十六
鏡に映る自分が、
ほんの少しだけ違って見えたことはないだろうか。
声の調子。
笑うタイミング。
「こんなんやったっけ」と思う瞬間。
この物語は、
それを気のせいで済ませなかった世界の話だ。
奪われるのは、命じゃない。
もっと曖昧で、
もっと誰にも説明できないもの。
——「自分である感覚」。
ページをめくる前に、
一つだけ約束してほしい。
今、あなたが“読んでいる側”だと、
本気で信じ切らないこと。
影が、俺から完全に剥がれた瞬間、
足元がひどく軽くなった。
——いや、軽いんやない。
重さを、持っていかれた。
「……返せ……」
声が、情けないほど薄い。
自分の喉を通ったはずなのに、
空気に溶けて消えるみたいや。
影は振り返らない。
いや、振り返れないのかもしれない。
顔がない。
あるのは、俺の形をした“黒”だけ。
電車の床を、影が歩く。
足音はしない。
その代わり、
畳を踏むような、
ぎし、ぎし、という音が頭の奥で鳴る。
ガラスに映る“俺”が、満足そうに言った。
「声、影、次は姿や言うたやろ」
「……ふざけるな……俺は……俺や……!」
必死に叫んだ瞬間、
周囲の乗客が、一斉に口を開いた。
全員、同じ声。
俺の声。
『せやから言うたやん』
『ページ、めくるで』
『君の番や』
耳を塞いだ。
けど、音は内側から聞こえてくる。
スマホが、また震えた。
《新しい章が追加されました》
勝手に画面が切り替わる。
映ったのは、文章。
――いや、台本や。
【第十六話:空席】
登場人物:
・俺
・俺
・俺
「……やめろ……」
ページを閉じようとした指が、
途中で止まる。
指が、俺のもんやない。
皮膚の感覚が、
一瞬遅れて伝わってくる。
まるで、
他人の手を遠隔操作してるみたいや。
影が、電車のドアの前に立った。
ちょうど、次の駅。
アナウンスが流れる。
「――次は、○○。
お降りの方は――」
その声も、途中から歪んだ。
「――お残りの方は、ページを進めてください」
ドアが開く。
ホームは、ない。
広がっているのは、
あの昭和の部屋。
畳。
黄ばんだ壁。
中央に、夢乃本。
影が、振り返った。
初めて、顔があった。
——俺の顔。
完璧に同じ。
ただ一つ違うのは、
表情だけ。
楽しそうやった。
「安心せえ」
影が言う。
俺の声で。
俺の癖で。
「君はもう、
“読む側”や」
背中を、誰かに押された。
——いや、違う。
影が、俺の背中を内側から押した。
足が、勝手に前へ出る。
畳の感触。
懐かしい匂い。
電車のドアが、背後で閉まった。
ガタン、と音がして、
世界が固定される。
夢乃本が、
ゆっくりと開いた。
白紙だったページに、
文字が浮かぶ。
『ようこそ』
『ここは、君が失くした場所』
『次は——』
ページが、めくられる。
『君が“消える”ところを書こうか』
その瞬間、
外から声が聞こえた。
電車のガラス越しに、
“俺”が、手を振っている。
笑いながら。
「ほな、行ってくるわ」
電車が、走り出す。
俺の姿を乗せて。
畳の上に残された俺は、
声も影もないまま、
ただページがめくられる音を聞いていた。
——続く。
ページが、
ひとりでにめくれた。
ぱら、
ぱら、
と、紙の擦れる音だけが、
この部屋の心臓みたいに鳴っている。
俺は、声を出そうとして気づいた。
——口が、動かへん。
いや、口は動いている。
感覚が、そこに追いついてこない。
手を見る。
指は五本ある。
でも、境目がない。
皮膚と空気の区別が、
曖昧や。
「……ここ……どこや……」
今度は、
声が出た。
けど、それは
部屋の外から聞こえた。
畳の上に、影が落ちる。
——俺の影じゃない。
夢乃本の向こう側、
障子が、すーっと開いた。
そこに立っていたのは、
知らない男でも、
俺でもなかった。
顔が、ページでできている。
文字が蠢いて、
目の位置に句読点が浮かぶ。
「質問や」
紙の顔が言う。
声は、ページをめくる音そのもの。
「君は、
自分が消えたことに、いつ気づいた?」
「……消えてへん……」
反射で答えた。
けど、言い終わる前に、
部屋が揺れた。
畳が、へこむ。
俺の足の下だけ。
まるで、
俺が“重さ”を持ってないみたいや。
夢乃本が、
ばさり、と閉じた。
次に開いたページには、
写真が貼られていた。
——電車の中。
ガラスに映る、
笑っている俺。
今も、動いている。
瞬きをして、
首を傾げて、
隣の乗客に話しかけている。
《ちゃんと通勤してます》
《ちゃんと生活してます》
《問題、ありません》
文字が、
写真の下に浮かぶ。
「……嘘や……」
その瞬間、
スマホの通知音が鳴った。
——ここには、電波なんてないはずや。
画面には、
見慣れた名前。
母
《今日、あんた帰り遅い?》
血の気が引く。
——返事、できるんか?
指が、勝手に動いた。
《少し遅くなる》
送信。
すぐ既読。
胸の奥が、
ぎゅっと潰れた。
「ほらな」
紙の顔が、
楽しそうに言う。
「もう君は、
世界に影響を与えられへん存在や」
「代わりに——」
障子の向こうから、
足音。
一歩。
二歩。
聞き覚えのある歩き方。
——俺や。
部屋に入ってきたのは、
“今の俺”。
コートを着て、
スマホを見て、
完璧に生活してる俺。
ただし、
影が、二つある。
一つは、足元。
もう一つは、
畳の上を這って、
俺のほうへ伸びてくる。
「紹介しとくわ」
“俺”が言う。
「君の残りカス」
影が、
俺の足首に触れた。
冷たい。
でも、懐かしい。
「これから君はな」
“俺”が夢乃本を開く。
「思い出になるんや」
ページに、
新しい文字が刻まれる。
『設定:
元・本人
用途:夢、違和感、デジャヴ』
「誰かが、
ふとした時に感じる
“あれ?”の正体」
“俺”が、笑う。
「それが君や」
部屋の壁に、
無数の影が浮かび上がる。
泣いてる影。
叫んでる影。
黙って座ってる影。
——全部、俺や。
最後のページが、
ゆっくりと閉じられる。
夢乃本の表紙に、
新しいタイトルが浮かんだ。
『君だったもの』
電車の走る音が、
遠くで鳴る。
世界は、
何事もなかったように、
今日も動いている。
俺だけが、
ページの余白に残されたまま。
——次の読者が、
ここを開くまで。
彼は死んでいません。
消えてもいません。
ただ、
「世界に影響を与えられなくなった」。
それだけです。
名前も、声も、役割も、
すべて“正常”に引き継がれたあと、
余った部分として残された。
夢乃本が集めているのは、
犠牲者ではありません。
違和感です。
誰かがふと立ち止まる瞬間。
理由のない不安。
説明できない既視感。
その一つ一つが、
かつて「誰か」だった。
そして今、
あなたはこの物語を
最後まで読んだ。
——ということは。
もう、
ガラスに映る顔を
見ないままでいられますか?
次に電車に乗ったとき、
影が少し遅れて動いても、
笑っていない“はず”の自分が
笑っていても。
それでも、
ページをめくらずにいられるか。
この本は、
まだ閉じていません。




