7話 戦う理由
昼下がりの天蓋は、まだ春の色を纏っていた。
だが、それを見上げるクレアの胸中に、安寧の気配はなかった。
「……あの“声”が、また」
右手を握ると、掌に走る冷たい線。
それは“異物”としての印──彼女がかの事件で触れてしまった、世界の裏側の痕跡だった。
リクトと出会ってから、三日が過ぎていた。
彼はあれからも無口で、自分からは何も話さなかったが、代わりに“目”が語っていた。
「君は、誰かを探しているの?」
そう尋ねたとき、彼はわずかに目を伏せて、曖昧に首を横に振った。
それは、否定のふりをした“肯定”だった。
「クレア、こっち。こっち来て! すごいの!」
エルフの少女、カリナが呼んでいる。
彼女は森の端にある泉のそばで何かを拾っていた。
「また、失せものかい?」
「違うよ! これ、金属製の鍵。見て! “記号”が入ってる」
その瞬間、クレアの視界に焼き付いた。
鍵の柄に浮かぶ紋章──それは、リクトの“封印構造”に酷似した、三重らせん構造だった。
「まさか……」
目を見開いた瞬間、地面が脈動した。
“来る”
言葉ではない、本能の震えだった。
【視点切替:リクト】
空気が変わった。
リクトは誰よりも早く、森の“縁”に気づいた。
──それは、“裏側”からの流入だった。
見えない波が、木々の葉を震わせる。
カリナの手の中で鍵が共振を始め、クレアが叫んだ。
「カリナ、鍵を放して!」
だが、遅かった。
空が、割れた。
そこに現れたのは、“黒環体”──無数の楕円が結合した異形の影。
その中心に、液状の“仮面”が浮かんでいた。
《封印、未完了──対象、代替パス探索中》
「また……“声”だ……!」
クレアが耳を押さえてうずくまる。
だがリクトは、逆に一歩踏み出した。
なぜなら──
(“それ”が、僕を知っている)
そう確信したからだ。
異形が動いた。
まるで蜘蛛のように脚を伸ばし、地を這うように滑る。
クレアが立ち上がり、剣を構えた。
「あなた、下がって──」
だが、リクトはその前に手を掲げた。
風が止まった。
彼の周囲の空気が、僅かに青白く光り出した。
「……やめて」
その声は、静かだったが、確かに届いた。
異形が、一瞬だけ動きを止めた。
《識別中──》
《コア名:リクト──仮登録情報、一致確認》
《……応答待機──》
クレアも、カリナも動けずにいた。
リクトが口を開く。
「お前は、僕を知っているのか?」
《応答:制限有り──保留処理継続中》
「“彼女”は、どこにいる?」
一瞬の沈黙の後、異形が振動した。
《……拒絶されました》
直後、爆音が森を裂いた。
「リクトッ!!」
クレアが駆け寄ったその瞬間、黒環体が爆散し、リクトが弾き飛ばされる。
受け止めたのは、剣を横に振ったクレアだった。
だが間に合わず、彼の肩口をかすめた衝撃が、地面を抉る。
「リクト! 大丈夫!?」
彼は、目を見開いていた。
「見えた……」
「え?」
「“あの声”の奥に……“彼女”がいた……」
彼の表情には、ただならぬ確信が宿っていた。
クレアはそれを見て、初めて“この少年の内側”に触れた気がした。
戦いのあと、森には静寂が戻っていた。
クレアは焚き火の前で、リクトに問いかけた。
「さっきの“彼女”って、誰?」
リクトはしばらく沈黙し──
「……覚えていない。でも、名前を呼んでいた声だけは覚えてる」
クレアは目を細める。
「じゃあ、思い出せるまで、私がいてもいい?」
リクトは一瞬だけ目を伏せ、こくりと頷いた。
火がはぜる音が、彼らの約束を刻んだ。
そして──
その夜、誰にも気づかれずに、もう一体の“影”が森を離れていた。
黒環体ではない。
もっと古い、もっと深い、“観測する存在”。
──彼の名は、モロ。
彼は空を仰ぎ、静かに呟いた。
「動いたな、リクト……」
その声に応じるように、空が微かに軋んだ。