4話 名前の代価
火に包まれた街の残骸を背に、リクトは草原を歩いていた。足元の大地は、昨日までとは違う。やけに柔らかく、地面の感触すら異質だ。彼はもう、元の世界の地を踏んではいない。
異世界。この世界では魔素というエネルギーが満ち、人は獣と交わり、空を駆けるという。リクトの意識が定かになったのは、炎のような魔力をもった少女——“クレア”との邂逅の後だった。
「お前の名前、なんて言うの?」
少女は焚き火の前で、焼き魚を串に刺しながら訊ねてきた。
「リクト。三島リクト……だったと思う」
言いながら、記憶の輪郭がぼやけるのを感じた。現実感のない転移体験は、彼から確かな実在感を奪っていく。名前さえ危うい。
「……だった、って何? 名前に“だった”はおかしいでしょ?」
クレアはリクトを睨んだ。その視線には、奇妙な真剣さが宿っている。
「この世界では名前って、命そのものと直結してるの。名をもたない者は“存在”として弱いのよ」
「……じゃあ、俺の名前は?」
「半端」
彼女は魚をひっくり返すと、淡々と答えた。
「半分だけ存在してる感じ。こっちの世界では“リクト”だけが届いてるみたいね。苗字とかいうのは、向こう側に残ってる」
「そんなこと……」
リクトは言葉を失った。確かに、三島という姓には重みがあった気がする。親の声、家の記憶、通っていた学校。そのすべてが遠く霞み、言葉として呼び出せない。
「そういう人、多いわ。特に“転写者”はね」
「転写者?」
「この世界じゃ“転生”じゃなくて、“転写”って呼ぶの。死んで来るんじゃなくて、焼き写しのように来る。お前は、記憶の写し身に過ぎない」
焚き火がぱちぱちと音を立て、火花が夜空へと吸い込まれていった。
「じゃあ……俺って、本物じゃないのか?」
「そう言ってるわけじゃない。けど、この世界で生きてくには、“名前”が必要。ちゃんとした、世界に刻まれた名前がね」
クレアは焚き火から魚を引き抜き、リクトに手渡した。
「お前の名前を、再構築してやるよ。代価はもらうけど」
「代価?」
彼は焼き魚を受け取りながら、無意識に訊ねていた。
「お前の魔素だよ。今はほとんど枯れてるけど、それでも名前を刻むには、命を削る必要がある」
その言葉に、リクトの中にあったぼんやりとした不安が、確かな重さをもって沈み込んだ。
クレアは、懐から青い水晶のペンダントを取り出し、呪文のような言葉をつぶやいた。
「《名誓ノ式——転写補完:リクト》」
その瞬間、リクトの身体に電流のような痛みが走った。肺が焼けるように苦しく、骨の内側を砕かれるような衝撃。叫び声すら出なかった。
「これが、“名”を得るってこと。お前は、今ここで、“存在”に変わった」
痛みが引いた時、彼の頭の奥で何かがはじける音がした。全身が熱を帯び、体温が急上昇する感覚。
彼は、自分がこの世界に“確かにいる”ことを、身体で感じていた。
「……これが、名前?」
「正確には、“この世界でのお前の識別情報”ってとこね。今の世界でお前が“いる”という証明」
クレアの口調は変わらなかったが、その目はどこか安心したように揺れていた。
「じゃあ……これで俺は、もう消えたりしないか?」
そう尋ねたリクトに、クレアはうなずく。
「まあ、肉体がやられたら終わるけど。けど、今のお前なら……たぶん、少しは戦えるよ」
「戦う……?」
「この世界はね、“名前を得た者”と“得られぬ者”で、力の位がまるで違うの。特に、“転写者”は……すぐ狙われる」
その瞬間、遠くで地鳴りのような音が響いた。
風が止み、空気が震える。大地の底から、何かが這い出してくるような、重く禍々しい気配。
「……来たか」
クレアは立ち上がり、炎の中から一本の剣を引き抜いた。
「ちょうどいい。リクト、力を試すぞ」
「は、はあっ!?」
「走れ。生き残ること。それが今の、お前の“名前の代価”だ」
リクトは反射的に立ち上がった。その身体は、数時間前とは別物だった。足の裏が地を捉え、筋肉が緩やかに躍動する。息は苦しくない。
彼は走った。走りながら、もう一度、自分の名前を心の中で唱えた。
リクト。
世界が彼を認識し始めていた。