うしなわれたオオカミの国
「権力が欲しい」
村の外れ、十五になる一人の少女が、大岩によじ登って真面目な顔で腕を組んでいた。ノアは水を汲んできた桶を置き、少女を見上げた。
「いきなり何を言い出すかと思ったら……。何かあったの?」
ノアが住む小さなあばら家前の大岩のため、少女の行動は嫌でも視界に入る。村人とあまり関わらぬよう、あえて村外れに居を構えているというのに、この少女は、同じ年頃の遊び相手が欲しいのか、頻繁にここへ遊びに来る。
「昨日の夜、寝つきが悪かったものだから、ちょっと考えてたのよ。ほら。眠れない夜って、なんだかいろんなことが頭を巡るものでしょ? それで私、生きていくために必要なものって、食べ物とかお金とか、腕力とか知識とか、いろいろあるけど、やっぱり一番あればいいものって、権力だなって思ったのよ」
「……よくわからないけど、スカートの中見えてるよ、レアリー」
年頃のわりに大ざっぱな性格のレアリーも、さすがにほんのりと頬を染めた。スカートを手で押さえ、楚々たる動作で岩から下りる。そして軽く咳払いをした後に、また胸を反らして腕を組んだ。
「で、ノアはどう思う? 正解だと思う?」
「権力が一番大事だって? うーん……。レアリーって、たまにおかしなこと悩み出すよね」
「私は、真剣なの」
「……権力なんて、持っても、良いことないんじゃないかな。しがらみが増えるだけで」
「そんなことないわ。だって、権力があれば、きっと願いが叶えられるから」
「願いって?」
レアリーはいつも、はっきりし過ぎているというくらい率直だ。しかしいまは急に口を閉じた。じっとノアを見つめたかと思うと、視線はノアの頭に生える銀毛の耳に移る。人間にはない三角形の獣の耳だ。頭に並んでついている。見つめられ、ノアは耳を軽く震わせた。つられて、腰布の下に隠した尻尾も一振り動く。
「な、何? じっと見て」
「……ねえ。耳、触ってもいい?」
ノアは顔を赤くして、両手で耳を隠した。
「だめだよ」
「じゃあ、耳じゃなくて尻尾」
「だめだって」
レアリーは「むぅー」と拗ねて唇を尖らせた。かと思ったら、あくどい顔でノアへ飛びついた。
「隙あり!」
「うわっ!」
二人で地面に倒れる。レアリーはノアの柔らかな耳を触った。
「ああ……ノアの耳、ふわふわで気持ち良い……。よしよし」
「……僕はイヌじゃないよ」
「もちろん知ってるわ。オオカミでしょう?」
「くすぐったいよ。早く退いて」
無視して耳の感触を楽しむレアリーの体が、急に上下反転した。次の瞬間にはノアがレアリーの耳を触っていた。
「ほら。レアリーだって、同じことされたらくすぐったいでしょ」
レアリーは赤面した。ノアの胸を押しやる。呆気ないくらい、ノアは簡単に離れた。
親しげだったノアが、急に一線を引いたような目になって、言った。
「さあ。早く帰りなよ。――僕と遊んでたら、家の人が心配するよ」
×××
『うしなわれたオオカミの国』という、誰もが知る有名な説話がある。いわく、数百年前、この島は狼の国だった。狼は獣でありながら、言葉を操るほどの知性を持ち、協調し合いながら暮らしていた。
そんな彼らの長を『狼王』と言った。狼王は、不死に近い長寿と、不思議な力を持っていた。狼たちが安寧に生きていけるよう、狼王は彼らを束ねていた。
しかしある時、平和に暮らす狼たちの島へ人間たちが逃げてきた。我が物顔で島を蹂躙していく人間たちと、狼は争った。そして百年の争いの末、人間たちが勝利した。
狼王は、狼たちが生きていくために、すべての狼を人間の形に近づけた。狼は人の形に獣の耳と尾を持つようになり、共存の道を選んだ。人間と同盟を結び、以後ずっと、人とともに暮らしている。
「――店の中が獣臭くなる。さっさと用を済ませろよ」
翌日の昼間、レアリーが村の雑貨店の前を通りかかった時だった。開け放たれた扉から聞こえた蔑みに足を止める。見れば、中にいるのはノアだった。耳を帽子で、尾を腰布で隠してはいるが、顔を知られているため狼だと村人全員がわかっている。
ノアは「すみません」と俯きながら謝った。レアリーは怒りが湧いた。心無い言葉でノアをばかにしているのは、店番を手伝っている村の少年の一人だ。レアリーも知っている。店に入ったレアリーは、問答無用で彼の顎を蹴り上げた。目を丸くするノアの前で少年がひっくり返る。次にレアリーは、ノアを怒った。
「どうして、ノアが謝るの!」
ノアは困惑して眉を下げている。『人との共存を』――そんな狼王の願い虚しく、世間では、狼への蔑みはよくある話だった。いくら人に似せようと、獣の耳と尾があり、知能も人よりやや劣る。計算や暗記が苦手で、だから複雑な仕事はできない、それが狼だった。その辺りから差別は始まったと思う。いまでは当たり前になっていた。
「何すんだ、レアリー!」
顎を押さえながら起き上がった少年が、羞恥に顔を真っ赤にして唾を飛ばす。レアリーがつんと澄まして無視していると、少年は苛立ちを募らせた。ふと復讐を思いついたように、下卑た笑みを作る。
「お前、さてはそいつとデキてんの? イヌと交尾すんのって、楽しいのー?」
今度はレアリーが顔を赤くする番だった。レアリーの反応にしたり顔をする少年の頬に、レアリーは拳を振り上げた。だが今度は警戒したらしく一発目を避けられた。その避けた軌道を先読みし、レアリーは逆側から強烈な拳を見舞ってやった。
「――レアリーは、無茶苦茶だよ」
一緒にノアの家へ来たレアリーは、不本意なことにノアに怒られた。
「あんなことしたら、レアリーが悪く言われるってわかってるだろ。レアリーのお父さんやお母さんだって、年頃の娘が雄の狼なんかと遊ぶのはやめて欲しいって思ってるだろ?」
ノアの言い分に猛烈に腹が立ち、声を大にして言った。
「私の、どこがおかしいっていうの? おかしいのは、みんなとノアよ!」
ノアは諦観してばかりだ。それが最もレアリーが堪えられない点だった。レアリーはむっつりとノアから視線を逸らした。そして部屋の私物がまとまっていることに、ようやく気づいた。
「……どこか、行くの?」
胸の辺りが冷えていく感覚がした。ノアが表情を曇らせる。
「ああ、うん……。ここには、もう五年も住んだから。違うところで、暮らしてみようかなって」
とっさに言葉も出ず、放心するレアリーを励ますように、ノアは言った。
「出発は、明日だから。明日、ゆっくりお別れしよう」
困ったようにほほえんだノアの顔を、レアリーはその夜、寝台の上で思い出していた。
横たえていた体を起こし、部屋の棚の引き出しを開ける。それからレアリーは外出着に着替えて、小遣いがすべて入った硬貨袋を懐に忍ばせた。父から習っている剣も腰へ帯びる。
それ以外は、すべて置いていった。レアリーは月夜の村道を駆け出した。行き先は村外れのあばら家だ。予想通り、いまにも旅立とうとするノアの姿があった。レアリーの登場にノアは目を丸くする。
「レアリー……どうして」
「やっぱり。明日出発なんて、嘘だと思った」
銀色の月が、濃い藍色の夜空に架かっていた。
「私も、一緒に行く」
ノアは反対しようと口を開いた。だがレアリーの迷いのない瞳と、言い出したら聞かない性格を知っているためか、説得の言葉の代わりに諦めの溜め息を吐き出した。
「はぁ……。まあ、気が済んだら、レアリーだけは村へ帰ってくればいい話なのかな」
「そうそう。旅行みたいな感じよ」
本当は、ノアと一緒にいられるなら、帰らなくても構わない。だがノアの気分が変わると困るので話を合わせておく。レアリーは瞳を輝かせながら尋ねた。
「ねえ。オオカミになって遠くへ行くんでしょう?」
一度だけ、ノアが四本足の狼の姿になったところを見たことがある。知り合ったばかりの、五年前のことだ。あばら家よりもずっと大きな体躯の、銀毛の美しい狼だった。
「歩くより速いからね」
ノアは仕方なさそうに肩をすくめた後、銀毛の狼に姿を変えた。体を屈めたノアの背にレアリーは乗った。毛並みはふわふわで、暖かい。
牙のある口からは、狼の姿でも変わらずノアの声がした。
「落ちないように、ちゃんと掴まっててね」
「大丈夫。五年前に乗せてくれた時も、ぜんぜん危なくなかったもの」
ノアが溜め息をつくように笑った気配がした。
銀色の狼は、月光に包まれる森を走り出す。素晴らしい旅立ちに胸が高鳴った。
「どこへ引っ越す予定なの?」
「決めてない。走りながら決めるよ」
「だったら王都へ寄ってみない? 私ね……私……騎士団の、入団試験を受けてみたいんだけど」
×××
宿屋の一階にある酒場は、夕食をとる旅人や、仕事終わりに酒を飲む男たちで賑わいでいた。その賑わいは、レアリーとノアが食事をする席へも噂話を運んでくる。王国の跡継ぎ問題は深刻だ。位を継いだばかりの国王が亡くなり、二十歳になる唯一の息子が王位につく予定だが、王子はかなり我が強い。身勝手で、なんといっても女嫌いだというのが問題だ。これでは世継ぎができまい。大臣たちからは、王子の即位への反対意見が出ていて、政務は老齢の先王が行っているという――。
「権力が欲しいって、そこまで本気の話だったの?」
興味のない噂話は、レアリーの右の耳から左の耳へあっという間に抜けてしまう。
「だって、ただの村娘よりは騎士団員でいるほうが、少しは権力が大きいでしょう?」
王国騎士団は、王城を守る名誉ある職だ。腕が立つ者はまず目指すもので、レアリーは村の衛兵だった父から剣を教えてもらっていた。女ながら、人並み以上には腕が立つと自負している。
「権力、権力って。何をそこまで叶えたいの?」
ノアにまっすぐな瞳で尋ねられれば、顔は急に熱くなる。答えようとした時、酒場の卓の一つが倒れる音が響いた。見ると、酩酊した赤ら顔の男が、まだ少年の狼の胸ぐらを掴み上げている。前掛けをしていることから、狼は酒場の従業員だとわかる。
「だから、狼が触った料理なんて、毛が入って食えねえって言ってんだよ! 交換しろ!」
「け、毛なんて、入って、な……」
「ああ?」
目の前に座っていたノアが、気づけばいなくなっていた。酔った男のそばにいて、その手を掴んでいる。レアリーは慌てて椅子から立ち上がった。解放された少年狼へ、ノアが言う。
「早く、奥へ」
少年狼はノアを気にかけながらも調理場へ引っ込んだ。次の瞬間にはノアは男に殴られていた。続いて蹴られるのを、周囲の誰も止めようとはしない。従業員の狼がただ謝れば済んだものをノアが進んで殴られに行った――周囲の視線はそんな同じものばかりだ。
店主が衛兵を呼びに出ていく中、ノアは男の気が済むまで待つ気か体を丸くしている。レアリーはもちろん、ただ見ていなかった。四回目に蹴られそうになったところで間に入り、持参していた剣の鞘で男の脛を満身の力で叩いた。ノアの手を引き酒場から逃げ出す。
ノアは変わっている。自分が酷い目に遭うのは我慢するのに、ほかの狼の時だけは、たまらない顔をする。見かけたら必ず庇って、そして代わりに殴られて、やり返さないノアの代わりに、いつもレアリーが暴れるのだ。そうして、一緒に逃げ出す。
「――もう! いまから、別の宿を探さないといけないじゃない!」
走りながらいつものように文句を言った。ノアは「ごめん」とうなだれる。帽子の下で耳が垂れているのがわかる。
本気で責めたわけではない。レアリーは軽やかに笑った。
「許してあげるわ。一人で探すんじゃ、ないもの」
×××
王城闘技場の観客席で、レアリーは諦め切れずに膝を抱えていた。闘技場内では、騎士団の入団試験が行われている。
意気込んで挑んだものの、模擬戦闘予選で、レアリーは大柄な男に負けてしまった。相手の力を上手く流しながら頑張ったつもりだったが、自分は多少腕が立つ程度でしかなかった。それだけの話だった。けれどもまだ諦められず、ノアの待つ宿にも帰りづらかった。
試験官や他の志願者は、レアリーが遊び半分で受けに来たと見なしている。女で騎士を目指す者などいない。女兵士は町や村の衛兵がせいぜいだ。王国騎士団というのはそれほど一線を画した存在ともいえる。だからこそ平民よりも権力があり、レアリーはなりたかった。
恨めしい気持ちで、前方で繰り広げられる二次試験の剣技を睨み続ける。するとふと誰かが近づいてきた。二十歳くらいの青年で、容姿は金髪碧眼、女にもてはやされそうに顔立ちも整っている。
しかしレアリーを見下ろす表情は高慢そうだった。第一印象は嫌悪感が勝った。
「女が、騎士団の入団試験を受けたと聞いてな。お前のことか?」
青年が声をかけてきた。訊き方も偉そうだ。レアリーは落選した苛立ちも相まって、刺々しく返した。
「そうだけど?」
「なぜ、受けようと思った? 女が騎士団になど入れるわけがないだろう。腕力が違い過ぎる。ばかなのか、お前は」
頭突きをしてやればどんな反応をするだろうと、レアリーは想像した。
「だって、権力が欲しかったんだもの」
「……権力?」
青年は眉を跳ね上げた。それから声を上げて笑い出す。やはり頭突きしかないとレアリーは腰を上げた。勢いづけるために膝を曲げたところで、しかし青年が踵を返す。顔だけをレアリーへ向け、言った。
「お前、おもしろいな。権力やるから、ついて来いよ」
レアリーは「え? ちょっと」と気勢が削がれながらもとりあえず青年を追った。もしかしたら彼は要人で、レアリーを騎士団へ入れてくれるつもりなのかもしれない。
わずかな期待とともに連れて来られたのは、しかし騎士団の詰め所ではなかった。雅やかな謁見の間だった。前方の段上に王座があり、王冠を戴く老齢の王が座っていた。
「決めました、陛下。この娘を妃へ迎えることにします」
レアリーは目を丸くした。青年の横顔を凝視する。まったくもって、展開についていけない。しかし先王は、一国の君主らしく動じず、落ち着き払っていた。
「女嫌いのお前がその気になったのなら、もはや何も言うまい。これでようやく私も隠居ができそうだ」
謁見の間から出た後、やりとりからどうにか理解したレアリーは、青年へ確認した。
「あなたって、もしかして、この国の王子?」
「なんだ。気づいてなかったのか。どこの田舎者だ」
レアリーは王子に反駁する気力もなかった。無言でいると、話は勝手に進められる。
「婚儀は七日後に執り行おう。準備は山ほどある。今日から城で過ごしてもらうからな。お前の家族にも使いを出そう。家はどこだ?」
つまりは王子に見初められたということか。
「あ、家は……島の北東の、外れの――って、ねえ。それより街の宿に連れを待たせてるの。ここで過ごせって言うなら、連れてきてもいい?」
「……城から逃げる方便じゃないだろうな?」
「まさか。すぐ戻るわ。あなたこそ、妃にしてくれる約束、ちゃんと守ってよね」
ノアの待つ宿屋に戻り事情を話すと、ノアはぽかんとした。
「どうして、騎士団の試験を受けに行って、王子と結婚することになってるの?」
「理由は、わからないわね。私の美貌に一目惚れしたのかしら」
冗談で言ったのに、ノアが真剣に考え込むので、レアリーは恥ずかしくなった。ノアが心配そうに訊く。
「王子の性格のうわさはどうであれ、見初められたっていうならそりゃあすごいことだけど。でも、レアリーはいいの? そんな、よくもわからない人と結婚をして」
「私は歓迎よ。願いが叶うかもしれないんだから」
ノアを連れ、王城に戻る頃には、空には茜が射していた。王城の玄関広間で健気にも待っていたらしい王子は、感心しない顔をする。
「連れは、男か。俺の妻になるというのに、大層な女だ」
「大切な友人よ」
ノアは王子に特別な反応は示さなかった。会釈だけをする。
それぞれの部屋を与えられた。すると夜、レアリーの部屋に王子がやってきた。警戒するレアリーに、「初夜は結婚した後にとっておく」と王子はおどけ、それから質問した。
「これだけは、知っておきたいと思ってな。お前の真の望みはなんだ? 権力が欲しいってことは、望みがあるってことだろ? 贅沢、というわけではなさそうだが」
レアリーは迷ったが、正直に明かした。
「オオカミへの、差別をなくしたいの」
王子は目をぱちくりとさせた。人間側が差別をなくしたいと主張することは珍しいことだ。
「まさかお前、あの連れのオオカミに惚れでもしているのか?」
レアリーは頬に熱を上らせた。わかりやすい反応に、王子は機嫌を悪くするよりも笑った。
「特殊な性癖だな。まあ、雌のオオカミをもてあそぶのが好きな輩も、人間の中にはいるがな」
レアリーは唇を噛んだ。人間が狼と連れ合うこと、ましてや恋人関係になるなど、失笑されるばかりだ。ノアの隣に堂々と、たとえ友人の立場でもいいからそばにいられる未来が欲しかった。
七日後、レアリーは純白のドレスを着て、生まれて初めて口づけをした。ノアに見られるのが嫌だと感じる心はあったが、ノアが見ていたかどうかは、首を好き勝手に回せない状況ではわからなかった。旅立とうとするノアをなんとか引き止めはしたため王城にはいるはずだ。
婚儀と戴冠式後の、民衆へレアリーのお披露目が行われた。王城前へ集まる彼らに、バルコニーから手を振り、レアリーは王子と一緒に中へ戻った。慣れないことだらけですっかり疲れてしまった。すると廊下の端に、ノアが立っていた。ノアは帽子を脱ぎ、胸の前で添え、ほほえんだ。
「結婚おめでとう、レアリー。すごくきれいだったよ」
レアリーはつられて頬を緩めた。
「ありがとう」
ノアは優しく目を細めた後、そのままの表情で言い足した。
「じゃあ、僕はもう行くよ。ここにいる必要もないから」
ノアは王子へ一礼し、背を向けた。歩いていくノアをレアリーは慌てて追いかけた。
「ま、待って! ノア! 待って! ……どこへ、引っ越すの? 遠いところ? 家が決まったら、私、遊びに行きたいわ」
「……ずっと、言おうと思ってたけど」
ノアはあくまで柔らかな声音で告げた。
「レアリー。君は人と生きるべきだ。僕なんかに構っていないで」
レアリーは、自分が何か大きな間違いをしている気がしてきた。
「どうして、そんなこと言うの? 私が、権力が欲しかった理由はね。ノアと、堂々と一緒にいられる未来が欲しかったからよ。あなたと歩いていたって、からかわれることのない、人とオオカミの差がない世界が、欲しかった。だから私、結婚したわ。何年もかかるかもしれないけど、王妃になれば、きっと実現できる――」
焦燥に駆られ必死に言葉を紡ぐレアリーに、ノアは愕然と目を見開いていた。その時、先王が近衛兵たちとともに廊下を通りかかった。
「何か問題か?」
そして先王は、ノアを認め、目を瞠った。
「あなたは……狼王さま」
レアリーは「え……?」と気の抜けた声を漏らした。先王は、懐かしむ声色で続ける。
「五十年前とまるでお姿が変わっていらっしゃらないので、すぐに気づきました……。我々の戴冠式を祝いに来てくださったのですね」
ノアは先王の問いに答えず、呼吸を忘れるレアリーを見た。
「いつもは……一年か二年で、住む場所を変えるんだ。何年経っても外見が変わらないと、おかしいと思われるから……」
ノアはいつもと変わらない。静かで、落ち着いていた。
「ここに、人と狼の各代表者がいて、代も変わって……いまが、良い機会なのかもしれないな。レアリー。君が、僕のために結婚をすると言うなら、なおさら」
王子もレアリーのすぐ後ろにいて、聞いていた。
「人の数が増え、技術も向上していくうちに、わずらわしいものばかりが増えていった。そうして僕たちは、人の真似事をしなければ生きていけなくなった。……昔は、誰よりも速く走れる脚と、鋭い牙、それだけがあれば良かった。それだけで僕たちは、生きていけたのに……」
ノアは呪いを吐き出すように言う。
「長い間、僕はずっと考えていた。僕の選択は誤りだったんじゃないかと。人との共存などしょせん無理だったと。でもね、レアリー。本当は、一つだけ方法があったんだ。人と共存しながらも、僕らが、命も誇りも失わずに済む方法が。……初めから、こうすれば良かったんだ」
深い後悔を抱いた、ノアの苦しげな横顔を見たのが、最後だった。ノアは銀毛の巨大な狼に姿を変えると、レアリーたちの横を駆け抜けた。バルコニーから跳躍し、美しい尾は弧を描く。そして狼王は城壁の上部に音もなく立った。
巨大な狼の突然の登場に、王城前の群衆は騒然となった。その中で、群衆に混じっていた狼たちが、白い光に包まれていった。ノアは城壁を飛び越え、姿を消した。
白い光はすぐに消えた。だがすると狼たちは、みな、人の形ではなく四本足の獣の形になっていた。狼たちは言葉も発さず、犬と同じように鳴いて地面に鼻をこすりつける。
「……これは……」
王子はバルコニーから呆然と光景を見下ろした。
「もしかして……遠い昔、人に近づけた時と、逆のことをしたのか? 姿ではなく、中身のほうに力を行使し……脳を、退化させた……」
誇りを抱いていたことすら忘れてしまえば、失うこともない。
後方の廊下で、掃除夫として雇われていた王城の狼が、床に落ちた花瓶の水を舌で舐めとっていた。それを見たレアリーは、崩れるように床に座った。
×××
五年前、ノアが獣の姿を見せ背中に乗せてくれた理由は、王都の酒場で従業員の少年狼を助けた状況と同じだった。村でいじめられていた狼をノアが助けて、暴力を受けるノアを、レアリーが助けた。許せなかった。みなの当たり前が理解できなくて、反発した最初の出来事だった。
殴られそうになったレアリーの手をノアは掴み、森まで逃げた。いまでは身長差もなくなってしまったが、その時レアリーは十歳で、ノアは年上の男の人だった。胸の鼓動が速くなって、繋がる手が熱かった。森まで追っ手が来て、その場から急いで離れるために、ノアがレアリーを背に乗せてくれたのだ。
「――狼王は、数千年という長い寿命を使い、不思議な力を行使すると言われる。ゆえに、老いも顕著には認められない」
王子が夜、部屋にいるレアリーを訪ねてきた。レアリーは燭台の火もつけず、月明かりだけの部屋の中、寝台の上に座っていた。
「五年間まったく姿が変わらないこと、おかしいと思わなかったのか?」
「……成長が、悪いのかなって。あまり、ちゃんとしたもの、食べてなかったから……」
一年か二年で離れるはずなのに、ノアが五年間あの村にいた理由は、何か。人と生きろと言いながら、初めに自分の決まりを破ってレアリーのそばに長くいたのは、ノアのほうだ。
「……お願い。彼を捜す、手伝いをして欲しいの」
王子は静かな声で尋ねた。
「俺の得は?」
「……あなた、私を妃に選ぶくらいだから、多少は、私のこと気に入ってるのよね?」
王子は言い淀むように、視線を珍しく惑わせる。けれどすぐに毅然と背筋を伸ばして言った。
「騎士団の入団試験を、見ていた。お前の剣を振るう姿を見て、美しいと思った」
レアリーは息を呑んだ。
「あとは、実際に話したら内面もなかなかおもしろそうだった。……この二つが理由では、不服か」
酔狂かと感じていたところがあったので、王子がレアリーをしっかりと想っていたことに心を打たれた。
「……いいえ……」
自分は残酷だと思いながら、レアリーは言った。
「なら、あなたが全力でノアの行方を捜してくれる限り、私の体をあなたにすべてあげるわ」
王子は青い目を大きくする。
「でも、心はあげない……。どう?」
好戦的で、しかし切なさを混じえたレアリーの微笑に王子は息を詰める。そっと吐息した後、鏡に映したような同様の笑みを返した。
「悪くないな。……それで、手を打とう」
×××
契約通り、王子はレアリーのために莫大な兵力をもってノアを捜してくれた。南の果ての洞窟の最奥に、ノアを発見した時には、すでに三年の時が経っていた。十八になっていたレアリーは、知らせを聞きすぐに王城を飛び出した。そして王子とともに洞窟を進んだ。
洞窟の最奥は天井が洞となっていて、玲瓏たる輝きを放つ幾千の星がその下にある池に映り込んでいた。地下水脈から湧いた、澄み切った大きな池だ。銀毛の巨大な狼は、その池の小島で、星に包まれるように眠りについていた。
レアリーは腰丈の深さの池に入り、満天の星を分けるようにしながら凪いだ水面を歩いていった。後方では兵士たちとともに王子が見守っていた。小島に上がり、三年ぶりに、ノアに手が届いた。
「……ノア……」
触れた毛は柔らかく、暖かく、生きていることがわかる。懐かしい温もりに涙が溢れ出る。
「ノア……ずっと、あなたに謝りたかった。ごめんなさい。私がきっかけで、あなたの願いを……砕いてしまった。本当に、ごめんなさい……」
涙を流すレアリーに、銀毛の狼がゆっくりと瞼を開けた。久しぶりに聞くノアの声がした。
「レアリーの、せいじゃない」
ノアは人型に姿を変えた。背丈も顔も、三年前から何一つ変わっていない。ノアは寂しげに笑った。
「ここでずっと、君のことを思い出しながら、朽ちていくのも良かったんだけど。何度も夢に見てたから、本物になっちゃったのかな」
レアリーはノアに抱きついた。もう二度と、離しはしないと思った。ノアもそっとレアリーを抱きしめ返した。
×××
「――約束、だからな」
城門の外、旅立ちを見送りにきた王子にレアリーが確認すると、王子は答えた。
「あわよくば、お前の心も欲しかったけど……。三年かけて無理だったから、いい加減諦める。男らしく、な」
三年をともにした、人を好きになることが苦手な不器用な人だ。レアリーは片手を差し出した。
「私を愛することができたんだから、ほかの人も愛せるわ。あなたはきっと……もう、大丈夫」
最後に握手をして、互いの三年間の思い出に区切りをつけた。
そして王子は、草原の向こうに消えてしまった少女と狼の姿を、瞼の裏に、いつも思い出す。
――「うしなわれたオオカミの国」end ――