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双界記録  作者: 影縫い
1章 記録の胎動
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9話 空白の契約

 風の音が、いつもより近く聞こえた。


 モロは、北壁の塔の窓辺に腰掛けていた。沈みかけた太陽が、灰色の雲の合間からぼんやりと差し込み、部屋の中を赤く染めていた。手の中には、かつてリコルが書き記した日誌の一部がある。


 けれど、それを読むことはできなかった。


「……ずっと、お前に背中を押してもらってたんだな」


 ぽつりと、モロは言葉を零した。誰に言うでもなく、そこにはただ、リコルの不在があった。


 彼が消えたのは、第六封界ロクのきざはしに入ってすぐのことだった。モロが“その先”に足を踏み入れた瞬間、リコルは消えていたのだ。


 痕跡も、記録も、呼び声すらなく。


 だが、モロは“消失”の瞬間を正確に覚えている。何かが引き裂かれた音と、最後にリコルが呟いた名前。


「“クレア・リクト”……」


 まるで合言葉のように響いたその名。それが、第4話以降、物語の視点がクレアたちに切り替わった直後だった。


 彼は――いったい何と引き換えに、その名を“渡した”のか。


 塔のドアが軽く叩かれた。


「……入れ」


 開け放たれた扉の向こうから、白い衣に身を包んだ老女が現れた。彼女は“大図書室”の司書――【契約記録官】ルドゥス。


「そなたは、“契約”の痕跡を辿ろうとしておるのだな」


「……だったら?」


第零文書庫アーカイヴ・ゼロを、開ける覚悟はあるか?」


 モロは黙って立ち上がり、リコルの記した日誌の断片を手に取った。その紙には、薄く光の痕が浮かび上がっている。“記憶署名”――生きている者が、自らの記憶を魔術によって刻印した痕跡だ。


 それが意味するのはひとつ。リコルは、自らの記憶を“引き渡す準備”をしていた、ということ。


「……ああ。俺はもう、途中で立ち止まれるほど甘くはない」


 ルドゥスはゆっくりと頷いた。


「ならば、案内しよう。“空白の契約”を結んだ者たちの記録が、眠る場所へ」


 モロは無言でその後ろについて歩き出した。


 


 --------------------


 


 図書塔の最下層、第零文書庫は封印されていた。ルドゥスが手にした《白骨の鍵》が、古い門の呪文を解いてゆく。鍵は骨でできており、魔力の気配に合わせて形を変えながら、やがて“本来の鍵穴”を見つけたようだった。


 音もなく、門が開いた。


 奥には書架がなかった。あるのはただ一つ、巨大な鏡。鏡は水銀のように波打ち、その表面に“名を失った記憶”が漂っているようだった。


「第零文書庫は、そなたのような“記録継承者”のみに開かれる。ここには、世界と契約を交わした者の《代償》が記されておる」


 モロは、鏡の前に立ち止まり、懐からリコルの署名入り日誌を取り出して掲げた。


 ――すると、鏡が応えた。


 波打っていた水銀のような表面が、まるで“手”のように日誌の一片を撫で取る。そして、すぐに文字が浮かび上がった。


【契約名:双界記録継承】

【署名者:リコル・サールヴァ】

【代償:存在の重複回避のための分離契約】

【記録:リコルは、同時に“二人”ではいられなかった】


「っ……これは……!」


 モロは思わず一歩後ずさった。読み取られた内容が示すのは、単なる“失踪”ではない。


 リコルは――この世界と、そして“クレア・リクト”という存在と、何らかの重複関係にあった。その上で、《契約》により片方を選び、片方を捨てたのだ。


「では、リコルは……」


「おそらく、もう“ここ”にはおらん」


 ルドゥスの声は静かだったが、その意味は重かった。


「だが、死んだわけではない。“契約の裏側”にいる。それを見つける術は、あるにはある」


「どうすればいい?」


「……“世界の穴”を見つけるのだ。契約に穴があるとすれば、必ずその“歪み”が物語に顕れる」


 そのとき、モロの耳に“風”のような囁きが届いた。


「……クレア……名前を……渡したの……」


 それは、たしかにリコルの声だった。


 だが、誰もいない文書庫で、モロだけが聞こえたその声に、応える者はいない。


 


 --------------------


 


 部屋を出たあと、モロは一人、リコルの遺した記録を手に取っていた。あるページの端に、小さな印があった。


 “記録主交代”――クレア・リクトの視点に切り替わった第4話から、リコルの記録は一度として登場していない。それはつまり、彼の意志が何かに“分離された”ことを意味している。


「名前を、渡した……」


 なぜか、その言葉がやけに重く感じられた。


 “名前”とは、ただの呼び名ではない。


 この世界では、名前は存在の軸であり、魔力の結節点であり、そして何より、魂と契約を結ぶ“鍵”なのだ。


 つまり、リコルは“クレア”という存在の何かに、自分の“名前”を託したのではないか――?


「俺たちは、最初から“片割れ”だったのか?」


 今はまだ、問いの答えにはたどり着けない。


 けれど、リコルの物語が途切れ、クレアの物語が始まったその狭間に、確かに“なにか”があった。それは“伏線”ではなく、ひとつの“分岐”――【名前を渡す日】だった。


 


 そして、モロは次の扉を開ける覚悟を決めた。



--------------------



モロは、再び書庫へ戻った。


しかし今度は、ルドゥスの許しを得たわけではない。彼女は「二度とこの扉を開くことなかれ」と告げていたが、モロの中に湧き上がる確信は、それを押しとどめるには足りなかった。


「お前が残した“痕跡”が、まだある気がするんだよ……リコル」


“契約”の裏側、ではなく“横合い”にあるもの──それが《名前を渡す》という選択の副作用であるならば、残された側にもきっと、何かが滲み出ている。


クレアの旅路、その記録、言葉のひとつひとつ。


そこに、リコルの“残り香”があるはずだとモロは考えていた。


そしてモロは今、ただひとつの試みに賭けていた。


“クレア・リクトの記憶”に、リコルの署名を上書きできるか。



--------------------



第零文書庫の鏡に、クレアの記録媒体が差し出される。視線を合わせることで記録の“意識構造”が読み込まれ、波紋のように文字列が展開された。


そのとき――


【記録矛盾を検出:リコル・サールヴァの断片が、クレア・リクトの記録基層に重畳】


モロは息を呑んだ。


「……やはり、お前は“ここ”にいたのか」


重なる記録の断片。その中には、モロの知らない言葉、語彙、視線が存在した。


断片的な語り。記録されていない時間。

本来ならば編集段階で弾かれるはずの、錯乱したような文章が、そこには並んでいた。



--------------------



【追記記録:不正形式】

“リクト”という名前が光に変わったとき、私は後ろに落ちた。

私は、記録の“縁”に残されたノイズとなった。

君に、全部は渡せなかった。

だから少しだけ、ここにいる。

扉の向こうに“対称”がいる。

君が、君でなくなる前に、

どうか、自分の声で、自分の名前を呼び戻して。


その記録を、モロは静かに読み終えた。


その瞬間、背後で扉が開く音がした。


「勝手な真似をしたようだな。モロ」


クレアだった。


「……クレア」


「なぜ、私の記録を覗いた?」


その問いに、モロはまっすぐに目を向けて答える。


「お前の中に、リコルの残り火がある。俺はそれを、確かめたかった」


クレアは黙ったまま、鏡の前に立った。


そして、一言。


「──見えてしまったのね」



--------------------



彼女が語ったのは、初めて明かされる“最初の夜”のことだった。


“リクト”として記録が開始された瞬間、クレアは確かに“違和感”を覚えたという。

リコルの記憶が混在したような、自分が誰かの続きを生きているような。


だが、それは“物語の前提”を崩す行為になる。

だから彼女は黙った。いや、“自分でもわからない”と思い込むようにした。


モロが言う。


「お前は、リコルを内包してる。リクトという名前で」


「それでも私は、クレア・リクトとして生きるわ。だって、彼女がくれたのよ。“名を持って生きろ”って」


そう言うと、クレアは鏡に指先を添えた。


「でも──彼女の最後の声は、私には届いていない。“君に全部は渡せなかった”って……それは、モロ、あなたへの言葉なのよ」


モロの胸の奥で、何かが灯った。


「……そうか。俺が、受け取らなきゃならなかったんだ。リコルの最後の“名前”を」



--------------------



その夜、モロはひとりで“起点の扉”──世界の交差点へと向かっていた。


リコルが消え、リクトが生まれた場所。


クレアとカリナには黙って出てきたが、迷いはなかった。


「……俺は、お前の“鍵”になる」


扉の前に立ったモロは、手をかざす。


すると、“記憶の共鳴”が起きた。


リコルが最期に交わした《契約》の、残響。


《空白の契約……補完開始》


《指定者:モロ・アゼッカ》


《契約内容:名の補完/記録の同期》


そのとき、モロの胸の奥に、まるで火が灯ったような感覚が走る。


リコルの記録が、彼の中で“再生”された。


これは、名前を渡す者と、受け取る者。


そして、それでもなお物語を“見届ける者”の物語。


モロは振り返った。


どこかで、クレアとカリナが、自分の帰りを待っている。


「──必ず、戻る」


彼は扉を押し開けた。


そこには、かつて交差した“もうひとつの世界”が、再び広がろうとしていた。


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