ。さらにもう一つ。
「や、やめろ……止まれ……!」
だが、一度発動したディバインダイスは、「目標値に到達するまで停止しない」。それがこの魔術の絶対のルールだ。
術者のMPを吸い上げ、触媒を焼き尽くし、それでもなお「三分の一」に到達しようと魔術は回り続けた。
ラムウの顔から血の気が引いた。膝が震え、指先が白くなる。
残った指輪が次々と過熱し、赤く、白く、そして——
ぱん。ぱぱん。ぱん。
すべての指輪が砕け散った。
ラムウの全MPが吸い尽くされ、魔術がオーバーロードを起こし、その反動がすべて術者に返った。
「ま……まさか……」
ラムウは膝から崩れ落ちた。
「この女……体力という概念がないのか……HPが……神龍と……つながって……」
そのまま意識を失い、石の床に倒れた。
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「ちいっ!」
ガンダが魔導拳銃を構えた。ラムウが倒れた今、一人で対処するしかない。
だが、その瞬間——背後で、金属が外れる音がした。
かちん。
振り向いたガンダの目に映ったのは、拘束を解かれたクラウスの姿だった。
クラウスは静かに立ち上がり、手首をゆっくりと回した。魔術錠の残骸が足元に転がっている。
「いつの間に——」
「さあ、いつでしょうね」
クラウスの背後の暗がりから、ニアがひょいと顔を出した。手には精密なピッキングツール。シーフの指先が、得意げにくるくると回している。
「お代は後日請求で」
ニアはミリカとクラウスの視線が交わったのを確認すると、壁際にするりと退いた。ここから先は自分の仕事ではないと、正確に判断したのだ。
ガンダは唇を噛んだ。
計画は崩れた。ラムウは倒れ、人質は解放された。だが、ガンダには賞金稼ぎとしての意地がある。八年間、腹の底で煮えたぎらせてきた屈辱がある。
「……上等だ」
ガンダが魔導拳銃の引き金を絞った。
紫色の魔弾が連続で放たれる。クラウスは半身になってかわし、転がっていた自分の杖を蹴り上げて掴んだ。
「バフ展開——『アクセラレート』」
クラウスの足元に淡い光の紋様が広がり、その身体が残像を引いた。八年のブランクで体力は落ちている。だが、魔法の精度は落ちていなかった。
ガンダが二丁目を抜いた。左右から交差するように魔弾を撃ち込む。壁に弾痕が穿たれ、石片が飛び散った。
クラウスは杖を回転させ、弾道を逸らした。
「『リフレクション』」
跳ね返った魔弾の一発がガンダの右手を撃ち抜き、拳銃が弾き飛ばされる。
「ぐっ——!」
だが、ガンダは左手の拳銃を捨てなかった。至近距離に踏み込み、銃口をクラウスの額に突きつける。
クラウスの杖が、ガンダの喉元に突きつけられていた。
互いの呼吸が聞こえる距離。
「……やるじゃねえか、デスクワーカー」
「元冒険者です」
「八年前と変わらねぇな。その涼しい面が——いちばん気に入らなかったんだよ」
ガンダの指が引き金にかかった。
クラウスの目が、一瞬だけ横に動いた。
ミリカがこちらに向かって走ってきている。目をきらきら輝かせて。全速力で。あの身体能力で。
——この距離ならミリカの攻撃が間に合う。だが、間に合わせてはいけない。あの子はアイドルだ、決して人を殴ってはいけない。
「『スリープ』」
クラウスの杖先が光った。
ガンダの目が虚ろになり、膝が折れ、引き金にかかった指から力が抜けた。そのまま前のめりに崩れ落ちる。
石床に倒れたガンダの寝息が、静かな部屋に響いた。
クラウスは息を吐いた。長い、長い息だった。
杖を支えにしている手が、かすかに震えていた。八年ぶりの実戦。MPの残量は、もうほとんどない。
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## 5
「マネージャー!」
ミリカが駆け寄ってきた。
目がきらきらしている。興奮で頬が紅潮し、鎧ドレスの裾をひるがえし、両手を広げて——
飛びかかろうとした、その瞬間。
クラウスが、すっと指をさした。
ミリカの背後。
その指先の方向を、ミリカは振り返った。
壁際に、ニアがいた。
小型のカメラを構えている。赤いランプが点灯していた。
「……!」
ミリカの足がぴたりと止まった。
飛びかかろうとした姿勢のまま、空中で一瞬だけ静止し——ゆっくりと、両足を地面に下ろした。
息を、吸った。
吐いた。
ミリカは背筋を伸ばし、鎧ドレスの裾を整え、一歩、一歩、ゆっくりとクラウスの元へ歩いていった。
カメラに映る、完璧な笑顔で。
一歩。
また一歩。
「アイドルは……」
拳を握りしめて。
「カメラの前では……」
震える声で。
「殴らない……!」
ミリカはクラウスの前に立った。息を整え、にっこりと笑った。
「——マネージャー。迎えに来ました」
クラウスは、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
そして——笑った。
ミリカがはじめて見る、クラウスの笑顔だった。
「よくできました」
ニアがカメラを下ろした。赤いランプが消える。
「……最初から回してなかったよ」
「えっ」
ニアはにやりとした。
「バッテリー切れ。さっきの神龍フライトで全部使っちゃった」
ミリカは口をぱくぱくさせた。それからクラウスを見て、クラウスはもう笑っていなくて、いつもの涼しい顔に戻っていた。
「……もう! ニアさん!」
「なに怒ってんの。殴らなかったのは偉かったじゃん」
「せっかく勢いでクラウスにタイマンしかけられる流れだったのにー!」
「だから体力的に無理ですって」
クラウスは本気で冷や汗をかいていた。
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## 6
神龍は燃費が激しい。
往路の超高速飛行でエネルギーを使い果たした神龍は、建物の外でぐったりと横たわっていた。ミリカがブロッコリーの残りを口元に運ぶと、力なくはぐはぐと食べている。
「……帰りは無理っぽいなー。ゆっくり休んで、ラブちゃん」
ミリカは神龍の鼻先をぽんぽんと叩いた。神龍の尻尾がぱたん、と一度だけ力なく揺れた。
ラムウとガンダは、ニアが軍の通信回線に通報し、回収部隊が向かっているとのことだった。
ニアは「報酬の交渉をしなきゃ」と言い残して、通報のやり取りのために建物の中に戻っていった。
実際には拘束用の縄をしっかり結び直しに行ったのだが、それを言うと「タダ働きっぽくなる」ので黙っておくのがニアの流儀である。
こうして、荒野にミリカとクラウスだけが残された。
夕暮れが近かった。
荒野の地平線に太陽が傾き、赤い光が二人の影を長く伸ばしている。
「さて」
クラウスが歩き出した。
「プロダクション事務所まで、徒歩で約五時間。今夜のライブは絶望的ですが、明日朝のリハーサルには間に合います」
「歩くの?」
「歩きます」
ミリカは、ぱっと顔を輝かせた。
「へへへ」
「何がおかしいんですか」
「初デートですね、マネージャー!」
「どこがデートですか。遭難です」
「遭難デート!」
「ポジティブですね、あなたは」
二人は並んで歩き始めた。
荒野の風が乾いた土の匂いを運んでくる。足元の砂利がざくざくと鳴る。空が少しずつ、茜色から藍色へと移り変わっていく。
ミリカは元気だった。たった五時間の徒歩など、この体力オバケにとっては散歩のようなものだ。
「ねーねーマネージャー、あれ何?」
「廃墟ですね。古い見張り台の跡でしょう」
「ちょっと見てくる!」
「あ、寄り道しないで——」
制止を無視して、ミリカは荒野の片隅にある石造りの遺跡に駆け込んでいった。
三十秒後、興奮した顔で戻ってきた。
両手に抱えているのは、古びた——だが明らかに尋常ではないオーラを放つ——一振りの剣だった。
「落ちてた!」
「落ちてたわけがないでしょう」
「いや落ちてたよ! 石の台座の上に刺さって落ちてた!」
「戻してきなさい。きっと選ばれし者しか抜けないタイプです。来月も再来月も、これ以上はもうスケジュールに空きがありませんから」
「えー」
「えーじゃない」
「でもすっごい抜けやすかったよ? 本当に選ばれし者しか抜けないタイプだったらどうする?」
「仮にそうだとして、選ばれし者が許可なく持ち出したら窃盗です」
「……戻してくる」
とぼとぼと遺跡に戻っていくミリカ。三十秒後、手ぶらで戻ってきた。
「戻した」
「よろしい」
「でも写真は撮った」
スマホの画面を見せてくる。古代の剣を持ってピースするミリカの自撮り。背景はどう見ても聖剣の祭壇である。
「……SNSには上げないでくださいよ」
「えー」
「えーじゃない」
二人はまた歩き出した。
しばらく無言が続いた。風の音と足音だけが、荒野に響いている。
「……マネージャー」
「はい」
「ごめんね。遅くなって」
クラウスは足を止めなかった。
「いいえ。予想よりずっと早かったですよ」
「置き手紙、すぐ気づいたよ。暗号」
「そうですか」
「でも、ちょっとだけ迷った。どこにいるかわからなかったから。GPSの使い方、ニアさんに聞いたの」
「……なるほど」
「それと、神龍のこと。バレちゃったね」
「ええ。ニアさんには口止めが必要ですね。金がかかりそうだ」
「あはは」
ミリカは笑った。それから、少しだけ声のトーンを落として言った。
「……怖くなかった?」
クラウスは一拍置いて答えた。
「怖かったですよ。普通に」
「うそ。マネージャー、全然平気な顔してたじゃん」
「顔に出さないのが仕事です」
「……そっか」
ミリカは、前を向いたまま言った。
「私ね、いままでマネージャーがいなくなっても、別に平気だった。だって、みんないなくなるのが普通だったから」
風が吹いた。
「でも今回は——ちょっとだけ、平気じゃなかった」
クラウスは黙って聞いていた。
「変だよね。一人でダースドラゴンと三日間戦ったときは全然怖くなかったのに。マネージャーがいなくなったら怖いって、変じゃない?」
「変じゃないですよ」
クラウスの声は穏やかだった。
「それが普通です」
「……そっか」
ミリカは小さく笑った。
「じゃあ私、ちょっとだけ普通になれたのかな」
クラウスは答えなかった。ただ、歩く速度をわずかに落とした。ミリカの歩幅に、合わせるように。
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星が出ていた。
荒野の空は広い。光害のない空に、無数の星がこぼれ落ちそうなほど輝いている。
「きれー」
ミリカが立ち止まって見上げた。
「こんなにゆっくり星を見たの、久しぶりかも」
「いつも忙しいですからね。自分で忙しくしているんですが」
「だって暇だとソワソワするんだもん」
「その体力を少しでいいから私に分けてほしい」
「タイマンする?」
「しません」
遠くに街の灯りが見えてきた。
あと一時間もすれば、戻れるだろう。ミリカのスマホには、代理スタッフからの着信が何件も入っている。明日のリハーサルの確認。衣装合わせの時間変更。取材依頼の回答期限。
日常が、待っている。
「マネージャー」
「はい」
「今日のライブ、まだ間に合うよね」
「時間的には間に合いますね……まさか、この足で出演するつもりですか?」
「うん」
ミリカは一度大きく伸びをして、それから走り出した。
「じゃあ最後はダッシュで!」
「待ちなさい、私の体力では——」
「レッツゴー!」
ミリカは笑いながら走っていく。クラウスはため息をついて、それでもその背中を追いかけた。
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## 7
それから3時間後。
ミリカはステージに立っていた。
満員の会場。歓声。ペンライトの海。
鎧ドレスが照明を弾いて輝く。イントロが流れ、ミリカが一歩を踏み出す。
踊る。
歌う。
笑う。
ダースドラゴンのブレスの中でも崩さなかった振り付けを、数万の視線の中で披露する。つい先ほど悪党からマネージャーを助けて、荒野を五時間かけて歩いてきた疲れなど微塵も感じさせない。体力オバケの面目躍如である。
ステージ袖で、クラウスはタイムテーブルを確認しながら立っていた。
額の切り傷には小さな絆創膏が貼られている。スーツは新しいものに替えたが、靴には荒野の砂がまだ少し残っている。
ミリカが振り向いた。
ステージの上から、袖のクラウスを見つけた。
にっ、と笑った。
クラウスは小さく頷いた。
ミリカはまた前を向いて、踊り続けた。
そのパフォーマンスを、代理スタッフが感嘆の声で評した。
「すごいですね……つい3時間前に現場に到着したのに、まったくブレない」
クラウスは腕を組んだまま、ステージを見つめている。
「あの子は、『スーパースター』って奴ですよ」
ミリカが最後のポーズを決めた。
歓声が弾けた。
照明がミリカを照らし、汗の粒が光を弾く。
その笑顔はいつも通り——満面の、太陽のような、全力の笑顔。
ただ。
その頬が、ほんのりと赤く染まっていたのに。
観客は誰も気づかなかった。




