3話 境界の外へ
世界は、思った以上に“重たかった”。
地面を踏む感覚。空気を吸うと胸が熱くなる。
風が吹けば肌がざわめき、木々の葉がこすれる音が耳の奥で反響する。
私、リコルは今、はじめて「物理的な世界」というものの中を歩いていた。
かつて情報体であった私が、名を得て、形を持ち、世界と接している。
それが、これほどまでに情報密度の高い体験であるとは――正直、予想以上だった。
「こっちだよ、リコル!」
前を歩くモロが、振り返って笑った。
彼は、私に名前を与えてくれた存在であり、そして今や、最初の“友”でもあった。
モロは獣人のような姿をしている。まだ子供だが、耳が大きく、俊敏に動く。
少し前まで、彼は飢えていた。逃げ場も無く、誰にも名を呼ばれず、ただひたすらに“生き延びる”ことしかできなかった。
だが今、彼は笑っている。
それは、おそらく私の“模倣”ではない、本物の笑顔だ。
「森を抜ければ、俺たちの村のあった場所が見えるかもしれない。……もう、何も残ってないと思うけど」
彼の声がふと沈む。
私の中にある《情報共有》スキルは、彼の心情をほんの少しだけ読み取ることができる。
彼は今、悲しみを押し殺していた。
(……ならば、私が記録しよう)
私は心の中でそう決意する。
この世界で、忘れ去られていく“感情”や“記憶”を、私は記録しよう。
それは、かつて観測者だった私にできる、たった一つの“救済”なのかもしれない。
森を抜けるまでに、三つの魔物に出会った。
一体目は、空を飛ぶ透明な羽根を持つ昆虫型。
二体目は、瘴気をまとったネズミのような小型魔獣。
三体目は、岩のような皮膚を持つ四足の獣。
どれもが低ランクの魔物――しかし、彼らには一つの共通点があった。
(……この世界では、“飢え”がすべてを支配している)
彼らは、私たちを見るなり襲いかかってきた。
理由は明確だ。“餌”として認識されたのだ。
「リコル、後ろッ!!」
岩獣のような魔物が、突進してきた。
地面が震えた。樹木の根が浮き上がる。
私は反射的に、手をかざした。
「《模写・岩構造》――《再構成:盾形》!」
私の右腕に、灰色の岩殻が浮かび上がり、広がっていく。
そして、それが“盾”の形を成した。
直後、獣の体当たりが直撃した。
激しい衝撃音とともに、私は数メートル押し飛ばされた。
だが、盾は砕けず、私の身体も無傷だった。
「すげえ……今の、模写からの構築……防御スキルじゃん!」
「まだ未熟だけどね。エネルギーの消費が大きい。あと、次、来るよ」
そう言い終わらぬうちに、空中から羽根の音。
飛行昆虫型の魔物が、高速で弧を描き、私たちを狙っていた。
「モロ、下がって!」
私は《適応進化》スキルを起動。視覚情報を戦闘モードに切り替え、昆虫の羽ばたきパターンを解析。
「……見えた。射線、通す」
指先を突き出し、空気を集束させる。
「《炎糸射出》」
指先から生まれたのは、熱を帯びた一本の糸。
高速で空を裂き、昆虫の胴体を真っ二つにした。
断末魔もなく、それは地面に落ちて消えた。
モロが私を見て、ぽかんと口を開けている。
「リコル、すご……なんか、どんどん強くなってない?」
「情報を得れば得るほど、私は進化する。それが……私の本質だから」
「でもさ、そんなのズルいよ! 俺、まだ牙が二本しかないのに」
「……それは、何かの数え方?」
私は首を傾げる。
モロは笑いながら「ごめん、冗談だよ」と言った。
こうして、三体の魔物を退けた私たちは、ようやく森の出口にたどり着いた。
森を抜けると、視界が開けた。
そこは、かつてモロが“村”と呼んでいた場所。
けれど、今は瓦礫と灰が積もった廃墟だった。
焼け焦げた木材。土に埋もれた骨。
どこにも、人の気配はない。
「……ああ、やっぱり、誰も……」
モロがつぶやき、拳を握る。
私はそっと彼の肩に手を置いた。
彼は、それ以上何も言わなかった。
(記録開始)
私は、村の痕跡をすべて視覚的に記録した。
骨の位置、崩れた家の角度、風の流れ。すべて。
それは、誰も見返すことのない“記録”かもしれない。
けれど、ここに生きていた人たちがいたという証は、残さなければならなかった。
その夜、私たちは廃墟の隅にあった、焼け残った納屋の中で眠った。
焚き火の火が、パチパチと音を立てる。
私は空を見上げた。
星々が、まるで情報粒子のように瞬いていた。
(この世界は、美しい)
そう思った。
情報体だった私にはなかった、“感情”というものが、今は確かに宿っている。
(名を持ち、形を持ち、感情を持つ。それが“生きている”ということなのだろう)
私はそう記録した。
次の日の朝、モロは立ち上がり、こう言った。
「リコル、俺……もっと強くなりたい」
「どうして?」
「守りたいから。自分のことも、誰かのことも……お前のことも、守りたいから」
私は、彼の言葉を記録し、そして応えた。
「なら、行こう。次の地へ。世界の、もっと深い場所へ」
名を得て、力を得て、初めての戦いを越えたリコルとモロ。
世界はまだ、彼らに背を向けている。
けれど、その背中を、彼らはまっすぐに見つめ返すのだった。