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第3話「マネージャー、地獄の洗礼を受ける」

## 1


 秋葉ダンジョン、地下三十階。


 そこは人類の生活圏からもっとも遠い魔境のひとつであり、国が認定するAランク冒険者でさえ帰還率が七割を切る死の領域である。


 岩壁が赤黒く脈動し、空気そのものが重い。天井から垂れ下がる鍾乳石のあいだを、正体不明の光る蟲がちらちらと飛び交っている。


 その地獄の底で────電話が鳴った。


 ぴろろろろん♪ ぴろろろろん♪


 着信音は、今週リリースされたばかりのアイドルソングだった。


「ちょ、ミリカ! 電話鳴ってる! 電話!」


「あ、ほんとだ!」


 中ボス──彷徨さまよう狂戦士 Lv.58──の拳が空気ごと叩き潰すように振り下ろされる。ミリカは片手でそれを受け止めながら、もう片方の手でポケットからスマホを取り出した。


 衝撃波で周囲の岩壁にひびが入る。


 ミリカは、まるで雨傘を差すような気軽さで電話に出た。


「あっ、もしもしー!」


---


 一方その頃。

 電話の向こう──プロダクション事務所のオフィスでは、ミリカの五代目マネージャーが受話器を耳から引き剥がしていた。


 スピーカーから漏れ出る音が凄まじく、周囲の社員が全員そちらに目を向けていた。


 ガガガーン! ドゴゴゴ! チュギィン! うわああ!


「ご、ごめん、なんか取り込み中じゃなかった!?」


『ううん、ぜんぜん! 今地下三十階で中ボス戦やってるとこー!』


「それ電話取ってる状況じゃないだろ!」


『いやいや、こっちから連絡しようと思ってたところなんだってー! ほらこの前もらったじゃん! あの四角い白いあれなんだったっけ──そう紙! 紙もらったじゃん!』


「紙ってどの紙だよ!? 名刺!? スケジュール表!? ひょっとして歌詞印刷したやつ!?」


『そうそれー! なんか地下十五階の安全広場に忘れて来ちゃったみたいでさー! ちょっと練習したいから、十五階で拾って三十階まで届けてくんないかなー!』


「できるかーっ!」


 がちゃん。


 オフィスに沈黙が落ちた。


 五代目マネージャーは、ゆっくりと受話器を置き、引き出しから便箋を一枚取り出した。


 そこに『異動願』と書いた。


 筆跡は震えていた。


 周囲のスタッフは誰も止めなかった。むしろ数人がそっと目を逸らした。ある者は自分のデスクの引き出しをちらりと見た。そこにも同じ便箋が入っていることを、本人だけが知っていた。


 こうして、ミリカの五代目マネージャーは────わずか二週間で担当を外れた。


---


## 2


 翌日。


 会議室のブラインドが下ろされ、長机の上にはミリカの担当履歴が並べられていた。


 初代──三日で辞表。


 二代目──合同リハ血みどろ事件で離職。


 三代目──ミリカのポケットから討伐証明部位が転がり出た日に異動願。


 四代目──初日に「よろしくお願いします!」と握手され、握力で指を骨折。本人に悪意はなかった。


 五代目──地下三十階からの電話で心が折れた。


 プロダクションの役員──ミリカを採用し、クラウスの面接も担当した上司は、資料から目を上げた。


 その視線の先に、クラウスが背筋を伸ばして座っている。


「率直に言おう」


 役員は腕を組んだ。


「ミリカは冒険者をはじめてから笑顔が増えた。SNSのフォロワーは三ヶ月で十倍、ダンジョン配信のアーカイブは百万再生を超えている。輝きはじめているんだ、あの子は」


 クラウスは黙って聞いていた。


「だが、マネージャーが保たない。五人だぞ、五人。うちの社員の精神衛生がもたん」


 役員はため息をついた。


「元冒険者の君に、彼女の担当をしてもらいたい。彼女の事を理解して、冒険稼業も含めて寄り添う事が出来るのは、実戦経験のある人間だけだ」


 クラウスは静かに、しかし迷いなく答えた。


「──分かりました。全力で、彼女を支えます」


---


## 3


 ドワーフの王国は、大陸の東端にある山脈の地下深くに広がっている。


 鍛冶の炎で赤く照らされた大広間。天井まで届く溶鉱炉がいくつも並び、金槌の音が地鳴りのように響いていた。


 その最奥、伝説の名工バルドゥルの工房。


 数々の名剣・聖具を生み出してきたこの老ドワーフの前に、クラウスは膝をつき、額を床に押しつけていた。


 土下座である。


「どうか!」


 声が工房に反響した。


「うちのミリカに! 最高のステージ衣装を作ってやってくれませんか!」


 バルドゥルは、長い白髭をしごきながら、じっとクラウスを見下ろしていた。


「……ステージ衣装だと? 剣でも鎧でもなく?」


「ステージ衣装です。ただし、あの子を輝かせるステージはダンジョンなんです。その衣装は、あなたにしか作ることができない」


 クラウスは顔を上げた。その目には、採用面接のときにも見せなかった熱があった。


「ドラゴンのブレスに耐え、マンティコアの爪を弾き、それでいてステージ映えする衣装を。素材は最高級のものを。費用は分割で構いません、全額私が負担します!」


 バルドゥルは鼻を鳴らした。


「金の話をしているんじゃねぇ。ワシが作るのは一流の戦士のためのものだ。アイドルとやらのお遊び衣装じゃない」


「お遊びではありません」


 クラウスの声が、静かに硬くなった。


「あの子は、ドラゴンのブレスを浴びながら笑います。Lv.62のマンティコアをソロで屠り、その足でカフェのシフトに入ります。体力だけなら、私が現役時代に見たどんな戦士よりも上です」


 バルドゥルの眉がぴくりと動いた。


「──だが、あの子はアイドルなんです。戦士じゃない。戦うためだけに生きているんじゃない。ステージの上で笑うことが、あの子の本業です。だからこそ、戦場でもステージでも輝ける衣装がいる」


 しばらくの沈黙。


 溶鉱炉の炎が、二人の影を揺らしていた。


「……ふん」


 バルドゥルは、壁に立てかけてあった巨大な金槌を取り上げた。


「お前さんには借りがあるからな」


 老ドワーフは振り返らずに言った。


「三日待て。ワシの名に懸けて、最高のものを作ってやる」


---


## 4


 プロダクション事務所。練習室。


 ミリカの目の前に、衣装掛けに吊るされた一着のドレスがあった。


 白銀の生地に、淡い青のアクセントライン。一見すると清楚なステージ衣装だが、生地の下にはミスリル合金の薄板が織り込まれ、関節部には魔導繊維の緩衝材が仕込まれている。スカートの裾にはほんのりと魔力の燐光が漂い、動くたびに星屑が舞うように光る。


 鎧であり、ドレスであり、そのどちらでもあった。


「『絶対に破れない鎧ドレス』です」


 クラウスは、いつもの淡々とした声で言った。


「ダンジョン動画撮影用に作らせました。来月には撮影の予定を入れてあります」


「おおー! ダンジョン動画!」


 ミリカの目がきらきらと輝いた。衣装に飛びつき、頬ずりする。


「これ着て戦ってもいいの!?」


「ええ、結構です」


 クラウスは一拍置いた。


「ただし──これだけは約束してください」


 その声に、わずかな重みが乗った。


 ミリカが顔を上げる。


「アイドルは、カメラの前では──殴らない」


「…………」


 沈黙。


「──殴らなきゃ倒せないよ?」


「それでも、あなたは絶対に攻撃してはなりません。これは鉄則です」


 クラウスはミリカの正面に立ち、まっすぐに目を見た。


「攻撃は後衛、中衛に任せ、あなたは防御に徹してください。それが護れないなら──」


 指先で、衣装掛けを軽く叩いた。


「──ダンジョン動画配信の仕事は、すべてキャンセルします」


「そんなぁ〜!」


---


## 5


 地獄がはじまった。


 ミリカにとって、クラウスの指導は初めて感じる「きつさ」だった。


 ダンジョンから帰還するたびに、クラウスの検分が待っている。


「また向こう傷が増えてる!」


 クラウスは回復魔法を当てながら、眉間の皺を深くした。ミリカの左頬に走る浅い切り傷を、指先で示す。


「打突は鎧で受けろと言っているでしょう! 顔は商品です!」


「だって、避けるよりぶつかったほうが早いんだもん……」


「早さの問題じゃありません!」


 翌日。


 ミリカがダンジョン用に持ち込んだ兵糧の中身を、クラウスが広げていた。


 菓子パン八個。コーラ五百ミリリットル二本。チョコバー十二本。以上。


「……これで地下三十階まで行く気ですか」


「足りなかったら途中のモンスター食べるし」


「兵糧は栄養バランスを考えなさい! 菓子パンを食べるな!」


「えー」


「えー、じゃない!」


 クラウスは手際よく兵糧を入れ替えた。おにぎり、干し肉、ナッツ類、ドライフルーツ、携帯用のスポーツドリンク粉末。すべて事前に準備してあったらしい。


「これを食べてください。カロリー計算も済んでいます」


「マネージャー、お母さんみたい」


「お母さんで結構です」


 さらに翌日。


 クラウスのデスクに、冒険者ギルドからの報告書が届いた。


 それを読んだクラウスの表情が、初めて険しくなった。


「ミリカ」


「はーい?」


「今日のソロクエスト、マンティコアのレベルはいくつでしたか」


「えーっと、六十……いくつだっけ」


「六十七です。先週は六十二でした。──また上がっている」


 クラウスは報告書をミリカの前に置いた。


「ソロで挑むなど、あれほど言ったでしょうが!」


「だって、パーティー組むと気を遣って全力出せないんだもん。あいつ毒と混乱と麻痺のブレス吐くんだよ?」


「気を遣えているなら大したものですが、それとこれとは話が別です。マンティコアとの交戦を単独で行うことは禁止します」


「禁止って、そんな──」


「私はあなたのマネージャーです。あなたの安全と、あなたのキャリアを守るのが仕事です。そのどちらも守れない判断を、あなたに許すつもりはありません」


 ミリカは頬を膨らませた。


 ぷくーっと限界まで膨らませて、それからぷしゅーっと空気を吐き出した。


「…………ただの付き人のくせにーっ!」


 ばたん! と練習室を飛び出していった。


 残されたクラウスは、閉まったドアをしばらく見つめていた。


 それから、静かにデスクに向き直り、兵糧の発注書の続きを書きはじめた。


---


## 6


 夕暮れのカフェ。


 ミリカは、向かいに座るニアに向かって、ぷんすか怒っていた。


「ニアさん聞いてよ! マネージャーがひどいの!」


「はいはい」


 ニアはアイスティーのストローをくわえながら、スマホの配信画面をちらりと確認した。今日はこれからダンジョン探索だ。いつものメンバーが集まるのを待っている。


「ソロ禁止だって! マンティコア相手にソロ禁止! あんなの寝ぼけてても勝てるのに!」


「いやミリカちゃん、それ普通の冒険者にとっては命懸けだからね」


「えっ、そうなの?」


「そうなの」


 ニアは呆れたような、感心したような目でミリカを見た。


 この子は本気で言っている。自分の異常さを、心の底では理解しきれていない。だからこそ厄介で──だからこそ、見ていて飽きない。


「まあ、マネージャーさんも大変だよね。ミリカちゃんの担当って、歴代みんな三日ぐらいで逃げてるんでしょ?」


「五代目は二週間保ったよ!」


「記録更新おめでとう」


 ニアはストローから口を離し、少し真面目な顔になった。


「ねぇ、ミリカちゃん」


「ん?」


「ミリカちゃんは、どうして冒険者になろうと思ったの?」


 ミリカの手が、一瞬だけ止まった。


 ニアは見逃さなかった。


 ミリカはすぐにいつもの笑顔に戻り、「んー、体力が余ってたから!」と答えた。


 嘘ではないだろう。でも、全部でもない。


 ニアは守銭奴だ。同じ質問をされたら「金っすよ、金ー!」と即答する。そして稼いだ金で温泉に行き、美味いものを食べ、好きな服を買う。冒険者として命を懸ける対価を、ちゃんと自分のために使う。


 でもミリカには、それがない。


 冒険が終わればアイドル活動。それもなければカフェのバイト。休みの日に遊んでいるのを見たことがない。稼いだ金が何に消えているのか、誰も知らない。


「……なにか事情があるの? 相談に乗ろうか?」


 ニアの声は、いつもの軽さの奥に、ほんの少しだけ温度があった。


 ミリカは首を横に振った。


「ううん、いいの。ありがとう」


 笑っていた。いつものように、太陽みたいに笑っていた。


 でもニアには分かる。シーフの目は、隠しごとを見抜くためにある。


「まあ、触れられたくないならいいけどさ……」


 ニアはアイスティーの最後のひと口を音を立てて吸い上げた。


「──でも、あのマネージャーさん、今までの人とはちょっと違うんじゃない?」


「え?」


「少なくとも、まだ逃げてないじゃん」


 ミリカは、きょとんとした顔で瞬きをした。


 それから、なにかを考えるように、視線を落とした。


---


## 7


 深夜一時。


 クラウスのスマホが鳴った。


 画面に表示された名前を見て、クラウスはベッドから身体を起こした。一切の躊躇なく通話ボタンを押す。


「はい」


『あっ、もしもし、マネージャー? 今、秋葉ダンジョンの地下二十九階にいるんだけどさー!』


 クラウスは時計を見た。深夜一時十二分。


「あなた六時間前にはボイトレと筋トレとダンスレッスン受けてませんでしたか。休むという概念はないんですか」


『ダンジョンは別腹ー!』


 ……別腹という概念を胃袋以外に適用するな、と言いかけて、やめた。


『シーフの子が毒をもらって倒れちゃって、大変なんだよー! 迎えに来てくれないかなー!』


 クラウスは電話を耳に当てたまま、すでに動いていた。


 ベッドサイドのチェストを開け、かつての冒険者装備を取り出す。革鎧は古いが手入れは怠っていない。腰のベルトにポーション類を並べ、小杖をホルスターに差す。


 スマホの画面を切り替え、GPS座標を確認した。鎧ドレスに仕込んだ発信機が、ミリカの位置を正確に示している。地下二十九階、東ルート、第三分岐の先。


「そのまま待っていてください」


 短く言って、電話を切った。


---


## 8


 ダンジョンの奥は、深海の底のように暗かった。


 ミリカは、倒れているニアの手を握っていた。


 毒状態。ニアの顔色は蒼白で、額にはびっしりと汗が浮かんでいる。呼吸は浅く、時折苦しそうに眉を寄せる。毒の種類はスコーピオン系──解毒ポーションがなければ、自然回復に半日以上かかる。下手に動かすと毒が全身に回る。


「ごめん、ミリカ……」


 ニアが薄く目を開けた。


「今日は……レッスンの予定があったんでしょ?」


「ううん」


 ミリカは、ニアの額の汗をそっと拭いた。ソロで最深層のモンスターを殴り飛ばす手が、このときだけは驚くほど優しかった。


「今日はお休みにする」


 ニアは小さく笑おうとして、咳き込んだ。


「ごめん……ほんとに……私のせいで……」


「ニアさんのせいじゃないよ。毒なんて誰でも食らうし」


 ミリカは、ニアの手を握って、ずっと疑問に思っていたことを尋ねた。


「ねぇ、毒って苦しいの?」


「腹パンしたい、この子……けど、まあいいや。それがあなただもんね」


 すっかり諦めてしまったニアは、笑ってくれた。


 ミリカは、スマホに目を落とした。


 通話終了の画面が、暗いダンジョンの中で白く光っている。


 ──来るわけない。


 いままでダンジョンの奥まで助けを求めて、実際に来てくれたマネージャーなどひとりもいなかった。一代目は電話に出なかった。二代目は「明日の朝まで待って」と言った。三代目は「場所を教えてください」と言ったきり、翌日に異動願を出した。四代目は指を骨折していて物理的に来られなかった。五代目は──まあ、五代目はもういない。


 だから期待なんてしていない。


 ただ、電話をかけただけだ。一応。形式的に。


 ミリカは膝を抱え、ニアの手を握ったまま、暗闇の中で待った。


 モンスターの気配がするたびに、空いた手で殴り飛ばした。壁にめり込む音がして、静寂が戻る。それを何度か繰り返した。


 十五分が経った。


 三十分が経った。


 一時間が経った。


 ──やっぱり。


 ミリカは、ほんの少しだけ、唇を噛んだ。


 来るわけがないのだ。深夜に、地下二十九階まで。普通の人間にそんなことができるはずがない。自分の感覚がおかしいのだ。いつもそうだ。自分は距離を間違える。他人にとっての「無理」が分からない。だから毎回、期待して、がっかりする。


 その、繰り返し。


 足音が聞こえた。


 規則的で、静かで、けれど確実にこちらに向かってくる足音。


 暗闇の奥から、淡い光が近づいてきた。照明魔法の白い光。その光源を掲げている人影が、通路の角を曲がった。


「──来ましたよ」


 クラウスだった。


 息が上がっていた。革鎧の肩で荒い息をつき、額には汗が流れている。照明魔法を灯した左手が、わずかに震えていた。


 だが、足取りに迷いはなかった。


 ミリカのそばにしゃがみ込み、まずニアの容態を確認する。瞳孔、脈拍、呼吸数。手際よくチェックし、右手に解毒魔法の光を灯した。


「スコーピオン系の神経毒ですね。もう少し遅ければ危なかった」


 淡い緑色の光がニアを包み、蒼白だった顔色が少しずつ戻っていく。ニアの呼吸が安定したのを確認してから、クラウスはポーチから包帯と消毒液を取り出し、刺傷に丁寧な処置を施した。


 それから──ミリカの方を見た。


「また顔に傷を作ってる」


「……これは、ニアさんを守るときにちょっと」


「ちょっと、が多すぎるんですよ、あなたは」


 クラウスの手が、ミリカの頬に触れた。


 回復魔法の温かい光が広がり、切り傷がすうっと消えていく。


 ミリカは動けなかった。


 別に痛いわけではない。ドラゴンのブレスを浴びても平気な身体だ。頬の浅い傷など、放っておいても数時間で治る。


 なのに──動けなかった。


「よし、綺麗になりました」


 クラウスは手を離し、ニアを背負い上げた。小柄なシーフの身体を背中にしっかりと固定し、腰のベルトから小杖を抜いて、通路の先を照らした。


「行きましょう。レッスンには間に合わせます」


 ミリカは、ぼうっとクラウスの背中を見ていた。


 ──来た。


 本当に、来た。


 深夜に。地下二十九階まで。ニアを背負って、帰り道を照らして、「レッスンには間に合わせます」と言った。


 約束を守ってくれた人。


 ミリカにとっては、それがはじめてだった。


---


## 9


 帰り道は、長かった。


 クラウスは魔法を駆使し、最短ルートを迷いなく進んでいった。照明魔法で道を照らし、探知魔法でモンスターの気配を読み、バフ魔法で自分の脚力を底上げする。かつて冒険者として鳴らした技術が、錆びてはいなかった。


 だが、身体はもう現役のそれではない。


 地下二十階を過ぎたあたりで、クラウスは壁に手をついた。


「……すみません、少し休ませてください」


 膝に手を当て、肩で息をする。ニアを背負ったまま、十数階を駆け上がってきたのだ。普通の人間なら、とっくに倒れている。


「昔は、このぐらい平気だったんですが」


 壁にもたれ、苦笑した。


「やはり年を取ると、体力が持ちませんね」


 ミリカは、隣に立って、その横顔を見ていた。


 照明魔法の白い光に照らされた横顔。汗が顎を伝い、呼吸はまだ荒い。目の下にうっすらと隈がある。深夜に叩き起こされて、装備を整えて、地下二十九階まで一人で降りてきたのだ。


 それでも背中のニアを降ろさない。


 それでも「レッスンには間に合わせます」と言った。


 ミリカは、不思議な気持ちだった。


 自分は体力がありすぎて、他人の「疲れ」がうまく想像できない。走れメロスの主人公がどうしてあんなに苦しそうなのか、本気で分からなかった。パーティーの仲間が息を切らしているのを見ても、「もう少し頑張ればいいのに」と思ってしまうことがある。


 でも──今、目の前でこの人が肩で息をしているのを見て、初めて「疲れている人」が怖くなかった。


 怖くなかった、というのは変な言い方かもしれない。


 いつもは、他人の疲労を見ると、少しだけ怖いのだ。ああ、また自分だけが平気なんだ、と思う。また距離が開く。また「普通」から遠ざかる。だから見ないふりをする。気づかないふりをする。明るく笑ってやり過ごす。


 でも、クラウスの疲れた横顔を見ていると、怖さよりも先に、別の感情がこみ上げてきた。


 ──この人は、私のために疲れてくれている。


 それが、途方もなく、まぶしかった。


「……マネージャー」


「はい」


「すごいね」


「何がですか」


「だって、来てくれたじゃん。地下二十九階まで。深夜に。ひとりで」


「あなたのマネージャーですから」


「歴代のマネージャーは誰も来てくれなかったよ」


 クラウスは、ちらりとミリカを見た。


 それから視線を前に戻し、壁から背中を離した。


「それは、あなたのマネージャーではなかった、というだけですよ」


 それだけ言って、また歩きはじめた。


 ミリカは、その背中を追いかけた。


 背中のニアが、薄目を開けていた。


 熱でぼんやりする視界の中で、ミリカの表情をしっかりと見ていた。


 口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。きらきらと目を輝かせて、クラウスの背中を見つめている。カメラの前で見せるステージ用の笑顔ではない。ダンジョンでモンスターを殴り飛ばすときの獰猛な笑みでもない。


 見たことのない顔だった。


(……おやおや。カメラが見てなくて、よかったね)


 ニアは目を閉じて、もう少し眠っているふりをした。


 ミリカはこのとき、心の中で密かに闘志を燃やしていたのだった。


(この人、すごい――タイマンしたい!)


---


## 10


 地上に出たのは、明け方の四時過ぎだった。


 ダンジョンの入り口から吹き込む夜明け前の風が、三人の頬を撫でた。星がまだ薄く残る空の下、クラウスはニアをそっと降ろし、壁に背中を預けさせた。


「もう大丈夫です。毒は完全に抜けました。今日一日は安静にしていてください」


「ありがとうございます……マネージャーさん」


 ニアは弱々しく、しかし確かに笑った。


 クラウスは頷き、それからスマホを取り出してタクシーを呼んだ。ニアを自宅まで送る手配を済ませ、迎えの車が来るまでのあいだに、ポーチから携帯用の栄養ドリンクを取り出してミリカに渡した。


「飲みなさい。菓子パンは許しませんが、これは許可します」


「……ありがとう」


 ミリカは素直に受け取って、キャップを開けた。


 二人は、ダンジョンの入り口にある古びたベンチに並んで座った。空が少しずつ白み始めている。遠くのビル群のシルエットが、藍色の空に浮かび上がっていた。


「マネージャー」


「はい」


「……ごめんね、ただの付き人のくせにって言って」


 クラウスは少し間を置いた。


「事実ですから。私はあなたの付き人です」


「付き人は地下二十九階まで来ないよ」


「来る付き人もいます。ここに」


 ミリカは、小さく笑った。


 その笑い方は──ステージの上で千人のファンに向ける太陽みたいな笑顔とは、まるで違った。


 もっと小さくて、もっと柔らかくて、もっと壊れやすい笑い方だった。


「……ねえマネージャー、ひとつお願いがあるんだけど」


「内容によります」


「私とタイマンしてくれない?」


「体力的に無理です」


「やっぱりー!」


 ミリカはけらけらと笑い、栄養ドリンクを飲み干した。


 クラウスは、小さくため息をついた。


 ──ただし、その口元がわずかに緩んでいたことに、ミリカは気づいていない。


 タクシーが到着し、ニアを乗せて走り去っていくのを見届けてから、クラウスは立ち上がった。


「さて。朝のレッスンまであと三時間あります。仮眠を取りますか?」


「いらなーい! 全然眠くない!」


「……知ってました」


 クラウスは歩きはじめた。ミリカがその隣に並ぶ。


 明けていく空の下、二人の影が長く伸びていた。


 マネージャーと、体力オバケのアイドル。


 その距離が──ほんの少しだけ、昨日より近くなっていた。

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