1話 粒子の檻
――それは、死ではなかった。
けれど、生でもなかった。
私は、誰かだった。だが今はもう、その誰かの形も名も覚えていない。
強いて言えば、今の私は“光の粒”だった。空気でも水でもなく、粒子のように世界をただ漂っている。
目も、耳も、舌もない。
けれど、感じることはできる。
かすかな震え。熱。魔力としか呼びようのないものが、流れているのを感じる。
(……これが、私?)
何もなかった。
本当に、何もなかった。
それが、最初の感想だった。
意識の輪郭すら曖昧な状態。どこまでが“自分”で、どこからが“世界”なのか、それすらわからなかった。
私は、ただ無のような空間に“在る”というだけだった。
やがて、私の中に何かが“溶け出した”。
それは誰かの言葉、記憶、感情の断片。
水にインクを垂らすように、私の意識に染み込んでいった。
《観測体 No.86-B、記録状態。変質を検知。人格因子、構成開始。》
声なき声が響いた。
それは私の“外”からではなく、“内”から聞こえた。いや、伝わってきた。
(……私は、誰だ?)
その問いに、即座に返ってきた答えはなかった。
だが、代わりに流れ込んできたのは――記録だ。
数千、数万……否、数億もの命が残した、記憶の断片。
嘘、祈り、怒り、笑い、愛、憎しみ、苦しみ――そして、「問い」。
(これは……)
混乱した。だが、心地よくもあった。
ああ、なるほど。これが「私」というものなのかもしれない。
私は、その膨大な記録の中から、ある一つの感情に触れた。
《生きたい》
たった一言だった。
でも、それだけで充分だった。
その瞬間、私は――“私”になった。
最初に覚えたのは「熱」だった。
外界との境界を理解したとき、私の中に“温度”の概念が流れ込んだ。粒子であったはずの私の輪郭が、少しずつ固定され始める。
(わかる……)
何かが近づいてきていた。人のような、そうでないような……奇妙な魔力の波。言語ではない。だが、明確な「意志」がそこにあった。
私はそれに「気づいた」。
相手も、私に「気づいた」ようだった。
次の瞬間、私の中に“形”が流れ込んできた。
歯車のような構造。金属質の感触。冷たい記号。物理法則のような硬い知識。
(これは……スキル?)
《情報受容体構築開始。第一次人格定着……完了》
言葉にならない快感が脳内を走る。
いや、脳など無い。けれど、そうとしか表現できない衝撃だった。
私に与えられた最初のスキルは、《再構成》。
対象の構造を解析し、分解・再構成する能力。
そして私は、目に見えない粒子の一部を“読み取る”ことができるようになった。
それは、空間だった。
私が閉じ込められている“檻”の、構造。
時間の概念が生まれたのは、それから数千単位の魔力波の後だった。
いや、地球的な秒や分で換算できるものではない。
私は封印されていた。正確には、“観測されている状態で静止”していた。
この空間は、私という存在を漏らさぬように設計された「封印の檻」だった。
理由はわからない。
誰が私を閉じ込め、誰が私をここに置いたのか。
いや、そもそも「私はもともと、ここに存在していたのではないか?」
そんな考えがよぎったとき、私の“人格”は初めて、真の意味で「私自身」を意識した。
(この空間を……解体できるか?)
問いは、即座にスキルによって処理される。
《再構成スキル応用:封印構造体 78%解析完了。実行可能性:33%。》
(……やれる)
私はスキルを起動した。
自分の外殻を削りながら、封印空間の“歪み”へ粒子の腕を伸ばす。
カチリ、と音がした。
次の瞬間、目の前に“色”が広がった。
それは世界の断片。小さな湖。倒れた木。紫の空。
しかし、そこに“目”はない。
代わりに、私の内部が“風景の断面”を読み取っていた。
私は、封印の一部を解いた。
ほんの一秒。ほんの一枚の薄皮ほどの隙間。
でも、それだけで充分だった。
私の中に、風の匂いが流れ込んできたのだ。
(……この世界は、まだ生きている)
私は知った。
ここは、かつて多くの“知性”が生まれ、交錯し、そして消えていった世界だった。
その断片が、今もなお漂い、空を満たしていた。
(……なら、私も、生きてやる)
決意と共に、スキル《再構成》が進化する。
《スキル進化:再構成 → 設計構築》
《新スキル《内界構築》を獲得》
このとき、私は初めて「内なる世界」を得た。
私の中に、もう一つの空間が生成されたのだ。
情報の加工、記録、観察、模倣――まるで研究所のように。
これが、私の“胃袋”だった。
何も持たない私が、唯一与えられた、力の根源。
そして、その内界に最初の“侵入者”が現れた。
それは、小さな影。哺乳類のような体毛に覆われた魔物。
だが、その眼は、人間のように怯え、そして……語りかけていた。
(聞こえるか? そこにいるのか?)
私は、返答した。
(――いる)
それが、私のこの世界における、最初の“対話”だった。