第4話「女神、ダンジョンで踊る」
## 1
朝六時。ミリカのスマホが鳴った。
画面にはクラウスの名前が表示されている。ミリカは布団の中でもぞもぞと手を伸ばし、寝ぼけまなこで通話ボタンを押した。
「……ふぁい」
『おはようございます。今日のスケジュールを確認します。起きてますか?』
「起きてまふ……」
『嘘ですね。起きなさい。七時に事務所集合、八時にダンジョン入口でクルー合流、そのまま終日撮影です。装備はどうしました?』
「……枕元に……」
『枕元に鎧ドレスを置いて寝る人間がどこにいますか』
「ここに」
クラウスの溜息が受話器越しに聞こえた。ミリカはようやく上体を起こし、目をこすった。
枕元には、ドワーフの名工が鍛えた白銀の鎧ドレスが、きちんとハンガーに掛けられている。昨夜、寝る前に三回ほど着てみて、鏡の前でくるくる回ったのは内緒だ。
『いいですか、今日は大事な配信イベントです。スポンサーもついている。カメラは常時回っています。もう一度だけ確認しますよ』
「はーい」
『カメラの前では——』
「殴らない」
『よろしい』
「蹴るのは?」
『駄目です』
「頭突きは?」
『駄目です』
「体当たりは?」
『それも駄目です。攻撃全般禁止。あなたは盾です。盾に徹してください』
「盾かぁ……」
ミリカは不満そうに口を尖らせたが、ふと窓の外を見た。朝焼けが街を橙色に染めている。今日は一日中、カメラの前で冒険ができる。それだけで、胸の底からわくわくが湧き上がってきた。
「——よし!」
布団を跳ね飛ばして立ち上がる。
「行ってきまーす!」
『まだ六時十分です。朝食を食べなさい』
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## 2
秋葉ダンジョン入口。
朝八時の集合時間には、すでに大勢の人間が待ち構えていた。
撮影クルーだけで十二名。カメラマンが三人、音声が二人、照明が二人、ディレクターにAD、それからドローン操縦士まで揃っている。ミリカは目を丸くした。
「すっごーい!映画みたい!」
「映画ですよ、これは」
隣に立ったクラウスが、淡々と言った。
「今日の配信は同時視聴者数十万人を見込んでいます。あなたの一挙手一投足が、そのまま事務所の評判になる。いいですね?」
「わかってるって!殴らない!」
「……不安だ」
クラウスは腕を組んだまま、じっとミリカの顔を見つめた。ミリカは満面の笑みを浮かべている。その笑顔が純粋であればあるほど、クラウスの胃は重くなった。
冒険者パーティーの面々も到着した。
リーダーのヴァルト、戦士のゼン、弓兵のセレン、魔術師のガルド、そしてシーフのニアだ。ニアはいつも通り自分用の小型カメラをヘルメットに装着していて、ミリカを見つけるなり手を振った。
「ミリカちゃーん!今日もかわいいねぇ!」
「ニアさーん!」
ミリカが駆け寄って抱きつく。ニアは「うおっ」と一瞬よろめいたが、笑って受け止めた。
「相変わらず鎧越しでも圧がすごいな、お前」
「えへへ」
リーダーのヴァルトが全員を集めた。
「今回のルートは地下十五階までの既踏破エリアを抜けて、そこから先の未踏破区画に入る。事前調査ではドラゴン種の反応が出てる。配信的にはおいしいが、危険度は高い。気を引き締めていこう」
クルーの顔に緊張が走る。冒険者たちは慣れたもので、黙々と装備の最終確認をしていた。
ミリカだけが、きらきらした目でダンジョンの入口を見つめている。
「ドラゴンかぁ……ドラゴン!」
「テンションを上げるのはいいですが、約束は守ってくださいよ……今日は私も同行していますからね」
クラウスが背後から釘を刺した。ミリカは両手でガッツポーズを作った。
「任せて!今日の私は——完璧な盾!」
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## 3
ダンジョンの地下十五階までは、ミリカにとって庭のようなものだった。
出現するモンスターは雑魚ばかりで、ヴァルトとセレンが手際よく処理していく。ゼンとエレナは体力を温存して、たまに二人と交代していた。ニアは先行して罠を解除し、安全な道筋を確保する。ミリカの出番はほとんどなかった。
「ひまー」
「退屈なのは良いことです。安全ということですから」
クラウスはパーティーの後方で、クルーの安全を確認しながら歩いている。今回は戦闘に参加しないが、元冒険者の勘は衰えていない。通路の角を曲がるたびに、さりげなく先を窺う仕草が板についていた。
「マネージャー、さっきからずっと周り見てるね」
「仕事ですから」
「冒険者に戻りたくならない?」
「なりません」
即答だった。ミリカは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに前を向いた。
地下十六階。空気が変わった。
岩壁の色が黒ずみ、通路の幅が広がる。天井も高い。まるで巨大な生き物が通れるように設計されたかのような空間だった。
「ドラゴン種の縄張りだ」
ヴァルトとゼンが同時に剣を抜いた。セレンが弓を構え、エレナが詠唱の準備に入る。ニアが壁際に身を寄せ、気配を消した。
カメラが回っている。照明が暗がりを照らす。ディレクターが小声で指示を飛ばした。
「——来る」
ヴァルトの声と同時に、通路の奥から地鳴りが響いた。
重い足音。爪が岩を引っ掻く音。そして、熱。
空気そのものが膨張するような圧倒的な熱量が、通路の奥から押し寄せてきた。
闇の中から、赤い瞳が二つ、灯った。
「ファイアドラゴンだ! 全員、散開!」
ヴァルトが叫んだ瞬間、ドラゴンが咆哮した。
空気がびりびりと振動し、クルーの何人かが尻もちをついた。音声担当がヘッドホンを外して耳を押さえている。
だが、ミリカは一歩も退かなかった。
それどころか、満面の笑みで——前に出た。
「やったぁ!ドラゴンだ!」
「ミリカ! 前に出すぎだ!」
ヴァルトの制止も聞こえていないかのように、ミリカはドラゴンの正面に立った。
ドラゴンの口腔が赤く輝く。ブレスの予兆だ。
クルーが悲鳴を上げた。カメラマンの一人がカメラを放り出して逃げようとしたが、足がもつれて転んだ。
ブレスが放たれた。
灼熱の炎が、通路を舐めるように奔る——その直線上に、ミリカが立っていた。
炎がミリカの全身を包んだ。
鎧ドレスが白く輝き、炎を弾く。だが完全には防ぎきれず、ミリカの髪が熱風になびき、露出した腕に熱波が叩きつけた。
「——あっつ!」
ミリカは両腕を広げ、背後のクルーを守るように仁王立ちしていた。
ブレスが止む。白煙が立ちのぼる中、ミリカがぶるぶると頭を振った。犬が水を払うような仕草だった。
「いっやー、あったかいねぇ! サウナみたい!」
クルーが呆然としている。カメラマンが、転んだままの姿勢でカメラを拾い上げ、震える手でミリカの背中を撮影していた。
クラウスは、少し離れた位置から冷静にその様子を見ていた。手元のタブレットに表示されたミリカのバイタルデータを確認する。——体力値、微減。
微減。
ドラゴンのブレスを正面から浴びて、なお微減。
「……想定内ですね」
クラウスは小さく呟いて、タブレットをしまった。
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## 4
戦闘は膠着していた。
ドラゴンは強い。戦士二人の剣撃も、高速の弓矢も攻撃魔法も、硬い鱗に阻まれてまともなダメージが通らない。
だが、それ以上に異様だったのはミリカだった。
ドラゴンのブレスを——浴び続けている。
二度、三度、四度。
ドラゴンが炎を吐くたびに、ミリカがその前に立ちはだかる。鎧ドレスが炎を弾き、白銀の光を散らす。そのたびにミリカの髪が舞い、ドレスの裾が翻る。
まるで——踊っているように見えた。
(……あー、暇だなー。はやく終わってくれないかなー)
ミリカは、すっかり退屈していた。
(これだったら事務所でレッスンしてた方が張りがあるよー。あ、そうだ。今日は一日撮影だから、レッスンがないんだった)
ミリカの頭の中は、至って平和だった。
(振り付け、忘れないようにしなきゃ)
次のブレスが来た。ミリカは正面から受け止めながら、右腕を天に掲げた。新曲の振り付けの、サビに入る直前の動きだ。
炎の中で、腕を振り下ろす。ステップを踏む。ターンする。
ブレスの光が鎧ドレスに反射し、洞窟の壁を無数の光点が走った。まるでミラーボールだった。
ドラゴンが首をかしげた。
炎を吐いているのに、目の前の小さな生き物が倒れない。それどころか、なにやらくるくると回り始めた。ドラゴンの本能が、困惑という未知の感情を初めて経験していた。
「……おい」
ヴァルトが剣を下ろして呟いた。
「あいつ、踊ってないか?」
「踊ってますね」
エレナが杖を下ろして答えた。
「ドラゴンのブレスの中で」
「……うん」
「踊ってますね」
「……うん」
冒険者たちは、しばらく無言でミリカを見つめていた。
ニアは壁際からカメラを回し続けている。レンズの奥で、その目が笑っていた。
「いいよミリカちゃん、最高だよ……再生数えぐいことになるぞこれ……」
クルーのカメラマンたちも、いつの間にか恐怖を忘れていた。ファインダーの中のミリカがあまりにも美しかったからだ。
灼熱の炎の中で、白銀の鎧ドレスを纏った少女が踊っている。光が散る。髪が舞う。その表情には恐怖のかけらもなく、ただ純粋に——楽しそうだった。
ミリカの口が動いた。歌っている。新曲のメロディーを口ずさみながら、振り付けを確認している。本人にとっては練習のつもりだった。
だが、カメラに映るその姿は。
炎の洗礼を受けながら微笑む、女神そのものだった。
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## 5
異変は、唐突に訪れた。
ミリカが五度目のブレスを浴びながらサビの振り付けに入ったところで、通路の奥から——新たな足音が聞こえた。
一つ。二つ。三つ。
いや。もっとだ。
「……嘘だろ」
ヴァルトの声がかすれた。
闇の奥から、赤い瞳が次々と灯る。四つ、六つ、八つ——十を超えた。
ドラゴンの群れだ。
目の前の一体は、群れの入り口に過ぎなかった。奥の巣穴から、仲間を呼ぶ咆哮に応じて続々と現れたのだ。
「撤退だ! 全員下がれ!」
ヴァルトが叫んだ。エレナが防御結界を展開し、クルーを守る。ニアが素早く退路を確認した。
だが、ドラゴンたちはすでに通路を塞いでいた。前からも、横の枝道からも、岩壁の隙間からも這い出してくる。
悲鳴が上がった。照明担当が機材を投げ出して逃げる。ADがしゃがみ込んで頭を抱えた。
そのとき。
ミリカが、踊るのをやめた。
ゆっくりと周囲を見回す。怯えるクルー、構える冒険者たち。そして押し寄せるドラゴンの群れ。
ミリカはにっこり笑って——両手を広げた。
「おいでー!」
挑発。それも全力の。
ドラゴンたちの視線が、一斉にミリカに集中した。
タンクとしてのヘイト管理を、ミリカは本能で理解していた。というより、理屈ではなく、体力の塊である自分が前に立つのは当然のことだと思っていた。
「こっちこっち! みんなこっち見てー!」
ドラゴンたちが一斉にブレスを吐いた。
十数条の炎が、一点に——ミリカに集中した。
轟音。
爆風。
洞窟そのものが揺れた。天井から岩の破片が降り注ぐ。ヴァルトがエレナの結界の中にクルーを押し込み、自分は盾を構えて熱波を耐えた。
炎が止む。
白煙が渦巻く中、全員が息を飲んでミリカのいた場所を見つめた。
視界が晴れていく。
——ミリカは、立っていた。
鎧ドレスの表面が赤く灼熱し、ゆっくりと冷えていく。髪の毛の先端がちりちりと焦げている。頬に煤がついている。
だが、立っていた。両腕を広げたまま。
そして——踊っていた。
十数体のドラゴンのブレスの集中砲火を浴びながら、ミリカは振り付けの続きを踊っていたのだ。
鎧ドレスが炎を弾くたびに、光の粒子が洞窟中に飛び散る。赤、橙、白。まるで花火だった。灼熱の光に照らされたミリカのシルエットが壁に映り、巨大な影となって踊る。
カメラマンが、震える手でカメラを持ち直した。
ファインダーの中の光景が、あまりにも現実離れしていて——だからこそ、撮らなければならないと思った。
ディレクターが声を失っていた。横にいたADが、涙を流していた。
ニアのカメラだけが、ぶれることなくミリカを捉え続けている。
「……すごいよ、あなた」
ニアの呟きは、配信のマイクに乗っていた。
配信の中では、コメント欄が爆発していた。
ヴァルトが我に返った。
「——今だ! ドラゴンがミリカに集中してる間に叩く!」
エレナが最大級の攻撃魔法を詠唱する。ゼンとヴァルトが死角から斬りかかる。セレンが矢を放ち、ニアが急所を狙って短剣を投げる。
ドラゴンたちの注意はミリカに釘付けだった。炎を吐いても吐いても倒れない、踊る銀色の小さな生き物。脅威なのか、獲物なのか、それとも——同族すら知らない何かなのか。
ドラゴンたちは困惑しながら、ただミリカにブレスを吐き続けた。
その間に、冒険者たちが一体ずつ仕留めていく。
エレナの雷撃魔法が腹の鱗を焼く。ゴルツの剣が首筋の急所を貫く。ニアの短剣が翼膜を切り裂く。
一体。
二体。
三体。
ドラゴンが倒れるたびに、残りのドラゴンのブレスがより激しくなる。だがそれは、ミリカへの集中砲火がさらに激化するということでもあった。
ミリカは——まだ踊っていた。
彼女はもはや退屈などしていなかった。本能が体を動かし、炎の中で、体が最も美しく見える角度を、無意識に選び続けていた。
戦場で踊る、アイドルの本能。
いや——『スーパースター』と呼ばれる職業そのものだった。
「ラスト一体!」
ヴァルトの声が響いた。
最後のドラゴンが、断末魔のブレスを吐いた。一際大きな炎がミリカを包む。
光が弾ける。
そして——静寂。
最後のドラゴンがゆっくりと崩れ落ちた。
洞窟に残されたのは、無数のドラゴンの骸と、煤と炎の痕跡と。
その中心に立つ、一人の少女。
ミリカは最後のポーズ——指先を天に向け、両足を広げて立つ——を決めて、満面の笑みを浮かべた。
「——キマった!」
沈黙。
そして、クルーの誰かが拍手を始めた。
一つ、二つ。やがてそれは、洞窟中に響き渡る拍手の渦になった。冒険者たちも。カメラマンも。ディレクターも。息を切らしたエレナも。剣を杖代わりにしたヴァルトも。
全員が、拍手をしていた。
ミリカも、ようやくドラゴンが倒されていたことに気づいて、ぱちぱち拍手を鳴らした。
「終わったー! おつかれー!」
カメラクルーが折りたたみ椅子をセットして、ミリカがそれにどっかりと座った。
「暑いー! マネージャー、水ぅー!」
「はい、お疲れ様でした」
「ありがとー!」
クラウスは水筒を渡しながら、ミリカの鎧ドレスを検分した。損傷なし。名工の仕事は完璧だった。
「顔に煤がついてますよ」
「拭いてー! マネージャー!」
「やれやれ」
クラウスはハンカチを出して、ミリカの頬をごしごし拭いていた。
まるでお母さんと子供のようなやり取りだったが、ニアだけが、二人の間にある特別な空気を感じ取っていた。カメラを構える手が、にやりと笑みを作った。
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## 6
だが、異変はそんな弛緩した空気の中で起こった。
突然の地響きが鳴り、洞窟の壁が突然崩落した。
その向こうにあるのは巨大な空洞。天井は見えないほど高く、溶岩が流れる川が空洞の中央を横切っている。
そして——その空洞の奥から。
現れた。
全長三十メートルを超える巨体。六対の翼。全身を覆う漆黒の鱗。目が六つあり、そのすべてが赤く輝いている。
ダースドラゴン。
通常のドラゴンとは比較にならない、S級災害指定モンスター。
「……おいおいおいおい」
ヴァルトの声が震えていた。
「事前調査にこんなの出てなかったぞ!」
「出てたら来てません!」
エレナが悲鳴に近い声を上げた。
クルーは完全にパニックだった。カメラマンが機材を抱えて後ずさり、ディレクターが「撤退!撤退!」と叫んでいる。
ダースドラゴンが頭をもたげた。六つの目が、侵入者たちを捉える。
咆哮。
先ほどまでのドラゴンとは比較にならない。音ではなく、衝撃だった。空気が破裂するような圧力が全員を叩き、立っていられない者が続出した。
非戦闘員だったクラウスが、即座にバフ魔法を展開した。クルーと冒険者たちの足元に淡い光が走り、かろうじて踏ん張れるようになる。
だが、それも一時しのぎだった。
「マネージャーさん!」
ヴァルトがクラウスに叫んだ。
「クルーを連れて撤退してくれ! 俺たちが引き付ける!」
「無謀です、あなたもすぐに逃げた方がいい。——ミリカ、行きますよ」
クラウスがミリカの腕を掴もうとした。
だが、ミリカは動かなかった。
ダースドラゴンを見上げている。六つの赤い目を、まっすぐに。
その顔に浮かんでいたのは——歓喜だった。
「ミリカ」
クラウスの声に、ミリカはゆっくりと振り返った。
「マネージャー」
「……なんですか」
「私、ずっと憧れてたセリフがあるの」
「やめなさい」
「言っていい?」
「駄目です」
ミリカは、にっと笑った。
そして、ダースドラゴンに向き直り、剣を抜いた。鎧ドレスが溶岩の光を受けて輝く。
その背中が、ヴァルトが見せてくれたあの日の背中と重なった。あの台詞。あのかっこよさ。ずっとずっと、自分が言う側になりたかった。
「——ここは私が食い止める!」
洞窟中に響く、明朗な声。
「私に任せて、先に行けぇーっ!」
沈黙。
ヴァルトが、目を見開いていた。
「あ……あの時の俺の台詞……!」
「ミリカちゃん、かっこよすぎかー!」
ニアが叫んだ。
ミリカは最高に気持ちよかった。感無量だった。言えた。ついに言えたのだ、あのセリフを。
ダースドラゴンが二度目の咆哮を上げた。今度は口腔に黒い炎が渦巻いている。ブレスの予兆だが、通常のドラゴンとは桁が違う。
クラウスは一瞬だけ目を閉じ——そして、覚悟を決めた。
「全員、撤退しましょう。——ミリカの底抜けの体力を信じます」
ヴァルトが歯を食いしばった。エレナが涙をこらえた。ニアがカメラを止め、冒険者たちは頷いた。
クラウスがクルーを率いて撤退を開始する。ヴァルトたちが殿を務め、一人、また一人と洞窟の奥から離れていく。
ミリカは一人、ダースドラゴンの前に立っていた。
背後の足音が遠ざかっていく。カメラの赤いランプがひとつ、またひとつと消えていく。照明の光が途絶え、溶岩の赤い光だけが空洞を照らしていた。
最後に振り返ったのはニアだった。カメラはもう止めている。配信には乗らない。
「——死なないでよ」
「死なないよー!」
ミリカが手を振った。いつもの笑顔だった。
ニアが闇の中に消えた。
足音が完全に聞こえなくなったのを確認して——ミリカは、ゆっくりと首を鳴らした。
「さて」
声のトーンが変わったわけではない。笑顔が消えたわけでもない。
ただ、空気が変わった。
「カメラ、もうないよね」
誰に言うでもなくそう呟いて、ミリカは剣を構え直した。構えというほど洗練されたものではない。ただ両手で柄を握り、正面に突き出す。我流の、力任せの構え。
ダースドラゴンの六つの目が、残された小さな獲物を見下ろしていた。
黒い炎がその口腔から溢れ出す。通常のドラゴンのブレスとは次元が違う。空間そのものが歪むほどの魔力が、炎に練り込まれている。
放たれた。
漆黒のブレスが空洞を薙いだ。溶岩の川が蒸発し、岩壁が融解する。直撃すれば、A級冒険者のパーティーすら一瞬で消し炭になる。
ミリカは——避けなかった。
正面から受けた。
鎧ドレスが悲鳴を上げるように軋む。だが破れない。名工の仕事は、この極限にあっても沈黙を守った。
ミリカ自身は、歯を食いしばっていた。
「——あっつ……!」
さすがに、熱い。さっきまでのドラゴンとは比べものにならない。肌が焼けるような痛みが全身を走る。
だが、止まらない。
ブレスが途切れた瞬間、ミリカは地を蹴った。
跳躍。鎧の重さを無視した、常識外れの加速。ダースドラゴンの懐に潜り込み——剣を振り上げた。
「——えいっ!」
渾身の一撃が、漆黒の鱗に叩きつけられる。
火花が散った。
鱗に——傷一つなかった。
「……かったい!」
ダースドラゴンの前脚が振り下ろされる。ミリカは咄嗟に剣で受けたが、衝撃で十メートル以上吹き飛ばされた。岩壁に背中から激突し、壁にめり込む。
「いったぁー……!」
岩壁から引き抜くように体を起こす。鎧ドレスは無事だが、腕が痺れている。
ダースドラゴンが迫る。三十メートルの巨体が洞窟を揺らしながら歩を進め、六つの目がミリカを見据えていた。
ミリカは、笑った。
「やっぱりすごいなぁ、ドラゴンって!」
恐怖ではない。純粋な感嘆だった。こんなに強い相手は初めてだ。体の芯がざわざわする。この感覚を、ミリカは知っている。
わくわくだ。
それからの戦いは、壮絶だった。
ミリカは殴り、蹴り、体当たりし、剣で斬りつけた。カメラがないのだから遠慮はいらない。ありとあらゆる手段でダースドラゴンに食らいつき、離れ、また食らいつく。
ダースドラゴンも全力だった。ブレス、尾撃、翼の風圧、前脚の踏みつけ、噛みつき。そのどれもが一撃必殺の威力を持っていた。
ミリカは何度も吹き飛ばされた。壁にめり込み、地面をバウンドし、溶岩の川に突っ込んだこともあった。
だが、立ち上がった。
何度でも。
「えへへ……まだまだ!」
剣が折れたのは、二日目の夜だった。
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## 7
三日が過ぎていた。
ダンジョンから脱出した冒険者たちとクルーの報告を受け、軍が動いた。ダースドラゴン討伐隊が緊急に編成される。
だが、軍議は紛糾した。
「ダースドラゴン級の討伐には最低でもS級冒険者十名と軍の特殊部隊が必要です。編成に時間がかかります」
「三日もかかってんだぞ! 中に民間人が一人残ってるんだ!」
「残念ですが、三日経過した時点で生存は——」
「絶望的、と言いたいんだろう」
軍に怒鳴り込んでいったヴァルトたちの後ろで、クラウスが口を開いた。
軍の担当官が冷や汗をぬぐっている。
「プロダクション関係者の方ですか。お気持ちはわかりますが——」
「彼女は生きています」
クラウスの声には、一片の迷いもなかった。
「根拠は?」
「根拠は必要ありません。彼女の担当マネージャーとして断言します。——急いでください」
担当官たちは顔を見合わせたが、クラウスの目を見て——口を噤んだ。元冒険者の、それも相当な手練れの目だった。
討伐隊がダンジョンに突入したのは、通報から三日後の早朝だった。
精鋭三十名。S級冒険者四名を含む、文字通りの最強部隊。全員が死を覚悟して、ダースドラゴンの巣に踏み込んだ。
彼らが見たのは——
地獄だった。
空洞の地形が変わっていた。岩壁は砕け、溶岩の川は干上がり、天井には巨大な亀裂が走っている。ダースドラゴンの暴れた痕跡が、空洞そのものを作り変えていた。
その中心で、ダースドラゴンは——まだ生きていた。
だが、明らかに消耗している。六つの目のうち二つが潰れ、翼が三対とも裂けていた。全身の鱗がところどころ剥がれ落ち、黒い血が滴っている。
そして、ダースドラゴンの足元に。
ぼろぼろの鎧ドレスを纏った少女が、折れた剣の柄だけを握りしめて立っていた。
全身傷だらけ。髪は焦げ、頬には煤と切り傷。鎧ドレスは——傷こそついていないものの、白銀の輝きは煤で燻んでいた。
だが。
その目は、まだ輝いていた。
ミリカは討伐隊を見つけた。
満面の笑みが、顔に広がった。
「おおーい!」
手を振った。折れた剣の柄を持ったまま、無邪気に。
「たすけてぇー! 剣が折れちゃったー! 大ピンチー!」
それは、三日間ダースドラゴンと戦い続けた人間の台詞ではなかった。遠足でお弁当を忘れた子供のような、あっけらかんとした声だった。
討伐隊の隊長は、膝から崩れ落ちた。
「……三日だぞ」
「この子は三日間ずっと……」
隊員の多くが、その場で涙を流した。感動ではない。恐怖である。
人間が三日間、ダースドラゴンと一対一で戦い続けて生きているという事実が、彼らの常識を完全に破壊した。しかもこの笑顔である。しかもこの元気さである。
隊長が震える手で予備の剣を投げ渡した。
「……使え!」
ミリカはそれを片手でキャッチした。軽く素振りをして、バランスを確かめる。
「おっ、いい剣! ありがとうございまーす!」
そして——振り返った。
ダースドラゴンが最後の咆哮を上げた。満身創痍でありながら、その威圧は健在だった。六つの目のうち、生き残った四つがミリカを睨みつける。
ミリカは、剣を両手で握った。
三日間の戦いで、ミリカはダースドラゴンの鱗の隙間を知り尽くしていた。どこが硬くてどこが柔らかいか。ブレスの前の溜めが何秒か。尾を振る前にどの目が動くか。
体で覚えた。理屈ではない。三日間殴り続け、殴られ続けて——体に刻み込んだ。
「——ごめんね」
ミリカが、小さく呟いた。
「楽しかったよ♪」
踏み込み。
地面が陥没するほどの一歩。ダースドラゴンの懐に、一瞬で潜り込む。
首の付け根。第三鱗と第四鱗の隙間。三日前に見つけた、唯一の柔らかい場所。
剣が、深々と突き刺さった。
ダースドラゴンの六つの目が、大きく見開かれた。
ミリカは剣を握ったまま、跳んだ。剣を支点にして体を回転させ、斬り上げる。
漆黒の鱗が裂け、黒い血が噴き出した。
ダースドラゴンが——ゆっくりと、傾いだ。
巨体が地面に沈んでいく。六対の翼が力なく広がる。四つの目が、順番にその光を失っていく。
最後の一つの目が——ミリカを見ていた。
ミリカもまた、その目を見ていた。
そこに浮かんでいたのは——敵意ではなかった。三日間、全力で戦い続けた者同士だけが交わせる、静かな敬意のようなものだった。
目が、閉じた。
轟音とともに、ダースドラゴンが地面に倒れた。
洞窟が震えた。
そして——静寂。
ミリカは剣を地面に突き立て、大きく息を吐いた。
「ふぅー……いい汗かいたぁー!」
討伐隊が呆然と立ち尽くしていた。
隊長が、絞り出すように言った。
「……今のを見なかったことにできる人間がいたら、手を挙げてくれ」
誰も手を挙げなかった。
全員が、この事件がトラウマになった。
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## 8
ミリカのスマホが鳴った。
画面にはクラウスの名前が表示されている。ミリカは満面の笑みで通話ボタンを押した。
「もしもーし!」
『終わりましたか?』
「うん!」
クラウスの声は、いつもと同じだった。淡々として、冷静で、感情を押し殺したような声。だがミリカは、その声の奥にある安堵を——なんとなく、感じ取っていた。
『よくやりました。——では、ダースドラゴン討伐隊が助けてくれたことにしましょう』
「えっ? 私が倒したのに?」
『あなたがソロでダースドラゴンを倒したことが公になったら、アイドルとしてのキャリアは終わりです。人はそういう存在を、アイドルとは呼びません。兵器と呼びます』
「そっかー……」
『あなたはアイドルでしょう。ファンに夢を見せる存在でしょう。であれば——冒険者としての名誉よりも、守るべきものがあります』
ミリカは、少し考えた。
ダースドラゴンとの三日間を思い出す。あれは確かに自分の力だった。嘘はつきたくない。
でも。
「——わかった。マネージャーがそう言うなら、そうする」
『……ありがとうございます。助かります』
「その代わり!」
『なんですか』
「討伐隊のみなさんとチェキ撮っていい?」
電話の向こうで、クラウスが小さく笑った気がした。
『いいでしょう。撮りなさい。——それも立派なアイドル活動です』
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ダースドラゴン討伐は、軍の精鋭部隊の功績として報道された。ミリカの名前は一切出ていない。
だが、一枚の写真が出回った。
満身創痍の討伐隊員たちに囲まれ、ピースサインをする少女のチェキ。煤だらけの顔で、誰よりも元気に笑っている。
キャプションにはこう書かれていた。
「ダースドラゴン討伐隊のみなさんと! かっこよかったー!」
討伐隊の隊員たちは、全員がこのチェキを宝物にした。
そしてその全員が——ミリカのファンになった。
写真の中で笑うミリカの頬には、まだ煤がついていた。クラウスが拭いてくれる前の、そのままの顔で。
誰よりも強くて、誰よりも笑っている。
それがミリカというスーパースターだった。




