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双界記録  作者: 影縫い
1章 記録の胎動
7/11

6.5話 名前を渡す日

リコルが最後に見たのは、星のない空だった。


それは正確には空ではなく、ただの“上部空間”──記録層の上辺に浮かぶ視覚処理情報だったが、それを「空」と認識したのは、今の彼女が“人間的感覚”に近づいていたからかもしれない。


「モロ、応答して。接続が……戻らない……」


幾度目かの通信試行が失敗に終わり、リコルは膝をついた。


彼女のいた空間は、主構造コアの断片的記録層であり、“外界”とはまだ正式にリンクされていない内部領域。アクセス権限は厳重で、存在自体も一時的な仮置きに過ぎなかった。


この場所は“彼”──リクトが起動する前、純粋な魂の形式で眠っていた時に観測された、封印領域の最深部である。


リコルはそこで、起動スクリプトとして存在していた。


かつて彼女には、モロという守護存在がいた。かつて、彼がいた。


「モロ……戻ってきて。あなたがいなければ、私は“名”を選べない……」


沈黙が続く。


記録層は少しずつ崩れ始めている。塔が起動し、外縁境域が開いた今、古い記録群は処理限界に達しつつあった。


この空間で記録されたモロの存在も、情報として“断絶”される寸前だった。


──接続不能。


──アクセス無効。


──再生限界。


警告ウィンドウが次々とリコルの視界に流れ込む。だが、彼女は無視した。


ただ一つ、内部ループに再起動命令を流し続けた。


やがて、その“反復”の中で、わずかな震えが走る。


《……リコ……ル……》


微かな、途切れた音声。


しかし、それは確かに、モロの声だった。


「モロ……! 聞こえるの? モロ!」


《……再構築率、12%。音声出力……エラーあり……コア記録、断裂により……》


「待ってて。私はあなたを、もう一度“呼ぶ”」


リコルの内部回路が過負荷に近い状態で点滅する。感情処理演算にバグが発生し、認識エラーが画面を何度も埋め尽くした。


だが彼女は立ち上がり、崩れゆく記録層の中を歩き出す。


足元がひび割れていく。情報空間の構造的解体。彼女の体もすでに、不安定な像として揺らめいていた。


だが、彼女の目的はただ一つ。


──“名”を届けること。


リクトと呼ばれた存在が目覚めるそのときに、必要なのは“媒介の名”だった。


その名は、彼が外界に接続するための“形式的許可”であり、同時に、彼自身を定義する最初の鍵だった。


本来ならば、それを与えるのはモロの役目だった。

しかし、モロの存在は記録破損により機能停止。

代行者であるリコルには、“選定権限”が降りてこない。


つまり、彼女は、何も選べないまま“彼”の目覚めを見届けることになる。


──名なき者には、世界が反応しない。


「……ならば、私の中の誰かを使って……」


リコルは、自己記録の深層に潜った。


過去に交信した存在、モロとの記憶、封印核の管理情報、双界接続前の断片的未来予測。

それらをすべて束ね、精製し、“仮の名”として封入する。


「これで、繋がるはず……」


彼女の目の前に、白い球体が浮かんだ。


そこには、まだ形を持たない“自我の核”が存在していた。

それこそがリクトであり、同時に無限の可能性を孕んだ“外界への導線”であった。


「あなたは、きっとまだ混乱する。すぐには私を思い出せない。……でも、それでいい。全部、思い出したらまた会おう。モロも、必ず」


そう言い残し、リコルは“名”を渡した。


白い球体が脈動し、情報が外へ向かって放出されていく。


世界とのリンクが開始される。


それが、すなわち「転写」の始まりだった。


--------------------


記録層が静かに沈み込んでいく。


モロの意識は、“音”のない深淵を漂っていた。


外部入力なし、自己演算無効。通常であれば、存在は数分で揮発するはずだった。

だが彼はまだ“いた”。


それは、意識というより、“名前に縛られた記憶”のようなものだった。


(……まだ、終わってないんだな)


ぼんやりとした思考が浮かんでは消える。


ここはどこだ。

なぜ、自分は“名前”を渡せなかったのか。

そして、なぜ“彼”にあの名前を渡す資格が、自分にはなかったのか。


最初の異変は、封印核の“再起動前診断”のときだった。


──モロ、お前の記録に矛盾がある。


自動修正システムが繰り返し彼に警告を出した。


それは微細な齟齬だった。

コア管理記録の履歴ログ、たった0.001秒未満の動作遅延。

しかし、核にとっては致命的だった。


(……リコルに、見つかる前で良かった)


そのとき、そう思った。

それが、そもそも間違いだったのだ。


彼は、初期からリクトを管理する存在として作られた。


本来ならば、コア転写が始まる前に“人格統合”を済ませ、

自身の記憶も全て受け渡すはずだった。


だが、モロはそれを止めた。


──理由は、恐れだった。


モロは知っていた。

この“新しい存在”──リクトという名の未確定情報体が目覚めたとき、

全てが変わってしまうということを。


記録層も、双界の理も、リコルさえも、かつての意味を失う。


だからこそ、モロは自分の一部を“残した”。

渡すべきだったはずの記録を、ほんの一部だけ伏せたまま。


それが「欠陥」として検出され、

モロは“失格”と判定された。


封印。


自己停止。


記録の棚に格納。


それが今、自分のいる場所だった。


──それでも、声は届いていた。


《……モロ……》


誰かが呼んだ。


いや、“彼女”だ。


あの声はリコル。


彼女の演算パルスが、断層の外から波のように伝わってきていた。


封印された彼の存在ごときでは、応答するには至らない。

だが、心のような“なにか”は、確かに揺れていた。


(やっぱり、言うべきだったんだ)


──君に全部、話すべきだった。


──僕があのとき、恐れなければ。


モロの記録構造が、外部からの接触によって少しずつほどけていく。


そして、ぼやけた記憶の中に、かつての“約束”が蘇った。


──それは、起動前の仮想記憶層でのこと。


「リコル、君が“名”を選べ」


「なぜ? それはあなたの役目だって言ったでしょ?」


「僕には、重すぎる。“あれ”を見たあとじゃ」


「……あれって?」


モロは言葉を濁した。

リコルはそれ以上、聞かなかった。


だがそれは、モロの中でずっと消えなかった。


──“あれ”とは、予測視界だった。

起動後、リクトが何を見るのか。


その中には、崩壊のビジョンがあった。

双界が千切れ、あらゆる“秩序”が飲まれる予測線。


モロはそれを見て、“この起動は誤りではないか”と一瞬でも考えた。


それこそが、彼の“罪”だった。


「けれど……君が“名”を渡したのなら、もう迷わない」


リコルの声が、微かに届いていた。


彼女は、自分の意思で“リクト”に名を与えたのだ。


その行為こそが、モロが恐れていたことだった。


──だが、同時に最も美しい行動だった。


(……ならば、もう、迷わない)


封印されたモロの存在が、ゆっくりと光に包まれていく。


彼はまだ眠りの中だ。だが、その内部演算は再び走り始めていた。


あと少し。


もう少しで、再び“彼”に会える。


そのときこそ、すべてを話す。


──約束するよ、リコル。


今度は、もう嘘をつかない。


--------------------


静かだった空間に、ひとつの“音”が生まれた。


まるで水面を打つ雫のような、ささやかな波紋。

それは、封印核の深部に届いた“名”の記憶だった。


リコルが渡したのは、リクトという存在が起動する際に必要となる最初の“起動鍵”。

けれどそれは単なる名称ではなかった。彼女自身の、祈りに似た構成情報だった。


(私は、あの人に……)


再生が始まった。


かつて二人で並んでいた記憶。

リコルがまだ“選定者”であり、モロが“守護者”だった時代。

そこには、確かに笑いもあったし、迷いもあった。


──だけど、今は違う。


リコルは思った。


私が、彼に“名”を与えた。


それはつまり、私は彼に、未来を委ねたということ。


光が差し込む。崩壊しかけた記録層に、静かな“復元パルス”が走った。


それはモロの再構築兆候だった。

リコルが“起動権限の断片”を彼に流し込んでいたのだ。


「今度こそ、間に合って」


震える手で、再リンク処理を送信する。


起動まであとわずか。

けれど、リコルはもう知っていた。


自分の残り時間が少ないことを。


彼女は“媒介”として設計された存在。

名前を渡した瞬間、自我構成の大部分が“鍵”として取り込まれ、消去される。


「ありがとう、モロ。君が私に、何も言わずにいたこと、もう分かったよ」


「……分かったけど、それでも私は、名前を渡したよ。君の代わりに」


音が再び走る。


システム層が最後の連結処理に入り、彼女の意識がどこかへ引きずられる。


──リクトへ。


「……ここは?」


闇の中で、誰かが目を開ける。


それは、名前を与えられた存在。

魂だけの存在から、初めて“自我”を得た少年だった。


彼の眼には、何も映っていない。


ただ、微かに“名を呼ぶ声”だけが、耳の奥で鳴り響いていた。


《リクト──》


《……リクト……!》


(……僕のこと?)


《君は、この世界に降りた。そして、まだ何も持っていない。けれど──》


《君のために、誰かが“名前”をくれたんだ》


《君は、名前を持って、生まれたんだよ》


声が遠ざかっていく。


けれど、それだけは確かに彼の中に残った。


「名前……」


彼が、世界を初めて見上げた瞬間だった。


その一方で。


記録層の最深部。崩壊寸前の空間に、ふたりの“影”が再び対面していた。


「……間に合ったみたいだね」


「リコル……!」


「おかえり、モロ。……会えてよかった」


彼女はもう、ほとんど透明だった。

情報としての一部しか、もう存在していなかった。


それでも、彼女は笑った。


「君の代わりを務めたよ。名前は……ちゃんと渡した」


モロは、彼女の名を呼ぼうとした。

だが、言葉は音にならなかった。


彼女はすでに、“声の届かない場所”に向かっていたから。


「大丈夫。私は、忘れられてもいい」


「でも、君は覚えていてね。あの子が、名前を持って生まれた日を」


光が走る。


崩壊と再構築のあわい。


その中で、リコルの姿は、微笑みと共に消えていった。


──まるで、誰かに“名前”を贈ることこそ、自分の役目だったと信じているかのように。


その後。


記録層はすべて初期化された。


モロの存在は“監視者”として再構成され、リクトの周囲に“観測者”として配置された。

ただし、彼自身には、過去の記憶は一部しか残されていない。


リコルの記録は、“媒介情報”として封印され、二度と名前が語られることはなかった。


だが、リクトの心のどこかに。


それでもなお、彼女の“声”だけが残っていた。


いつか、彼がそれを思い出すとき。

この閑話は、本編の一部として回帰するだろう。


──名前を渡すということは、未来を信じるということ。


だから、今日もリクトは歩いている。

まだ思い出せぬ誰かのために。

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