友達の好きと恋愛の好き
羽根が生えているようだったとお母さんは言った。
高い崖の上から海へダイブした少女が、空飛ぶ天使に見えた、と。
自分に『早く飛び降りろ』なんて言ったその少女が、その時自分を救ったのだと、お母さんはそう言って微笑んだ。ほんとうに、自分の代わりに秀美が飛んでくれたのだと、そう語った。
そして彼女は遥か眼下の海の中へ潜っていくと、やがて海面から顔を出し、大きな魚を一匹抱えて戻って来たそうだ。
「あまりにも生きる力に満ち溢れていたんですよ」
そう言って、顔にシワを寄せ、お母さんは笑った。
僕にはわからなかった。秀美のことを見損なったと思った。
「ひどいな……。僕なら絶対に止めるけどな。『何があったかはわからないけど、生きてればいいことあるよ!』とか言って」
僕がそう言うと、お母さんは優しく微笑んだ。そして、言った。
「あの時、そう言われても私に効力はなかったと思います。……なんていうかね、秀美の言葉で、冷めちゃったっていうか、現実に引き戻されたんですよ」
くすっと笑う。
「それにね、あるかどうかわからない『いいこと』じゃなくて、秀美自身がその『いいこと』になってくれたんです」
お母さんはその後、秀美が育ったプロテスタント教会へ案内され、そこで秀美と仲良くなって、彼女を養女にすることを決めたらしいが、もちろんそこで何があったとか、詳しいことは僕にはわからない。
秀美の演奏が、止まった。
「わからん」
秀美が呟く。
「これ、恋愛の情を歌うた曲ながやけんど、友達の好きと恋愛の好きってどう違うが?」
「え?」
ふいの質問に固まってしまった。
「どうって……」
「それがわからんき、いまいち表現できんがじゃよね。ね、教えてよ?」
「うーん……」
僕にもわからなかった。
「じゃ、宿題ね。考えてきて、今度教えてよ」
「ああ……」
僕のほうとしても、その時気になっていたことを秀美に聞いてみたかった。でもそれはとても聞きにくいことだった。
秀美が捨て子だったことから話しはじめないといけない。お母さんが崖から身を投げようとしていたことも。その流れでしか聞けないことだと思った。
すると秀美のほうからあっさり言い出した。
「お母さんから聞いた? あたしが捨て子だったことや、この家に貰われたいきさつやら」
あまりにもあっけらかんと言うから、深刻な自分がバカみたいだった。
「教会の前に捨てられてたらしいね?」
「うん。冬やったらしいぜよ。四国といっても冬はひやい(寒い)き、ぐるぐるに毛布にくるまれて段ボール箱に入れられちょったらしいわ」
そう言って他人事みたいに笑う。
「やけんど楽しかったんだよ? イギリス人の楽しいひとがいっぱい来て、おかげで英語も喋れるようになったがじゃ」
「え……、英語、喋れるの?」
「うん。将来の夢は通訳になることじゃ」
また一つ、秀美のスーパーな部分を知った。
不思議だ、こんなになんでも出来るとふつう、嫌味に感じるものだろうけど、とにかく彼女は自然体なせいか、僕にはちっとも抵抗がなかった。
それよりも僕には知りたいことがあった。
「お母さん……崖から飛び降りようとしてたらしいね?」
言い出すのは僕にも崖から飛び降りるぐらいの勇気が要った。しかし秀美はやっぱりあっけらかんだ。
「うん。近くに自殺の名所があって、正直迷惑しちょったき、飛ぶなら早う飛べって怒っちゃったわ」
お母さんから聞いた通りだった。
「止めようとか思わなかったのか?」
半ば叱るような口調になってしまった。
「人の命は重いんだぞ? 『早く飛べ』なんて言っちゃいけないんだぞ」
その答えをこそ知りたかったのだ。
「あたし、捨てられた子じゃったき、そういうのわからんのかも」
あくまでもあっけらかんと秀美は答えた。
「それにお母さんに何があったかなんて、うちにはわからん。何かあっても頑張って生きようと思うのも、頑張りたくないって思うのも、お母さんの自由ぜよ」
秀美のことがわからなくなった。
僕なら目の前で人が死にかけてたら、頑張って助ける。それが人間というものだ。
「間違ってるよ。そんなのおかしいよ。秀美は困ってる人がいても助けないのか?」
「何よ、えろう絡むわね? そがなのうちの勝手やない?」
秀美の機嫌が悪くなりはじめたけど、構わず続けた。後から考えれば当のお母さんが感謝しているのだからいいはずなんだけど、その時の僕はムキになっていた。
「友達だからほっとけないんだよ! 友達として好きだから、もっと好きになりたいんだよ! だから……」
我ながらお節介な上に恥ずかしいことを言ってると思ったが、そんな言葉が自然に出た。すると怒りかけていた秀美が急にニマッと笑い、言った。
「それってもしかして……恋愛のほうの好きなんやない?」
動揺して目の前のコップを倒しそうになってしまった。
「は……!? ちげーよ! な、なんで……?」
「うちを自分好みに染めたいんやない? やき、必死でうちの好みやないところを変えさせようとしちゅーがじゃ。恋愛の好きって、そんな感じやろ?」
「うっ……!?」
なんか自分の心を見透かされたようで焦ったけど、すぐに否定の言葉が見つかった。それは何かの本で読んだ知識だったけど、自分の言葉のように知ったかぶった。
「そういうのはね、コホン……逆だよ。恋すると、相手を好きなあまり、相手の好きなように、自分を変えようと思うものなんだ。そして、相手のことは、そのままでいいと思うものなんだ。そのままの相手を好きになるのが恋愛なんだから……」
「え! じゃあ、うち……」
秀美が早口で言葉を挟んだ。
「ヒデキに恋しちゅーかも!」
「は……!? な、なななんで?」
「だってうち、そのまんまのヒデキ、好きやもん」
「えええっ……!?」
秀美はお茶をくぴっと飲むと、ニカッと笑い、まったくの平常心の顔で、言った。
「ヒデキとおると楽しいんよ。ジャズとクラシックばっか聴いちょったうちにロック教えてくれるし、田舎もんのうちに街のこと色々教えてくれるし。頑張ってギター探してくれたのも感謝しちゅう」
「ぼぼぼ僕なんて……」
挙動不審になった僕は、生徒手帳を取り出すと、秀美の前に突き出した。
「名前がこんなだぞ? こんなでも、いいのかっ?」
そこには僕の名前が漢字で書いてある。
山下日出樹と──
それを見ると秀美はちょっとだけびっくりしたようで、声をあげた。
「えー? ヒデキってこがな漢字やったん?」
そして首をひねった。
「……で、これが何か?」
「『不出来』って字に似てるだろ?」
自分の黒歴史を明かしてしまった。
「だから小学生の頃からあだ名が『フデキ』だった」
秀美はアハハハハと笑った。
僕の黒歴史が馬鹿らしく姿を変えて吹き飛んでいくぐらい、豪快に笑った。
「ま、忘れて忘れて? うち、恋愛らぁ、そがなの、げにわからんき。ただ恋愛の曲の心がわかりたかっただけやき」
これまたあっけらかんと言われてしまった。
その日、宙ぶらりんの心で僕は秀美の家から帰ることになったのだった。