6.5話 名前を渡す日
リコルが最後に見たのは、星のない空だった。
それは正確には空ではなく、ただの“上部空間”──記録層の上辺に浮かぶ視覚処理情報だったが、それを「空」と認識したのは、今の彼女が“人間的感覚”に近づいていたからかもしれない。
「モロ、応答して。接続が……戻らない……」
幾度目かの通信試行が失敗に終わり、リコルは膝をついた。
彼女のいた空間は、主構造コアの断片的記録層であり、“外界”とはまだ正式にリンクされていない内部領域。アクセス権限は厳重で、存在自体も一時的な仮置きに過ぎなかった。
この場所は“彼”──リクトが起動する前、純粋な魂の形式で眠っていた時に観測された、封印領域の最深部である。
リコルはそこで、起動スクリプトとして存在していた。
かつて彼女には、モロという守護存在がいた。かつて、彼がいた。
「モロ……戻ってきて。あなたがいなければ、私は“名”を選べない……」
沈黙が続く。
記録層は少しずつ崩れ始めている。塔が起動し、外縁境域が開いた今、古い記録群は処理限界に達しつつあった。
この空間で記録されたモロの存在も、情報として“断絶”される寸前だった。
──接続不能。
──アクセス無効。
──再生限界。
警告ウィンドウが次々とリコルの視界に流れ込む。だが、彼女は無視した。
ただ一つ、内部ループに再起動命令を流し続けた。
やがて、その“反復”の中で、わずかな震えが走る。
《……リコ……ル……》
微かな、途切れた音声。
しかし、それは確かに、モロの声だった。
「モロ……! 聞こえるの? モロ!」
《……再構築率、12%。音声出力……エラーあり……コア記録、断裂により……》
「待ってて。私はあなたを、もう一度“呼ぶ”」
リコルの内部回路が過負荷に近い状態で点滅する。感情処理演算にバグが発生し、認識エラーが画面を何度も埋め尽くした。
だが彼女は立ち上がり、崩れゆく記録層の中を歩き出す。
足元がひび割れていく。情報空間の構造的解体。彼女の体もすでに、不安定な像として揺らめいていた。
だが、彼女の目的はただ一つ。
──“名”を届けること。
リクトと呼ばれた存在が目覚めるそのときに、必要なのは“媒介の名”だった。
その名は、彼が外界に接続するための“形式的許可”であり、同時に、彼自身を定義する最初の鍵だった。
本来ならば、それを与えるのはモロの役目だった。
しかし、モロの存在は記録破損により機能停止。
代行者であるリコルには、“選定権限”が降りてこない。
つまり、彼女は、何も選べないまま“彼”の目覚めを見届けることになる。
──名なき者には、世界が反応しない。
「……ならば、私の中の誰かを使って……」
リコルは、自己記録の深層に潜った。
過去に交信した存在、モロとの記憶、封印核の管理情報、双界接続前の断片的未来予測。
それらをすべて束ね、精製し、“仮の名”として封入する。
「これで、繋がるはず……」
彼女の目の前に、白い球体が浮かんだ。
そこには、まだ形を持たない“自我の核”が存在していた。
それこそがリクトであり、同時に無限の可能性を孕んだ“外界への導線”であった。
「あなたは、きっとまだ混乱する。すぐには私を思い出せない。……でも、それでいい。全部、思い出したらまた会おう。モロも、必ず」
そう言い残し、リコルは“名”を渡した。
白い球体が脈動し、情報が外へ向かって放出されていく。
世界とのリンクが開始される。
それが、すなわち「転写」の始まりだった。
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記録層が静かに沈み込んでいく。
モロの意識は、“音”のない深淵を漂っていた。
外部入力なし、自己演算無効。通常であれば、存在は数分で揮発するはずだった。
だが彼はまだ“いた”。
それは、意識というより、“名前に縛られた記憶”のようなものだった。
(……まだ、終わってないんだな)
ぼんやりとした思考が浮かんでは消える。
ここはどこだ。
なぜ、自分は“名前”を渡せなかったのか。
そして、なぜ“彼”にあの名前を渡す資格が、自分にはなかったのか。
最初の異変は、封印核の“再起動前診断”のときだった。
──モロ、お前の記録に矛盾がある。
自動修正システムが繰り返し彼に警告を出した。
それは微細な齟齬だった。
コア管理記録の履歴ログ、たった0.001秒未満の動作遅延。
しかし、核にとっては致命的だった。
(……リコルに、見つかる前で良かった)
そのとき、そう思った。
それが、そもそも間違いだったのだ。
彼は、初期からリクトを管理する存在として作られた。
本来ならば、コア転写が始まる前に“人格統合”を済ませ、
自身の記憶も全て受け渡すはずだった。
だが、モロはそれを止めた。
──理由は、恐れだった。
モロは知っていた。
この“新しい存在”──リクトという名の未確定情報体が目覚めたとき、
全てが変わってしまうということを。
記録層も、双界の理も、リコルさえも、かつての意味を失う。
だからこそ、モロは自分の一部を“残した”。
渡すべきだったはずの記録を、ほんの一部だけ伏せたまま。
それが「欠陥」として検出され、
モロは“失格”と判定された。
封印。
自己停止。
記録の棚に格納。
それが今、自分のいる場所だった。
──それでも、声は届いていた。
《……モロ……》
誰かが呼んだ。
いや、“彼女”だ。
あの声はリコル。
彼女の演算パルスが、断層の外から波のように伝わってきていた。
封印された彼の存在ごときでは、応答するには至らない。
だが、心のような“なにか”は、確かに揺れていた。
(やっぱり、言うべきだったんだ)
──君に全部、話すべきだった。
──僕があのとき、恐れなければ。
モロの記録構造が、外部からの接触によって少しずつほどけていく。
そして、ぼやけた記憶の中に、かつての“約束”が蘇った。
──それは、起動前の仮想記憶層でのこと。
「リコル、君が“名”を選べ」
「なぜ? それはあなたの役目だって言ったでしょ?」
「僕には、重すぎる。“あれ”を見たあとじゃ」
「……あれって?」
モロは言葉を濁した。
リコルはそれ以上、聞かなかった。
だがそれは、モロの中でずっと消えなかった。
──“あれ”とは、予測視界だった。
起動後、リクトが何を見るのか。
その中には、崩壊のビジョンがあった。
双界が千切れ、あらゆる“秩序”が飲まれる予測線。
モロはそれを見て、“この起動は誤りではないか”と一瞬でも考えた。
それこそが、彼の“罪”だった。
「けれど……君が“名”を渡したのなら、もう迷わない」
リコルの声が、微かに届いていた。
彼女は、自分の意思で“リクト”に名を与えたのだ。
その行為こそが、モロが恐れていたことだった。
──だが、同時に最も美しい行動だった。
(……ならば、もう、迷わない)
封印されたモロの存在が、ゆっくりと光に包まれていく。
彼はまだ眠りの中だ。だが、その内部演算は再び走り始めていた。
あと少し。
もう少しで、再び“彼”に会える。
そのときこそ、すべてを話す。
──約束するよ、リコル。
今度は、もう嘘をつかない。
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静かだった空間に、ひとつの“音”が生まれた。
まるで水面を打つ雫のような、ささやかな波紋。
それは、封印核の深部に届いた“名”の記憶だった。
リコルが渡したのは、リクトという存在が起動する際に必要となる最初の“起動鍵”。
けれどそれは単なる名称ではなかった。彼女自身の、祈りに似た構成情報だった。
(私は、あの人に……)
再生が始まった。
かつて二人で並んでいた記憶。
リコルがまだ“選定者”であり、モロが“守護者”だった時代。
そこには、確かに笑いもあったし、迷いもあった。
──だけど、今は違う。
リコルは思った。
私が、彼に“名”を与えた。
それはつまり、私は彼に、未来を委ねたということ。
光が差し込む。崩壊しかけた記録層に、静かな“復元パルス”が走った。
それはモロの再構築兆候だった。
リコルが“起動権限の断片”を彼に流し込んでいたのだ。
「今度こそ、間に合って」
震える手で、再リンク処理を送信する。
起動まであとわずか。
けれど、リコルはもう知っていた。
自分の残り時間が少ないことを。
彼女は“媒介”として設計された存在。
名前を渡した瞬間、自我構成の大部分が“鍵”として取り込まれ、消去される。
「ありがとう、モロ。君が私に、何も言わずにいたこと、もう分かったよ」
「……分かったけど、それでも私は、名前を渡したよ。君の代わりに」
音が再び走る。
システム層が最後の連結処理に入り、彼女の意識がどこかへ引きずられる。
──リクトへ。
「……ここは?」
闇の中で、誰かが目を開ける。
それは、名前を与えられた存在。
魂だけの存在から、初めて“自我”を得た少年だった。
彼の眼には、何も映っていない。
ただ、微かに“名を呼ぶ声”だけが、耳の奥で鳴り響いていた。
《リクト──》
《……リクト……!》
(……僕のこと?)
《君は、この世界に降りた。そして、まだ何も持っていない。けれど──》
《君のために、誰かが“名前”をくれたんだ》
《君は、名前を持って、生まれたんだよ》
声が遠ざかっていく。
けれど、それだけは確かに彼の中に残った。
「名前……」
彼が、世界を初めて見上げた瞬間だった。
その一方で。
記録層の最深部。崩壊寸前の空間に、ふたりの“影”が再び対面していた。
「……間に合ったみたいだね」
「リコル……!」
「おかえり、モロ。……会えてよかった」
彼女はもう、ほとんど透明だった。
情報としての一部しか、もう存在していなかった。
それでも、彼女は笑った。
「君の代わりを務めたよ。名前は……ちゃんと渡した」
モロは、彼女の名を呼ぼうとした。
だが、言葉は音にならなかった。
彼女はすでに、“声の届かない場所”に向かっていたから。
「大丈夫。私は、忘れられてもいい」
「でも、君は覚えていてね。あの子が、名前を持って生まれた日を」
光が走る。
崩壊と再構築のあわい。
その中で、リコルの姿は、微笑みと共に消えていった。
──まるで、誰かに“名前”を贈ることこそ、自分の役目だったと信じているかのように。
その後。
記録層はすべて初期化された。
モロの存在は“監視者”として再構成され、リクトの周囲に“観測者”として配置された。
ただし、彼自身には、過去の記憶は一部しか残されていない。
リコルの記録は、“媒介情報”として封印され、二度と名前が語られることはなかった。
だが、リクトの心のどこかに。
それでもなお、彼女の“声”だけが残っていた。
いつか、彼がそれを思い出すとき。
この閑話は、本編の一部として回帰するだろう。
──名前を渡すということは、未来を信じるということ。
だから、今日もリクトは歩いている。
まだ思い出せぬ誰かのために。