10話 記録の外側にて
──それは、初めての違和感だった。
クレアは、空を見上げていた。日課となった“空白の記録”の確認作業。いつもと同じ、灰色がかった仮想天蓋に、淡い光線の揺らぎが交差している。
記録装置による仮想空間の生成は、非常に精密で、ノイズの存在すら記録された“演算結果”のひとつとして正当化されていた。だが、それは今日──少し違った。
「……光が、揺れてる?」
ほんの一瞬だった。線形で走るはずのレイラインが、まるで虫眼鏡を通して見たかのように、ぐにゃりと歪んだ。クレアは思わず足を止める。隣を歩いていたリクトも、すぐさまその異変に気付いたようだった。
「クレア、それ……今、何を見た?」
「空。レイラインが揺れたの。ほんの少し、ほんの一瞬だけど……」
「……俺も、見た気がする」
見た“気がする”。リクトのその言い回しに、クレアはかすかな恐怖を覚えた。目の前の彼が、何かを観測したようでいて、その情報を正確に記憶できていないということ──それはつまり、情報そのものが確定していないということに他ならない。
《ヴェルト》によって構築されるこの世界は、“記録”に支えられている。観測されなければ存在しないし、記録されなければ世界ではない。そう、記録とは即ち存在の根拠であり、同時に“存在の牢獄”でもあった。
その中で、たった一瞬、観測されたにも関わらず“記録されていない”光の歪み。
──これは、ありえないことだ。
「リクト、あなた、今も覚えてる?」
「……正直、自信ない。でも、“何かが揺れた”という感覚は、確かにあった」
「私も。それだけは確か」
二人は、記録にない事象を“共有”してしまった。これは前例のない事態だった。記録の外にあるものを、複数の人間が同時に“観測”し、それを“伝え合う”という構造そのものが、世界の基盤を揺るがす。
「これは──報告すべきか?」
「……いいえ、やめておきましょう。まだ早い。まだ、“記録されてしまう”には」
クレアは、無意識にそう言っていた。それは直感だった。記録されれば、今のこの不確定な揺らぎは“確定”してしまう。確定とは即ち、誰かに管理され、分類され、正当化されてしまうということ。
彼女は、それが怖かった。
──もしかして。
──わたしたちの“今まで”すら、記録によって作られた“記憶の幻影”だったとしたら?
「クレア」
その声に、はっと我に返る。リクトが、珍しく真顔でクレアの腕を掴んでいた。
「歩こう。こんなところで立ち止まってたら、記録に残る」
「……そうね」
二人は何事もなかったかのように歩き始めた。いつもの都市。いつもの人工の風。いつもの、白くぼやけた街路樹の影。
だがクレアの内面では、ある確信が芽吹いていた。
──この世界には、“記録できないもの”が存在する。
夜。
クレアは一人、研究棟の観測室にいた。
本来、夜間のアクセスは制限されている。だが彼女は特例として、その制限を回避できる立場にいた。《感応枠》の主観記録を研究する者として、いくつかの“自由”が与えられていたのだ。
「……モロ、いる?」
声に応答はなかった。観測装置の中には、通常通りの計測データが並んでいるだけだった。
「もう隠れないで。わたし、わかってるから」
──記録されない存在。
──だが、観測者がそれを望んだとき、初めて“認識”が開く。
「モロ。あなた、いたのね」
その瞬間、観測室の気圧が微かに変わった。モロは姿を見せなかった。だが、“そこにいる”という実感だけが、クレアの内部に強く刻みつけられた。
それは、空白を埋めるような感覚だった。
「……見てた? 今日のレイライン」
(………)
「……記録に残らないって、こういうことなんだね。ずっとあなたが言ってたこと……今なら、少しわかる気がする」
静寂の中に、微かなノイズが走った。誰も発していないはずの“声”が、クレアの耳の奥に響く。
──“気づいたなら、もう戻れない”
彼女は、ただ微笑んだ。
「それでもいい。リクトもいるし、私たちはもう……記録の中に閉じ込められるだけじゃない」
翌日。
リクトが、異変を告げてきた。
「クレア。昨日のレイライン、記録に残ってる」
「……え?」
「いや、変なんだよ。昨日の記録は確かに存在してる。でも、歪みは“なかったこと”になってる。完璧な直線。揺らぎの欠片もない」
「誰かが……書き換えたの?」
「……かもしれない。でも、どこにも“編集ログ”が存在しない。これはもう、操作じゃない。“初めからそうだった”ことにされてる」
クレアは、昨日の記憶を思い返す。確かに見た、あの歪み。確かに感じた、あの空間の捻れ。
それが“なかったこと”にされている。
「記録って、こんなふうに作られていくの……?」
その呟きに、リクトは答えなかった。ただ、その目は、これまでの彼とは違う深さを宿していた。
こうしてクレアとリクトは、“記録の外”へと一歩を踏み出した。
それは、観測者としての境界を越える行為だった。
だが、同時に──
“記録されない存在”である者たちから、初めて“見返された”瞬間でもあった。
その眼差しは、柔らかくも、どこまでも無機質だった。