第2話「血まみれアイドル、合同リハに現れる」
## 1
ダンジョンの最奥は、地上とはまるで別の世界だった。
天井を覆う鍾乳石が青白く発光し、広大な空洞全体をぼんやりと照らしている。足元には砕けた石柱が散乱し、壁面を走る亀裂からは瘴気を含んだ蒸気が噴き出していた。
その空洞の中心に、それはいた。
全長十五メートル。六本の腕を持つ骨格の巨人——**スカルキング**。
骨だけで構成された身体の内側で、紫色の炎がゆらゆらと揺れている。それが心臓の代わりなのだと、誰かが言っていた。空洞に足を踏み入れた瞬間、虚ろな眼窩がぎょろりとこちらを向いた。
「来るぞ!散開!」
パーティーリーダーのヴォルフが叫んだ。重装鎧に身を包んだ長身の戦士で、使い込まれた大盾を構えている。
六本の腕が同時に振り下ろされた。
空気がひしゃげるような轟音。石の床が蜘蛛の巣状に砕け、破片が四方に飛び散る。
「ひゃー!すっごーい!」
破片の雨の中を、ひとりだけ笑顔で駆け抜ける影があった。
ミリカである。
ドワーフの名工が鍛えた——わけではなく、ギルドの貸出倉庫から借りてきた量産型の軽鎧を身に纏い、同じく量産型の片手剣を握り、同じく量産型の丸盾を左腕に括りつけている。冒険者としてはまだまだ駆け出しだが、装備のみすぼらしさを補って余りある勢いで、彼女はスカルキングの足元に突っ込んでいった。
「ミリカ、前に出すぎだ!」
ヴォルフの制止も聞こえていないのか、あるいは聞こえた上で無視しているのか、ミリカはスカルキングの脛を思い切り蹴り上げた。
鈍い衝撃音。
スカルキングがよろめく。
「え」とヴォルフが呟いた。
「いったーい!骨かったーい!」
ミリカは足を押さえてぴょんぴょん跳ねている。痛がってはいるが、ダメージを受けている様子は一切ない。むしろスカルキングのほうが、蹴られた脛骨にひびが入っていた。
「嘘だろ……」
後衛の魔術師ケイトが、詠唱を忘れて棒立ちになっている。
「ケイト!手を止めるな!」
「あ、ごめん!——『焔槍』!」
赤い魔法陣から射出された炎の槍がスカルキングの胸部に命中し、骨の表面を焦がす。だがスカルキングは怯むことなく、六本の腕のうち二本を振りかぶった。
狙いはミリカ。
巨大な骨の拳が、彼女の頭上から叩き落とされる。
「ミリカ!」
ヴォルフが駆け寄ろうとしたが、間に合わない。
轟音。
砂塵が舞い上がり、視界を塞ぐ。
「……やられたか」
沈痛な面持ちで呟くヴォルフ。だが、砂塵が晴れると——
「うーん、けっこう重いねぇ」
ミリカは両腕を頭上にかざし、スカルキングの拳を受け止めていた。足元の石床だけが、彼女の体重と衝撃でめりこんでいる。本人はどこか不満そうな顔をしていた。
「ちょっと痺れた」
「痺れただけ!?」
ニアの叫びが空洞に反響した。
シーフのニアは後方から戦況を観察しつつ、いつものように小型カメラを回している。個人配信用の映像素材だ。しかし今は配信どころではなく、カメラを持つ手が震えていた。
ミリカはスカルキングの拳を押し返すと、そのまま腕を掴み、ぶんっと横に投げ飛ばした。
十五メートルの骨の巨人が、壁に叩きつけられる。
洞窟全体が揺れた。
「……ねえヴォルフさん」ニアがリーダーの袖を引っ張った。「あたし思うんだけど、あの子ひとりでよくない?」
「言うな。俺もうすうす思ってる」
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## 2
楽しかった。
ミリカにとって、ボス戦は純粋に楽しかった。
アイドルのレッスンも楽しい。ダンスも歌も好きだ。でもレッスンでは、いつも物足りなさが胸の底に溜まる。全力を出せない。出してしまうと、周りがついて来られなくなるから。
冒険は違った。
モンスターは手加減しない。全力でぶつかってくる。だからこっちも全力で返せる。拳に伝わる衝撃、身体を駆け巡る血流の熱さ、息を吸うたびに肺が広がる感覚——生きている、と思える。
スカルキングが体勢を立て直し、六本の腕すべてで連撃を繰り出してきた。
ミリカは盾を構えた。
一撃目。盾で受ける。
二撃目。横に転がって躱す。
三撃目——受け損ねて、身体ごと吹き飛ばされた。壁に激突し、岩盤がクレーター状にへこむ。
「きゃっ」
どう見ても致命的な一撃だったが、ミリカはすぐに壁から身体を引き剥がし、ぱんぱんと鎧の土埃を払った。
「いったたた。うん、いい感じ!やっぱりボス戦はハリがあるなぁ!」
ヴォルフたちの連携攻撃が再開される中、ミリカは嬉々としてスカルキングに肉薄し、今度は剣で脚部の関節を狙い始めた。
量産型の片手剣は、三度目の斬撃で刃がぼろぼろに欠けた。
「ああー!また折れそう!」
「予備の剣は!?」
「持ってきてない!」
「なんでだよ!」
「だってカバンに入らなかったもん!」
ミリカのカバンには、ダンスレッスン用のスウェットとシューズ、水筒、菓子パン三個、文庫本一冊、そして充電器が入っている。剣の予備が入る余地はなかった。優先順位の問題だ。
「仕方ない、素手で!」
「素手で行くなぁーっ!」
ヴォルフの絶叫をよそに、ミリカは折れかけの剣を投げ捨て、スカルキングの腕によじ登りはじめた。
そのとき。
ポケットの中で、スマホが震えた。
着信——プロダクション事務所。
ミリカはスカルキングの肩にしがみつきながら、器用に片手でスマホを取り出した。
画面を見て、血の気が引いた。
「ああーっ!」
「どうした!?」
「今日は合同リハの日だったぁーっ!」
スカルキングの腕がミリカを振り払おうと激しく揺れる。ミリカは遊園地のアトラクションに乗っているかのように片手でしがみつきながら、もう片方の手で必死にスマホの画面をスワイプしていた。
「うそうそうそ、あと四十分で始まっちゃう!ここから会場まで——ギリギリだ!」
「おい、ミリカ!ボス戦中だぞ!」
ヴォルフが大盾でスカルキングの攻撃を受け止めながら怒鳴る。ミリカはスカルキングの肩から飛び降り、着地と同時にヴォルフの隣に駆け寄った。
「ヴォルフさん!ごめん、私行かなきゃ!」
「は?」
「合同リハ!アイドルのほう!今日はどうしても外せないやつで——」
スカルキングが咆哮した。紫の炎が眼窩から噴き出し、空洞全体が揺れる。
ヴォルフはミリカの顔を見た。本気だった。この規格外の新入りは、ボス戦の最中に本気で帰ろうとしている。
ヴォルフは深く息を吸い、大盾を構え直した。
スカルキングに向き直る。その背中で、静かに言った。
「俺が食い止める。——ここは俺に任せて、先に行けぇ!」
一瞬の沈黙。
ミリカの目が大きく見開かれた。
あのセリフだ。物語でしか聞いたことのない、仲間を逃がすためにひとり残る戦士の、あのセリフ。
「……かっこいいー!!」
ミリカの声が震えた。感動で。
「じゃあ行ってきまーす!ケイトさんニアさんまたねー!」
「えっ、あいつマジで行きやがった」
ミリカは全力で走り出した。スカルキングの脚の間をくぐり抜け、洞窟の出口に向かって一直線に駆けていく。
残された五人の冒険者たちは、呆然とその背中を見送っていた。
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## 3
合同リハーサルの会場は、プロダクション所有の大型スタジオだった。
白い壁、ミラー張りの一面、ピカピカに磨き上げられたフローリング。天井にはLEDの照明パネルが整然と並び、奥にはPA卓とモニタースピーカーが設置されている。
今日は三組のユニットによる合同イベントの通しリハーサル。衣装合わせも兼ねている。
各ユニットのメンバーたちは、すでにキラキラの衣装に身を包み、柔軟運動をしたり、歌詞カードを確認したり、自撮りをしたりしていた。スタジオの空気はきらびやかで華やかで、甘い香水の匂いが漂っている。
ミリカの所属する「パルティール」は三人組のユニットだ。メンバーのフウカとコトネは、すでにスタンバイを終えていた。
「ミリカちゃん、まだ来てないの?」
フウカがスマホの画面を確認しながら眉を寄せる。
「電話も出ないんだよね……」
コトネが不安そうに言う。ふたりとも、ミリカが冒険者のアルバイトをしていることは知っている。「体力が有り余ってるから」と本人は笑って説明していた。
「時間がありませんのでリハを始めます。ミリカさんが来たら合流させてください」
合同リハのディレクターがマイクで告げた。
スタジオに音楽が流れ始める。三組が順番にステージに上がり、通しでパフォーマンスを確認していく。パルティールの出番が近づいても、ミリカは来ない。
マネージャーの鶴見が、もう五度目の電話をかけていた。
「出てください、お願いだから出てください……」
コール音が虚しく響く。
そのとき、スタジオの扉が勢いよく開いた。
蝶番が悲鳴を上げるような音とともに、ひとりの少女が飛び込んでくる。
「はぁー! 間に合ったぁー!」
ミリカだった。
満面の笑みを浮かべている。息ひとつ乱れていない。ダンジョンの最奥から全力疾走してきたはずなのに、まるで近所のコンビニから帰ってきたような顔をしている。
だが、その全身は——
赤黒い液体にまみれていた。
髪の毛の先から、鎧の隙間から、ブーツの底から。ぽたり、ぽたり、と雫が落ちて、白いフローリングに赤い水玉模様を作っていく。
モンスターの返り血だった。
ミリカは鎧を着たまま来ていた。貸出品の量産型軽鎧は、もはや原形をとどめていない。胸当てには爪で引き裂かれた跡があり、肩当ての片方は失われ、腰のベルトには正体不明の粘液がこびりついている。
甘い香水の匂いに満ちていたスタジオに、鉄錆と獣の臭いが広がった。
沈黙が降りた。
音楽が止まったわけではない。PAからは変わらずポップなメロディが流れている。だが、その場にいる全員の耳には何も届いていなかった。
最初に倒れたのは、ステージ上でリハーサル中だった別ユニットのセンターだった。糸が切れたように膝から崩れ落ちる。
「きゃあああ!」
「ひっ——」
悲鳴の連鎖。
ドミノ倒しのように、アイドルたちが次々と気を失っていった。ある子は白目を剥き、ある子は腰を抜かして座り込み、ある子は無言のまま硬直している。
スタッフもパニックだった。照明係が機材にぶつかり、PAのエンジニアがコーヒーをキーボードにぶちまけ、カメラマンがカメラを床に落とした。
ミリカはきょとんとしている。
「あれ? みんなどうしたの?」
「ミ、ミリカちゃん……その、血……」
フウカが震える指でミリカの全身を指さした。
ミリカは自分の身体を見下ろした。
「ああ、これ? モンスターの返り血だよ。私のじゃないから大丈夫!」
大丈夫ではない。まったく大丈夫ではない。
大丈夫であることと、大丈夫に見えることは、まったく別の問題だ。
「ひ、ひぃぃ……」
マネージャーの鶴見が、壁際で小刻みに震えていた。目に涙を溜め、スマホを胸に抱きしめている。
「ごめんなさい……私にはもう無理……!」
そう叫ぶと、鶴見はスタジオから走り去っていった。
合同リハは中止になった。
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## 4
更衣室のシャワーを借りて血を洗い流し、ミリカはスウェット姿でスタジオの隅に座っていた。
がらんとした空間に、ミリカひとりだけが残されている。照明は半分だけ点いていて、ミラーに映る自分の姿がやけに小さく見えた。
膝を抱えている。
「……せっかくボス戦中止にしてきたのに」
声に出してから、自分でもそれが見当はずれな愚痴だとわかった。
ボス戦を途中で抜けたことを怒られるならまだわかる。でもリハに間に合うように来たのに、なぜみんな逃げてしまうのだろう。
返り血か。
返り血がいけなかったのか。
考えてみれば、そうかもしれない。普通の人は、全身血まみれの人間を見たら怖いのだ。たぶん。
ミリカは時々、自分の感覚が他人とずれているのではないかと思うことがある。
ダンジョンで何時間戦っても疲れない。大型モンスターに殴られても「いたた」で済む。筋トレを三時間やったあとにダンスレッスンに出ても「まだまだいけるなぁ」と思う。
それが普通じゃないことは、理屈ではわかっている。
でも実感がない。
自分にとっての「普通」は、これなのだ。生まれてからずっとこうなのだ。だから他人にとっての「普通」がわからない。どこまでがセーフで、どこからがアウトなのか。その境界線が、いつもぼやけて見える。
スマホが震えた。
ヴォルフからのメッセージ。
『スカルキング倒した。ミリカの蹴りで脛にヒビ入ってたからそこ集中攻撃した。助かった。焼肉奢れ』
「よかった」
小さく笑って、返信を打つ。
『おめでとう!!焼肉いつにする??』
送信してから、スマホをスウェットのポケットにしまった。
立ち上がる。
しょぼくれていても仕方ない。明日はアイドルの仕事はないけれど、やることはある。カフェのバイトがあるのだ。
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## 5
それから一週間が過ぎた。
ミリカがアルバイトをしているカフェ「ランタン」は、冒険者ギルドから二ブロックほど離れた通りにある、こぢんまりとした店だった。
レンガ造りの外壁にツタが絡まり、木製の看板が風に揺れている。店内はカウンター八席、テーブル四卓。天井からはアンティークのランタンが吊るされ、夕方になると琥珀色の灯りが店全体を温かく包む。
ミリカはエプロン姿で、カウンターの中でグラスを磨いていた。
昼下がりの暇な時間帯で、客はまばらだ。窓際のテーブルで老夫婦がケーキをつついているだけ。
店長は買い出しに出ていて、ミリカはひとりで店番をしていた。
カウンターの上に、一冊の文庫本が伏せてある。
冒険者パーティーの先輩——ヴォルフが「お前は本を読め。教養だ」と言って貸してくれたものだ。タイトルは「走れメロス」。
暇な時間に少しずつ読み進めていた。
主人公のメロスは、友のために走っている。約束を果たすために、ボロボロになりながら、倒れそうになりながら、それでも足を止めない。
ミリカはページをめくる手を止めて、首を傾げた。
「……どうしてこの人、こんなに苦しそうにしてるんだろう?」
走ることが苦しい、という感覚がわからない。
いや、理屈はわかる。人間は長時間走ると乳酸が溜まり、筋肉が悲鳴を上げ、酸素が不足して苦しくなる。知識としては知っている。
でもミリカは、全力で走っても苦しくなったことがない。
だからメロスが「もう走れない」と膝をつく場面を読んでも、なぜそうなるのか、心の底では理解できなかった。
メロスの苦しみに共感できない自分を、ミリカは少しだけ寂しく思った。
からん、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
顔を上げると、ヴォルフだった。
使い込まれた革のジャケットに、すり切れたブーツ。大盾は背中に背負ったままだ。ついさっきまでダンジョンに潜っていたので、あちこちに泥と煤がこびりついている。冒険者にはよくあることで、カフェ「ランタン」は出入り禁止にはしていなかった。冒険者ギルドの近くという立地が立地だ。
ヴォルフはカウンター席に座り——
それからミリカの顔を見て、目を剥いた。
「え……君、一時間前にダークドレアムと殴り合いしてなかった?」
「冒険は別腹ですよぉ」
「別腹って何だよ。デザートかよ」
ヴォルフは注文したコーヒーを受け取り、一口飲んだ。美味い。だが心が落ち着かない。
ミリカはにこにこしながらグラスを磨いている。傷ひとつない。疲労の色もない。一時間前に大型ボスモンスターと殴り合った人間の姿ではない。
ヴォルフは長い沈黙のあと、カップをソーサーに戻した。
「……ミリカ」
「はい?」
「お前、ちょっと怖いぞ」
ミリカの手が止まった。
グラスを磨く布が、きゅっと握り締められる。
「……あはは。やっぱり?」
笑っている。笑っているが、目が笑っていない。ヴォルフはそれに気づいたのかいないのか、腕を組んで天井を見上げた。
やば。
ミリカの胸の中で、小さな警報が鳴っていた。
怖がられてる。また怖がられてる。昨日のリハの二の舞だ。ヴォルフさんは優しいからはっきりとは言わないけど、ちょっと引いてる。もう冒険に誘ってくれなくなるかもしれない。
どうしよう。なにか言わなきゃ。フォローしなきゃ。でもなにを——
「ははーん」
ヴォルフが、突然にやりと笑った。
「さては双子だな?」
「……え?」
「そうだろ? ダンジョンに潜ってるのがミリカで、カフェにいるのは双子の妹とか。じゃなきゃ辻褄が合わない」
ミリカは一瞬、きょとんとした。
それから——ナイスだ、と思った。
この勘違いは、乗っかるべきだ。全力で。
「そーなんですよ! 双子でしてー!」
ミリカは満面の笑みを浮かべた。さっきまでの陰りが嘘のように消えている。
「やっぱりな。そうだと思ったんだよ」
ヴォルフは満足げに頷き、コーヒーを飲み干して帰っていった。
以降。
カフェ「ランタン」には、ミリカの双子の妹がバイトしているという噂が広まった。
冒険者たちの間では「秋葉ダンジョンの体力オバケ」と「ランタンの看板娘」が双子であるという都市伝説がまことしやかに囁かれ、誰もそれを疑わなかった。
疑えなかった、と言うべきかもしれない。
ミリカはその夜、アパートに帰ってから布団の中でスマホをいじりながら、ぼんやりと天井を見上げた。
双子の設定は、うまくいった。ヴォルフさんは納得してくれたし、たぶんしばらくはあれで通せる。
でも。
嘘をついた、という事実は、胸の底に小さな棘のように残っている。
別に悪いことをしたわけじゃない。誰かを傷つけたわけでもない。ただ、自分という存在をそのまま差し出したら受け止めてもらえなかったから、半分に割って見せただけだ。ミリカとミリナ(名前も考えてくれた)。二人ぶんにすれば、一人あたりの「おかしさ」は半分になる。
それでちょうどいいのだ。
たぶん。
スマホの画面に、プロダクションからのメールが届いていた。
『担当マネージャー変更のお知らせ。鶴見の後任として、新たに——』
名前が書いてある。知らない名前だった。
「また変わるんだ」
何人目だろう。数えるのはとっくにやめた。最初のマネージャーは三ヶ月もった。次は一ヶ月。その次は二週間。鶴見さんは——どのくらいだっけ。もう思い出せない。
みんな優しかった。最初は笑顔で「よろしくね」と言ってくれた。でもそのうち、ミリカの「普通」に触れて、顔が引きつっていく。困惑が恐怖に変わり、恐怖が諦めに変わり、最後にはいなくなる。
仕方ないよね、とミリカは思う。
自分がおかしいのは知っている。普通じゃないのは知っている。でも普通になる方法がわからない。体力を減らす方法がわからない。痛みの感じ方を変える方法がわからない。
走れメロスのメロスが、苦しみながら走っていたのを思い出す。
ああいうふうに苦しめたら、もうちょっと人の気持ちがわかるのかな。
「……まあいっか」
考えても仕方ない。明日も朝からクエストがあるし、夕方にはレッスンだ。カフェのシフトも入れてもらった。
ミリカはスマホを枕元に置いて、目を閉じた。
三秒で眠りに落ちた。
疲れていないのに、眠るのだけは得意だった。
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## 6
翌朝。プロダクションの事務所。
クラウスはデスクで書類を整理していた。
入社して三ヶ月。雇用期間中の身分ではあるが、与えられた雑務はそつなくこなしている。電話応対、スケジュール管理、資料作成、来客対応——冒険者時代に培った判断力と対応力は、事務仕事にも存分に活きていた。
「クラウスくん、これコピーお願い」
「はい」
「クラウスくん、会議室のプロジェクター動かないんだけど」
「見てきます」
「クラウスくん、自販機にお金飲まれた」
「蹴らないでください。管理会社に連絡します」
淡々と、しかし確実に。積み上げていく。信頼というのは、こういう小さな仕事の繰り返しで築くものだと、クラウスは知っていた。
昼前のことだった。
クラウスがデスク脇の通路を歩いていると、すれ違った社員がよろけて、手に持っていた水入りのコップを落とした。
クラウスの手が動いた。
コップが床に触れるよりも前に、左手が伸び、何事もなかったかのようにコップをキャッチする。水は一滴もこぼれていない。
「——危ないですよ」
「あ、ありがとう……」
社員はぽかんとした顔でコップを受け取った。クラウスは軽く会釈して、何事もなかったようにデスクに戻る。
元冒険者。Aランク。回復、飲料水精製、照明、暖房、冷房、送風、テレパシー、微未来予知、バフ系全般——面接で披露した魔法のリストは、事務所内でちょっとした伝説になっていた。「あの人、ほんとにただの事務員なの?」という囁きが、すでにあちこちで聞こえている。
クラウスはそれを気にしない。冒険者としての自分は、もう終わった。体力が衰え、前線に立つ身体ではなくなった。だからこそ、次の生き方を選んだ。誰かを裏で支える仕事——それがマネージャーだ。
午後。
事務所の空気が、にわかにざわついた。
クラウスが顔を上げると、廊下の向こうから複数の声が聞こえてくる。
「うわぁぁぁ!」
「ぎゃあ!なにそれ!!」
「やめて!やめてぇぇ!」
悲鳴——ではない。悲鳴に近いが、もう少し切迫感に欠ける。パニックというより、驚愕。
クラウスは立ち上がり、声のするほうへ歩いていった。
廊下の突き当たり、応接スペースの前。
数人の社員が壁際に張りつくようにして怯えている。その中心に、ひとりの少女が立っていた。
ミリカだった。
ダンジョン帰りらしく、量産型の軽鎧——の残骸を身に纏っている。今日は返り血こそ浴びていなかったが、鎧のあちこちが焦げ、罅が入り、肩当てが片方なくなっている。よく見ると髪に小さな骨の欠片がいくつか引っかかっていた。
だが、社員たちが怯えている原因はそれではなかった。
ミリカのジャケットのポケットから、なにかが転がり出ていたのだ。
床の上に、ごろん、と転がっている。
それは——討伐証明部位だった。
冒険者がモンスターを討伐した際に、ギルドに提出して報酬を受け取るための「証拠の品」。部位はモンスターによって異なるが、共通しているのは、だいたいがグロテスクだということだ。
今回のそれは、とりわけグロテスクだった。
あまりにグロテスクだったので、この場では詳細な描写を控えるが、床に転がったそれを見た社員のひとりは無言で踵を返し、もうひとりは口元を押さえてトイレに駆け込み、残りは壁際で硬直していた。
「もういやだ!」
若い男性社員が叫んだ。ミリカの三代目のマネージャーだった。新任からまだ一週間と経っていない。
「僕、この子の担当やめます!」
荷物を鷲掴みにして、逃げるように去っていった。
ミリカはそれをしょんぼりした顔で見送っていた。
「……また、やっちゃった」
小さく呟いて、ポケットから落ちた討伐証明部位を拾おうとしゃがみ込む。
だが、それより先に、別の手がそれを拾い上げていた。
クラウスだった。
彼は討伐証明部位を手に取り、じっと観察していた。慣れた手つきだった。眉間に皺を寄せているが、それは嫌悪ではなく、分析の表情だ。
ミリカの視界に、クラウスの横顔が映る。目つきが鋭い。三十代前半だろうか。短く切り揃えた黒髪に、仕立ての良いスーツ。その佇まいには、事務員にしては妙な凄みがあった。
クラウスは、手の中の部位を検分しながら思考を巡らせていた。
(——マンティコアLv62。この棘の色と密度はC型変異種だ。生息域は秋葉ダンジョン地下29階以降にしか存在しないはず。毒攻撃、混乱攻撃、麻痺攻撃。通常は五人編成のパーティーで挑む相手だ。しかし、この子はどうしてこれをポケットに入れていた? こんな大物の討伐証明部位を換金しそびれるなんて事は普通ないだろう、パーティ全員の報酬を分配しなければならいのに。ひょっとしてこの子がソロでやったのか?)
クラウスはミリカに目を向けた。
少女は身長百六十センチほど。華奢に見えるが、鎧の下の体幹がしっかりしていることは見てわかった。目は大きく、琥珀色で、今はやや潤んでいる。マネージャーに逃げられたのが堪えたのだろう。
クラウスは感情を顔に出さなかった。
討伐証明部位をミリカに差し出す。
「——ソロは危ないですよ」
それだけ言って、ふいっと自分のデスクに戻っていった。
自分の担当でもないアイドルに、必要以上に干渉する意味はない。
「ああ……はい、ありがとう、ございます?」
ミリカは討伐証明部位を両手で受け取り、きょとんとしていた。
逃げなかった。
悲鳴も上げなかった。
気持ち悪いとも、怖いとも言わなかった。
マンティコアの部位を素手で拾い上げて、「危ないですよ」とだけ言った。その手つきは、まるで落とし物を拾ってあげるような自然さだった。
ミリカはしばらくの間、クラウスが去っていった方向をぼんやりと見つめていた。
「……変な人」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。




