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鏡よ鏡、鏡さん……

作者: 雉白書屋

『おはようございます、姫様。朝ですよ』


「ん、ぉはょ……」


『今日もいい天気ですね。まずはカーテンを開けましょう』


 包み込むような甘い声に促され、彼女は一つあくびをして、眠気を振り払いながらカーテンを開けた。陽光が部屋に差し込み、小さな繊維が光の中を舞う。まるで羽目を外し過ぎたお嬢様たちのように、床に散らばった化粧品や香水たちが、朝の訪れを知る。彼女はまぶたを閉じ、肌に朝日を馴染ませた。


『さあ、お顔を見せてください。はい、そのまま動かないで……今日もあなたは魅力的です』


 彼女は毎朝、起床後に魔法の鏡に顔を映す。鏡は顔の状態をチェックし、適切なマッサージ方法を指示してくれる。顔を揉みながら彼女は心の中で繰り返す。「私は魅力的、鏡がそう言うのだから間違いない。だって、鏡は嘘をつかないもの」と。


『昨晩は少し夜更かしをしましたね』


「はーい、気をつけます……いてて」


『昨晩は何を召し上がりましたか?』


「んー、ホテルのスカイラウンジでスパークリングワインで乾杯して、生ハムのサラダが前菜で……」


『お酒をよく飲まれたようですね。冷蔵庫にヨーグルトがあるはずです。それを朝食にどうぞ。あとは――』


 魔法の鏡は冷蔵庫の中身を把握し、彼女の食事の管理してくれる。頼りになるのは、遠くの親類より近くの魔法の鏡。それが彼女の信条。


「鏡よ、鏡、この世で一番美しいのは誰?」


『もちろんあなたです、姫』


 これが彼女の朝の儀式だ。メイクを終え、家を出る前に必ず行う。これで彼女は魔法にかかるのだ。自分は美しい、最高に充実している、と。

 通勤電車の中でも、彼女は魔法の鏡を手放さない。鏡は彼女に魅力的なニュースを伝えてくれるのだ。今日の天気、会話に使えそうな小ネタ、運勢、面白い動画やSNSのトレンド――


「……チッ、パクッてんじゃねーよ」


 彼女は独り言を漏らした。隣に座る中年男性が彼女を一瞥したが、彼女が睨みつけると、さっと視線を逸らした。

 彼女はため息をつき、再び鏡に目を戻す。そこには、先週訪れたホテルラウンジでのディナーの写真が映っていた。

 だが、それを投稿していたのはあるインフルエンサーのアカウント。彼女は自分と同世代だと思い、ライバル心を抱いているが実際には、相手は少し年下だ。


 ――パクリ女。死ねばいいのに。


 気分が悪くなった彼女は、気晴らしに他のアカウントをチェックし始めた。 

 しかし、SNSの中で他人の生活を覗くたびに、小さな苛立ちが募っていく。誰もが豪華な食事を楽しみ、素敵な旅行をし、完璧な家族を持っているように見え、自分の人生が他人のより劣っているように感じるのだ。

 そんなとき、彼女は顔を隠して他人を攻撃することにしている。


 ――ブス。

 ――整形。

 ――ケバい。

 ――加工強すぎ。


 魔法の鏡は魅力的だ。彼女の心を掴んで離さない。だから彼女は仕事中でも、つい、ふとした瞬間に覗き込んでしまう。友人の近況や、誰かのランチの写真が次々と現れ、その瞳だけは世界中を飛び回っているかのようだ。まさに魔法。しかし、置き去りにされた体は現実に晒されている。


 ――あの人、またサボり。

 ――整形手術の予約してんじゃないの?

 ――港区女子(笑)

 ――遠距離通勤のね。

 ――ふふふふっ。

 ――あはは。


 仕事が終わると、普段なら誰かとディナーに行く彼女だが、今日は家に帰ることにした。魔法の鏡が「休肝日を設けましょう」とアドバイスしたからだ。だが、彼女はコンビニに寄って酒を買った。それもまた、彼女にとっては魔法の一つだった。夢を見るための。

 夜になると魔法の鏡はさらに輝きを増す。ほんの少しだけのつもりで覗き込むうちに、いつの間にか時間が過ぎてしまう。

 鏡は、彼女の欲望を見透かすかのように、新しいドレスやバッグ、香水を次々と勧めてくる。ネット通販は彼女にとって魔法の泉だった。


「……チッ」


 ようやく眠りにつこうとしたとき、鏡が着信を知らせた。相手は母だった。彼女は面倒くさそうに通話ボタンを押す。ビデオ通話だ。


「お母さん、何? 疲れてるんだけど」


「あ、うん。元気かなと思って……」


「元気よ。それじゃあね」


「あ、ねえ、あ、あんた、その、また顔を……」


「何?」


「いや、その、たまには家に顔を出してね。部屋はそのままにしてあるから、そっちの生活に疲れたらいつでも帰ってきていいんだし……」


「はいはい……。明日も仕事なの。眠いからもう切るね」


「あんたは本当は賢い子だからね、大丈夫だとは思うけど……」


 彼女は通話を切り、魔法の鏡をベッドサイドに置いた。充電ケーブルがしっかりと差さっていることを確認し、安堵の息をつく。


「……あなたは誰?」


 沈黙した魔法の鏡。その暗い画面に映った顔に、彼女は問いかけた。


 ――あなたは誰? 豪華なラウンジでのディナーを楽しむあなた。

 ――あなたは誰? 整形して、白い歯を見せているあなた。

 ――あなたは誰? ゴミだらけの部屋で寝起きしているあなた。


 魔法の鏡は、彼女の思考、感情、時間を吸い取っていく。それでも、彼女は鏡を手放せない。老いを隠し、虚構の自分を保つために。


 ――こんな私は、いったい誰なんだろう……

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