五
扉を…
本を手にしたまま
慧斗は玄関の敷居をゆっくりと越えた
湿った空気が足首に絡み付き
雨の冷たさとは違う
古い家特有の湿り気が
皮膚の内側へ入り込んでくる
玄関から伸びる廊下は長く
灯りはなく
奥に向かうほど闇の圧が増している
踏んだ床板が小さく軋む
その音が今この家で唯一の“生きた音”だった
君は何を観る
あの声がまた頭の中へ落ちてくる
本は何も言っていない
ただそこにあるだけなのに
声は本の奥底から漏れているようにも
この家全体が囁いているようにも聞こえた
廊下の突き当たり
右手に古いふすま
左手には開いたままの扉
そして真正面に
黒い影だけが濃く沈む部屋があり
そこから冷たい風がゆっくりと流れてきた
風と一緒に
微かな笑い声が混じっている
子どもとも
女とも
老人ともつかない声
ただ
生きている人間の声ではないと
直感が告げていた
握りしめた鍵が
手の中で熱を上げる
ぐらりと視界が揺れ
まるで鍵が歩く方向を指示しているように見えた
その時
左の部屋で
がたん
何かが落ちる音がした
慧斗は反射的に身を硬くし
次の瞬間
ふすまの向こうで
ずるずる
何かが這う音が続いた
この家には
誰もいないはずなのに
心臓の鼓動が耳を打つ
逃げるべきだと理性が叫ぶのに
足は奥の暗闇へ向かって進んでしまう
本の模様が脈打つ度
影が揺れ
廊下の空気が歪む
突き当たりの部屋に近づくと
闇に沈んだ入口の向こうで
扉のような形の“線”が浮かび上がった
輪郭はぼやけており
まるで空中に切り込みだけが残されたようだった
師の扉だ
頭にその言葉が浮かぶ
誰が言ったわけでもない
だが確信だけが胸を刺した
そして
その扉の前に
少女が立っていた
あの
夢乃本を開いてしまった少女
制服はぼろぼろで濡れ
肌は生きている人間の色ではなかった
それでも
こちらを向いた瞳だけが
確かに慧斗を捉えていた
来ちゃったね
少女の声は
空気を震わせず
直接脳に響く音だった
涙のようなものが頬を伝っているが
それが本当に涙なのか
わからないほど黒く濁っていた
帰れないよ
ここに来たら
少女が指差す
その先
“扉の形をした闇”がわずかに開いた
中から吹き出す空気は
寒さではなく
記憶の底を探り出すような鋭さがあった
慧斗の握る鍵は
勝手に回り始める
手が止められない
誰かが
いや
何かが
向こう側で待っている
その存在は
師と呼ばれるものなのか
それとも
“師になれなかった何か”なのか
少女が静かに呟いた
観たら最後
君はここに属する
扉が軋む音が近づいてくる
闇が裂ける
中から
手とも影ともつかないものが
ゆっくりと伸びてきた
慧斗は息を呑んだ
鍵が最後の音を立て
扉が完全に口を開いた
その瞬間
全ての音が消えた
口に開ける




