5話 初撃と応答
草原の地平が震えていた。風が止まり、世界が息を呑んでいた。
リクトの視線の先、草をかき分けて現れたのは、三対の脚と甲殻に包まれた異形だった。硬質な胴体の中から、赤く湿った触手が蠢いている。
「トリル=ゲーヴ種……下位寄生種だけど、まだ転写後の君には手強いわね」
クレアが剣を構える。炎の紋が剣身に浮かび上がると、周囲の温度が一気に上昇した。
「君は下がってなさい。まだ魔素の流れも安定していないでしょ」
「……やってみる。少しは戦えるはずだ」
リクトは自らの体に魔素の動きを感じていた。名前を得たことで、まるで身体中の“血液の一部”が別のものに置き換わったかのように、それは確かに流れていた。
「だったら、自分の中にある“熱”に意識を向けて。魔素は感情と直結してる。怒りでも、恐れでも……一つに絞ってぶつける!」
彼女の言葉が終わるより早く、魔物が跳ねた。脚をたたみ、まるで矢のように空中から飛びかかってくる。
咄嗟に腕をかざす。反射的に思い浮かんだのは、光の膜だった。否、火の膜。リクトの掌から赤く揺らめく炎が噴き出し、半円を描いて前方に広がった。
──ガンッ!
火の壁が魔物の爪を受け止めた。が、その一瞬後、膂力に押されてリクトの身体が吹き飛んだ。
「ぐっ……!」
背中から地面に叩きつけられる。肺から空気が抜け、視界が白く揺れた。だが、確かに防いだ。今のは本能だったが、感覚が残っている。
「リクト! 炎の流れを意識して、集中して!」
クレアが滑るように魔物へと接近。地を蹴り、炎を纏った剣で横薙ぎに切り裂く。刃が甲殻に当たり、火花を散らすも──割れない。
「こいつ……思ったよりも、装甲が固いわね」
魔物の背から触手が伸び、無数の刃のように振り下ろされる。クレアが身を翻して回避するが、そのスピードは人の限界を超えていた。
「リクト、後方から狙って! 今、そっちは手薄!」
指示に応じて立ち上がる。再び熱に意識を集中する。腹の奥に灯ったような、わずかな“種火”。それを想像で強く握りしめる。
──高めろ。集中しろ。押し出せ。
手の平に熱が集まる。思い描いたのは、クレアの剣から放たれる火の流れ。それと同じ形を、今、自分の中で作る。
「いけぇっ……!」
炎が手のひらから走る。まるで指先から撃ち出すように、赤い矢のような熱が放たれた。
“ブォン”という音が響き、火線が魔物の背中を掠めて爆ぜる。甲殻に焼け跡が残るが、倒すには至らない。
「今の……!」
初めて使った魔素の力。それは、まるで武器そのものだった。手応えは確かにあった。
次の瞬間──リクトの内耳に、金属音のような微細な音が響く。
《認証成功。空間同期接続──起動》
「……リコル?」
思わず呟くと、脳内にその冷静な声が返ってきた。
《はい。識別コード“リクト”による認識と、名前による存在規定の成立を確認。意識同期を再開します》
あの封印空間で語っていた、リコルの声。意識の奥から届くような、決して外の世界には届かない“脳内共鳴”だった。
《現在、外部魔素濃度38.6。大気中の干渉反応により、魔物の攻撃性が高まっています。対象:トリル=ゲーヴ。分類:寄生系変成種。外骨格装甲レベルC、熱耐性B−》
「なんで……今まで沈黙してた?」
《転写直後は、魔素波形が不安定で接続が困難でした。加えて、モロ様は現在、深層記憶領域で休眠モードに入っています》
「……モロも、いるんだな」
《はい。彼は現在、コア構造の安定化処理に移行しており、意識領域に干渉できない状態です。なお、非常時には彼のプロトコルが強制起動される仕組みですので、ご安心ください》
ほんの数秒の会話。しかし、その情報はリクトにとって大きかった。
封印空間の記憶が、過去ではないと確信できた瞬間だった。
再び目の前に意識を向ける。クレアが再び魔物を牽制している。彼女の剣が地面を焼き、敵の脚を拘束するが、火力が足りない。
《提案:先ほどの炎投射行動を、両手から同時に実行することで出力を1.8倍に引き上げることが可能です。ただし、魔素消費が急増します》
「それでいい。やるしかない!」
リクトは両手を突き出し、両手に魔素を集める。左右対称に熱が集中し、今度は明確な意図を持って放つ。
「燃えろ──!」
“ゴォン!”
左右から放たれた炎が一点に収束し、敵の背中を焼いた。炎が甲殻を突き破り、触手を包む。魔物が絶叫のような音を上げてのたうった。
その隙に、クレアが跳んだ。
「はぁっ!」
炎の剣が、裂けた装甲の隙間に突き刺さる。閃光とともに、爆裂音が周囲を包んだ。
──ドォン!
爆風の余韻が風に流れ、魔物は崩れるようにその場に倒れた。甲殻がパキパキと音を立てて剥がれ落ちる。赤黒い体液が、草原に染み込んでいった。
「……倒した?」
「ああ。お前、なかなかやるじゃない」
クレアが肩で息をしながら微笑む。その頬に、血と汗が混じっていた。
リクトも膝に手をついて呼吸を整える。頭の奥では、まだリコルの声が聞こえていた。
《魔素回路、初期同期完了。以後の通信は常時可能。なお、あなたの体内にある魔素タンクは約22%消費されています》
「まだ、余力はある……ってことか」
《はい。けれど今後は、自分で魔素の調達や循環制御を行っていく必要があります》
「……リコル。ありがとう」
《言葉としての感謝は受け取ります。ただし、私の行動原理は機能優先ですので、情緒的反応は不要です》
それでも、どこか嬉しそうに聞こえた。
リクトは空を見上げる。蒼く、透き通った夜空だった。この世界に確かに自分が存在しているという、実感があった。
炎の残り香の中、彼は初めて“命を賭して生き延びた”感覚を味わっていた。
(俺は……ここで、生きる)
その決意は、熱となって彼の中に灯り続けた。