二度の死に戻り、次はない。処刑された公爵令嬢は三度目で全てを暴く
「アストリッド・オルデンブルク! 聖女ハンナへの迫害、そして数々の不正行為。その罪は明白だ。お前との婚約を破棄する!」
冷たい処刑台の上で、私は世界が軋む音を聞く。
時間が逆流する感覚。誰かに引き戻されるような――いや、何かに必要とされるような。
そして――目を開けると、見慣れた天蓋付きの寝台。
カーテン越しに差し込む朝日が、部屋を優しく照らしている。
「お嬢様、起床のお時間でございます」
侍女ミリヤの控えめな声。
――三回目だ。
私は、静かに息を吐いた。
「……鏡を持ってきて」
鏡の中には、長く伸ばした栗色の髪と翠色の瞳を持つ私が映っている。
処刑の前、髪は切られてしまったはずだった。
「今日は何年の何月何日かしら?」
ミリヤは戸惑いつつも答えた。
「王国暦523年 緑蘇月の五日でございます」
――今回も、処刑の一年前に戻ってきた。
聖女を虐げた、不正を行ったと、覚えのない罪に問われた。
王太子との婚約は破棄され、父の抵抗も空しく、私の処刑は決まってしまった。
最初の人生では絶望した。二回目では国境を越えて逃げようとした。
でも、三回目の今、私の心は妙に澄んでいた。
(なぜ私は、記憶を保ったまま生き返るの?)
父である公爵に私は告げた。
「社交界への出席は、当面控えさせていただきますわ」
父は困惑の表情を見せたけれど、溺愛する娘の願いを無下にはできなかった。
婚約者である王太子エリクには近づかない。
聖女ハンナとも距離を置く。
平民出身だが、神秘的なプラチナブロンドに紅い瞳。
人間離れした美貌に王太子が心を奪われていることは分かっている。
そして、ハンナもエリクへ熱い視線を送っていた。
王太子エリクは、焦っていた。
三年前、南方で魔物の大群が発生し、辺境の村々が壊滅した。
そして二年前、東の大河が氾濫し、穀倉地帯が水没した。立て続けの災厄。
そんな時、現れたのが聖女ハンナだった。
疫病を癒し、豊穣をもたらし、魔物を退ける奇跡の力。
エリクは、彼女こそが王国を救う希望だと信じた。
「聖女の加護があれば、この国は安泰だ」彼は貴族たちに、そう繰り返し説いていた。
「奇跡は政治を超える。我々に必要なのは、聖女への絶対的な信頼だ」
――それは、崖っぷちに立つ王子の、必死の賭けだった。
だからこそ、聖女を疑うことは、彼にとって王国を見捨てることと同義だった。
私は、その希望を邪魔する存在として、排除されたのだ。
私は何も関わらない。
運命の盤上から、自ら駒を下ろす。それが今回の戦略だった。
(……それでも、運命が追ってきたら?)
私は冷たく微笑んだ。
「その時は、追ってきた足を折るまでよ。そして今度こそ、真実を突き止めるわ」
静かな日々は長く続かなかった。
聖女ハンナが階段で転び、たまたま近くにいた私が突き飛ばしたと噂された。
私は冷静に観察した。
噂がどう広がるか。証拠がどう現れるか。人々の感情がどう動くか。
この後の展開は知っている。
王家主催の慈善事業で資金横領疑惑が浮上し、私の筆跡を模した証拠書類が発見されるだろう。
傍観していても、罪は作られる。
王都の公文書局。私の家は慈善事業の協賛貴族として、定期的に書類を提出している。
過去二回の人生でも、横領疑惑の証拠は必ず公文書局経由で発見されていた。
決定的な証拠がちょうどいいタイミングで現れる。
人間の陰謀に、世界の歪みが乗っている。まるで増幅器のように。
――だが、今回は違う。私には、積み上げるべき証拠がある。
私は侍女ミリヤを呼んだ。
「ミリヤ。公文書局に提出する書類、全ての控えを取って。そして――」
私は羽ペンを手に取り、紙に文字を書いた。
「私の筆跡の癖を、ここに記録しておくわ」
「お嬢様……これは?」
「いつか、必要になるものよ」
そして私は、公文書局の鑑定官オスカル・バールデンに接触した。
王太子の側近、ステンベルグ伯爵の遠縁だ。
彼は王太子派からの圧力に怯えている。
鑑定前に予想される結論を伝えられ、それに沿った報告を暗に求められることが増えていた。
逆らえば懲戒される、と遠回しに仄めかされる。
王太子の側近の遠縁という立場が、かえって彼を縛る鎖となっていた。
「あなたの立場は知っているわ……。でも、誇りは捨てていないでしょう」
「どうしてそれを……」
私は彼に、筆跡の癖の記録を渡した。
「いつか書類が出てきた時、あなたの目で見てください」
彼は震える手で、それを受け取った。
王太子派の動機も明確だった。父は苦い顔で言った。
「娘よ。教会と王家が結びつけば、貴族の自治は終わる。彼らは聖女を盾に、全てを支配するだろう」
聖女ハンナを守るため――いや、正確には「聖女の加護を独占するため」だ。
人間の欲望が、聖女の力を呼び水にしている。誰もが聖女に望みを叶えてもらおうと群がり、醜い欲望を作法という名の仮面の下に隠していた。
けれど、そうでない人々もいる。
私は、かつての人生で関わった人たちのことを思い出していた。
*
一回目の人生。
王立庭園での茶会で、侯爵夫人が声を潜めて囁いた。
「まあ、聖女様の足を引っ張ろうとしたのですって? 公爵令嬢ともあろう方が」
「教会の慈善事業にも協力を拒んだそうですわ。なんて傲慢な」
私の周りから、貴婦人たちが一人、また一人と離れていく。
紅茶を口にする手が僅かに震えた。
完全な孤立。
――その時だった。
「アストリッド様! お待たせいたしました」
明るい声と共に、緋色の髪の娘が駆け寄ってきた。
辺境伯家の娘、フリーダ・ノルドヴィント。
「フリーダ様……?」
「ごめんなさい、遅れてしまって。さあ、こちらでゆっくりお話ししましょう」
彼女は自然に私の隣に座り、侍女に紅茶を注がせた。
周囲がざわめく。
「ノルドヴィント辺境伯家の令嬢が……」
「あの方と親しいの……?」
フリーダは気にした様子もなく、クッキーを一つ取った。
「アストリッド様、美味しいですわよ」
「でも、私……」
「聖女様の言うことが全て正しいとは限りませんわ」
フリーダは真っ直ぐに私を見つめた。
「私、あなたを信じます。なぜなら……」
彼女は少し照れたように微笑んだ。
「アストリッド様は昨年、私が社交界デビューで失敗して泣いていた時、優しく声をかけてくださったでしょう?」
フリーダは、それまで北方の辺境伯領で育った。
都の華やかな社交界など知る由もなく、初めて王宮の舞踏会に参加した時、彼女は流行遅れのドレスを身にまとっていた。
それだけでも恥ずかしかったのに、よりによってそのドレスの色が王妃陛下のものと被ってしまうという失態を犯してしまったのだ。
周囲の貴族たちは、彼女の無知を嘲笑した。
「その時の言葉、今でも覚えています」
「……それは……」
「『誰にでも失敗はあるわ。大切なのは、そこから何を学ぶかよ』って」
フリーダの青色の瞳が、懐かしむように遠くを見つめた。
あの日、彼女が泣き止むまで寄り添っていたことを私は思い出す。
「だから、今度は私の番。私があなたを支えますわ」
――その代償は、あまりにも重かった。
三ヶ月後。
辺境伯家の滞在邸。
「王太子派の圧力で……領地の税制優遇措置が全て取り消されました」
フリーダの声は震えていたが、決意は揺るがなかった。
「でも、私の選択は間違っていません」
「フリーダ……私のせいで……」
「違います。父も私が正しいと言ってくれました」
彼女は私の手を強く握った。
「アストリッド様。私はあなたの味方ですわ」
処刑の日。
フリーダは叫んだ。
「あなたは悪人なんかじゃない! 世界が間違っているのよ!」
護衛に取り押さえられても、彼女は叫び続けた。
それが、私が最後に見た光景だった。
二回目の人生では、私はフリーダに近付かなかった。
彼女に迷惑をかけるのが怖かったからだ。
それでも、時期は違えど辺境伯家の領地は王太子派の圧力を受けていた。
ノルドヴィント辺境伯家が中立だったからだろうか。
処刑台の上の私に、涙を流しているフリーダがはっきり見えた。
三回目、王立庭園。同じ茶会。
私は意を決して、フリーダに話しかけた。
「フリーダ様、少しお時間をいただけますか?」
「あら、アストリッド様。もちろんですわ」
人目を避けた東屋で、二人きりになった。
「突然ですが……あなたは、私を信じてくださいますか?」
「え?」
「以前、あなたは私のために戦ってくれた。覚えていないでしょうけれど」
フリーダは不思議そうに首を傾げた。
「仰っていることは分かりませんが……私、あなたを信じます」
一回目と全く同じ調子で彼女は言った。
そして胸に手を当て、柔らかく微笑んだ。
「アストリッド様の親切は忘れていません。でも……私があなたを信じるのは、それだけが理由じゃない気がするんです」
涙が零れた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
「まあ、どうしたのです?」
フリーダが慌ててハンカチを差し出す。
「いいえ、何でもありませんの。ただ……嬉しくて」
(今度こそ、フリーダを守る。あなたには、幸せになってほしい)
*
二回目の人生で出会ったのは、隠遁魔術師・ソルヴァルド老師。
深い森。馬車も通れない獣道を、私は一人で歩いていた。
古びた石造りの小屋。煙突から煙が上がっている。
扉を叩くと、白髪の老人が顔を出した。
「誰じゃ? こんな辺鄙な場所に……」
「お話があります。私を中に入れていただけませんか」
小屋の中は、書物と魔術道具で溢れていた。
「単刀直入に申し上げます。時間が巻き戻る理由を知りたいのです」
老師は怪訝な顔をした。
「時間が巻き戻る……? 何を言っておる」
「私は一度、死にました。処刑されたのです。でも、気づいたら一年前に戻っていました」
「……!」
「今、私は二回目の人生を生きています。そして、また処刑に向かって進んでいます」
私は一回目の人生の詳細を語った。
老師は震え始めた。
「こ、これは……時間遡行を自覚している……?」
老師は古文書の山を掻き分けた。
「待て……待つのじゃ……確か、世界法則の異常について記した文献が……」
何冊もの本を開き、また別の本を開く。計算式。魔法陣。理論の組み立て。
「あと少しじゃ……あと少しで真実に……」
――だが、その時。
小屋の扉が激しく叩かれた。
「アストリッド・オルデンブルク! 王太子殿下の命により、あなたを逮捕する!」
老師は必死に私を見た。
「次があるなら、必ず……必ず、間に合わせる……!」
三回目。扉を開けた老師は固まった。
「……お主、また来たのか」
老師の目から涙が溢れた。
「すまぬ……すまぬ……前回は間に合わなかった……」
「覚えて……いらっしゃるの?」
「……断片だけじゃ」
老師は杖を握りしめ、震える手で私を招き入れた。
「あの後、己の魂を削って記憶保持の魔法をかけた。世界が巻き戻っても、強い感情の痕跡だけは残るように」
彼は咳き込んだ。
「だが、代償は大きかった。ワシはすっかり体が弱くなってしまった」
「老師……」
「それでも足りなかった。記憶は断片しか残らぬ。お主の顔、お主の絶望、そして……ワシ自身の無念だけじゃ」
彼は深く頭を下げた。
「だがそれで十分じゃった。お主が再び来たとき、必ず気づけるように。今度こそ、全力で協力させてくれ」
「ありがとうございます……でも、もうご自分を傷つけないでください」
「いや」
老師は静かに首を振った。
「これはワシ自身が選んだことじゃ。学者として、魔術師として――目の前で絶望する者を見捨てた罪を、償わせてくれ」
*
そしてラヴン。
彼との出会いは、最も複雑だった。
一回目の人生。処刑台の上。
私は、黒い制服を着た青年を見た。騎士団の制服。だが、どの部隊とも違う紋章を着けている。
「執行監視官……ラヴン・リクデルだ」
黒髪の青年は無表情に名乗った。
「王命により、この処刑が正しく執行されるか監視する」
灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
処刑執行人が斧を構える。
私は、彼を見た。
「……あなた、辛くないの?」
ラヴンの瞳が僅かに揺れた。
「……任務だ」
「そう。でも……」
私は微笑んだ。
「今のあなたの目、悲しそうよ」
刃が落ちる瞬間、彼の唇が小さく動いた。
それが「すまない」という言葉だったと気づいたのは、時間が巻き戻ってからだった。
二回目。私は自分から彼に近づいた。
騎士団本部。
「執行監視官、ラヴン・リクデル殿。お話があります」
「……公爵令嬢が、なぜ私を?」
彼は警戒した目で私を見た。
「あなたは、私の処刑を見たことがある」
「何を言って……」
「今は信じられないでしょうけれど」
私は静かに語り始めた。
「王国暦524年 緑蘇月の五日、王都広場で私は処刑された」
「……」
「あなたは処刑台の左側に立つ。そして、私の最期を見届けた」
「馬鹿な……そんなことが……」
ラヴンは後ずさった。
「これから起こることも教えてあげられるわ」
それから数週間。
私が語った通りの出来事が次々と起こった。彼は、ついに私に連絡を寄こした。
「……本当に、未来を知っているのか」
「未来ではなく、過去よ。私にとっては」
「なぜ、俺に話した」
「あなたは、私を悼んでくれた。だから」
「俺が執行監視官なのにか……。汚れ仕事をやらされるのは訳アリばかりだぞ」
「立派な仕事よ。それにきっと理由があるのでしょう。あなたは高潔な人だと思うわ」
ラヴンはためらいながら口にした。
「俺は三年前、平民を見殺しにしようとした上官の命令に逆らった。それ以来、騎士団の主流から外された」
「それは辛かったでしょうね」
私は彼の瞳を見つめた。そこには後悔ではなく、誇りが宿っていた。
「でも、あなたは正しいことをした。その選択を、私は尊敬するわ」
ラヴンは驚いたように目を見開き、そしてわずかに頷いた。初めて、彼の表情に温かみが灯った気がした。
「今度は、違う未来を見たいの」
――でも、運命は容赦なかった。
処刑台で、ラヴンは私の予言通り、左側に立っていた。
「すまない……力になれなかった……」
「いいえ」
私は首を振った。
「あなたは信じてくれた。それだけで、十分よ」
「次があるなら……」
ラヴンは拳を握り締めた。
三回目の人生。騎士団本部。
扉を開けた彼は、私を見て立ち止まった。
「アストリッド・オルデンブルク公爵令嬢……?」
「私を覚えていて?」
「いや」
彼は静かに首を振った。
「君には初めて会う。だが……君を、知っている」
ラヴンは自分の胸を押さえた。
「昔、君を守れなかった無念が、この胸に残っている」
「お願い……一緒に戦って」
私は手を差し出した。
「未来を変えましょう」
ラヴンは静かに微笑み、私の手を取った。
*
ソルヴァルド老師の研究で、ついに真実が明かされた。
「これは……」
老師は震える手で古文書のページをめくる。そこには、世界の成り立ちについての記述があった。
「運命干渉系の力じゃ。だが、二つの力が同時に働いておる」
彼は深く息を吸った。
「一つは、強大な願望による因果の歪み。おそらく聖女の奇跡じゃろう」
私は頷いた。それは既に予想していた。
「そしてもう一つ……世界の自己修復機能じゃ」
「自己修復?」
「聖女の力は強大すぎた。彼女の無意識の願望が因果を捻じ曲げ続け、世界そのものが壊れかけておる。だから世界は選んだのじゃ――その歪みを認識し、修正できる魂を」
老師は私を見つめた。
「お主は、歪みを認識できる唯一の存在。だから世界は、お主を手放さぬ」
「なら、私が歪みを正せば……」
「解放されるじゃろう。だが……」
老師は深刻な顔をした。
「お主という存在が、完全に消滅するかもしれぬ」
「……それでも。このまま永遠に処刑され続けるよりは、消滅する方がましですわ」
私は老師と共に因果律を正す魔法陣を完成させた。
「これが、お主の武器じゃ」
発動には膨大な魔力と、一切の誤差を許さない精密な演算が必要とされる。
そしてさらに問題があった。対象――聖女ハンナの近くで展開しないと効果がないということだ。
私の元に王太子からの召喚状が届いた。
聖女を貶めたという疑い。
これは好都合だ。――その日に決着をつける。
私は召喚状への返書に、こう記した。
「弁明の機会を賜りたく、王宮にて正式な審問の場を求めます。証拠の提示と真実の検証を」
王家の慣例法では、召喚された貴族が求めた場合、審問の場を設ける義務がある。
老師が作った魔法陣には、王立魔術院の認証印が押されていた。
「これは危険な魔法ではない、という証明じゃ。『真実を明らかにする検証魔法』として申請した」
老師は、魔法陣を私に手渡した。
「認証印があれば、王宮でも魔法陣の展開が許可される。ただし……」
「わかっています。成功の保証はない」
私は魔法陣を胸に抱いた。
「それでも、やるしかありませんわ」
*
審問の日。
ラヴンは私を見守っていた。
「失敗すれば、君そのものが消えるかもしれない」
「もう二回、消えていますわ」
「俺は……魔法は使えない。手助けできない」
「あなたは、三回の人生で、ずっと私を見ていてくれた」
私は彼に微笑んだ。
「だから、大丈夫」
王宮の大広間。
王太子エリク、その傍らに聖女ハンナが立っている。
ラヴンの姿を見て訝し気な顔をするが、彼は私の護衛として申請済みだ。
貴族たちが居並ぶ中、王太子たちの前に立った。
「アストリッド・オルデンブルク! 聖女ハンナへの迫害、そして数々の不正行為。その罪は明白だ。お前との婚約を破棄する!」
王太子の声が響く。
「婚約破棄だけは承りますわ」
貴族たちがどよめいた。
「聖女ハンナを陥れ、王家の慈善事業を妨害した罪を認めないのか」
「認めません」
私は静かに答えた。
「では、これをどう説明する」
側近が証拠書類を提示する。私の筆跡とされている横領計画書。
「その書類の、公式な鑑定結果はありますか?」
側近の顔が一瞬強張る。
「……これは貴女の筆跡です。疑いの余地はありません」
「では、公文書局の鑑定を経ていないと?」
私は袖口内から一通の封書を取り出した。
「公文書局鑑定官、オスカル・バールデン殿による、正式な筆跡鑑定書です」
私は封書を側近に手渡した。
封蝋を破り、彼は鑑定書を朗読する。
「――本書類に記された筆跡は、アストリッド・オルデンブルク嬢の筆跡と酷似しているが、偽筆であると断定する」
広間が騒然となる。
専門的な指摘が続く。あの日、私が記録した筆跡の癖の全てが、今、武器となって偽造を暴いていた。
「王太子殿下の側近、ステンベルグ伯爵の遠縁ですね」
私は静かに言った。
「だからこそ、この鑑定結果には重みがある。彼は圧力に屈さず、真実を記した。専門家としての誇りにかけて」
私はさらに魔法陣を取り出した。
「この場で、真実をお見せしましょう。これは王立魔術院認証の検証魔法陣です」
「何をする気だ!」
警備の騎士たちが詰め寄って来る。
だが、ラヴンが立ち塞がった。
「待て」
彼は静かに言った。
「彼女は正式な審問手続きに則り、真実検証を求めている。執行監視官として、その権利を認める」
「貴様、執行監視官のくせに……!」
「俺の任務は、正しい裁きが行われることを見届けることだ」
ラヴンは剣を抜いた。
「彼女の言葉を聞くまで、誰も通さない」
私は魔法陣を広げ、魔力を注ぎ始めた。
青白い光が立ち上る。世界の歪みを可視化する魔法陣。
そして――因果を正常化する、世界修復の魔法。
(お願い……成功して……)
魔法陣が輝き始める。
私の魔力だけではない。世界そのものが、私の行為に呼応している。
大地から、空気から、光から――あらゆるものが力を注いでくる。
「これが……世界の意思……」
歪んだ因果が悲鳴を上げるように軋む。
聖女ハンナの胸元から、淡い金色の光が溢れ出す。
「いや……やめて……私、ただ幸せになりたかっただけなのに……」
ハンナの瞳に浮かぶのは、恐怖と困惑。
彼女は自分が何をしていたのか、わかっていない。
ただ願った。誰かに愛されたかった。
だから、邪魔になる私を無意識に排除しようとしていた――その純粋な祈りが世界を歪めるほどの力になっていることも、知らずに。
――その瞬間。
魔法陣の一角が激しく歪んだ。
「くっ……!」
無意識の願望が抵抗している。幸せでありたいという、誰もが持つ当たり前の祈りが。
それは悪意ではない。ただ、あまりに強すぎた。
世界を歪めてきた強大な願望が、正常化を拒んでいる。
魔力の流れが乱れる。演算に誤差が生じる。
(このままでは……魂が砕ける……!)
視界が揺らぎ、意識が過去へ引きずられていく。
――処刑台。
――冷たい刃。
――民衆の罵声。
「アストリッド!」
ラヴンの声が、幻覚を引き裂いた。
「俺には魔法は使えない。だが、これならできる」
彼は剣で地面を叩き、規則正しいリズムを刻む。
それが――私の魔法を支える拍子になった。
「ラヴン……」
「お前は一人じゃない。俺がここにいる」
彼は叫ぶ。
「お前が三回の人生で積み上げてきたもの、全部見せてやれ!」
私は深く息を吸った。
(そうだ。私は一人じゃない)
フリーダの微笑み。
ソルヴァルド老師の献身。
ラヴンの誓い。
三回の人生で出会った、全ての絆が私を支えている。
「もう一度――!」
私は魔力を解放した。
魔法陣の輝きが強くなる。
歪みが、少しずつ正常に戻っていく。
聖女の力が、形を失って崩れていく。
光が弾け、因果が元の流れに戻る。
――そして、深い静寂。
私は膝をついた。魔力を使い果たし、体が言うことを聞かない。
でも、生きている。消えていない。
(成功……した……)
ラヴンが駆け寄り、私を支えた。
「よくやった」
「……ありがとう。あなたがいなければ、失敗していたわ」
私は感じた。世界からの、感謝のような温かさを。
(……ありがとう、と言っているのかしら)
(どういたしまして、ですわ)
奇跡は消えた。
歪みが正された結果、全ての力を失い、聖女はただの少女となった。
魔力は平凡。性格も素朴。くすんだ灰色の髪に灰色の瞳の普通の容姿。
王太子エリクは両手で顔を覆った。
「私は……何も気づかずに……彼女の力に頼って……」
そして、私の前に膝をつく。
「すまない……許してくれとは言わない」
私は静かに首を振った。
「殿下、三回分の謝罪は、受け取りました」
「待て……三回とはいったい……」
私は、ただ淡々と言う。
「私は、あなたを愛していません」
王太子の瞳が揺れる。
「これからは、私のために生きます。殿下も、ご自分のために」
踵を返した。
*
春。
王都の外れの瀟洒な屋敷。
垣根に囲まれた庭の一角で、私は紅茶を口にする。
侍女のミリヤが傍らに控えている。
フリーダとソルヴァルド老師、ラヴンを招いて一緒にお茶を飲んでいた。
「そんなことがあったなんて」
話を聞いたフリーダが驚いたように言う。
「ワシの体も治ったわい」
ソルヴァルド老師は、背筋も伸び、顔色も良くなっていた。
「ええ。世界が、ようやく普通になりましたわ」
もう巻き戻りはない。ただ、自分の選択の積み重ねだけがある。
ラヴンが穏やかな瞳で私を見つめていた。
フリーダが急に立ち上がった。
「まあ、ソルヴァルド老師! あちらの花をご覧になって。あれは確か……薬草ではなくて?」
「ん? どれじゃ?」
老師が顔を上げる。
「ほら、あちらの白い花。老師なら一目で分かるでしょう?」
「ふむ……ちと遠いのう」
フリーダは老師に近づき、さりげなく何かを囁いた。
「……ああ、なるほどのう」
老師は小さく頷くと、フリーダに続いて立ち上がった。
「では、少し見てくるとしよう。アストリッド様、また後程」
フリーダは片目をつぶると、老師と二人で離れていった。
侍女のミリヤが口を開いた。
「お嬢様。私どもも少し離れた場所におります。お呼びいただければ参りますので……大丈夫でございます」
珍しくいたずらっぽい表情をして、ミリヤはそう言った。
どういう意味だろう?
ラヴンと私だけが残された。
柔らかな陽光。風に揺れる庭の花。小鳥のさえずり。
静寂の中、ラヴンがぽつりと呟いた。
「世界に選ばれた、か」
「ええ。でも、それでよかったのかもしれませんわ」
「……どういうことだ?」
「使命があったから、何回も立ち上がれた。そして今、ようやく自由になれた」
ラヴンは静かに言った。
「……三回の人生で、俺はずっと君を見ていた」
「覚えていないのに?」
「記憶はなくても、魂が知っていた」
彼の声が、いつになく柔らかい。
「処刑台で君を見送った罪悪感。守れなかった無念。そして、三度目に君と出会った時の……」
ラヴンは言葉を探すように、一度息を吸った。
「運命だと思った」
灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「君は世界に選ばれた。でも俺は……」
彼は私の手を取った。
「俺自身の意思で、君を選んだ」
「ラヴン……」
「一人の男として。君の隣にいてもいいだろうか」
胸がきゅっと痛んで、涙が滲む。
「……ずるいわ」
「え?」
「三回分の想いを、一度に言われたら」
私は涙を拭って、くすりと笑った。
「断れるわけがないじゃない」
立ち上がり、そっと彼の頬に手を添えた。
「今度は、ただ隣にいて」
私は微笑む。
「愛してる、アストリッド」
「私も」
私は彼の手をそっと握り返した。
「三回分の人生をかけて、ようやく辿り着いた場所だもの」
春の陽光が、二人を柔らかく照らしている。
世界の物語は終わった。
今度こそ――私は、私の物語を始める。




