特訓、そして誤解
僕らの家は、それぞれお城を挟んで反対側にあった。
朝6時。初夏のその時間はもうすっかり明るく、僕は太陽を正面に見ながら、トレーニングウェア姿で坂道をランニングで登っていった。
反対側の坂道を登って、同じくランニングウェア姿の彼女が、朝日を背負ってやってくる。
坂の頂上で僕らは足を止めると、笑顔で挨拶を交わす。
「おはよう、原田さん」
「おはよう、山下くん。ちゃんと来たんやね」
僕を見つめるキツネ目が、僕を認めてくれていた。
芝生の公園で、まずは柔軟体操をした。
お互い背中をくっつけ合って、一人が一人を背負って持ち上げる。
たまにお尻が触れ合ってドキッとしたけど、ふざけた気持ちは持っちゃいけない。僕はこの特訓で強くなるんだ。
合気道の型を教えてもらい、軽く実戦なんかもこなしていると、なんだかそれだけで自分がめきめき強くなっている気がした。
原田さんはいい先生だった。教え方がわかりやすくて、うまい。さすがは合気道の段持ちだ。
これから毎朝、一緒にトレーニングをしよう。そう心に誓い、忠実に僕はその誓いを守った。
強くなって、いつかあの不良どもを見返してやる──そういう思いももちろんあった。
でも、それ以上に、原田さんと二人で会うのが楽しかった。
* … * … * … * …* … * … * … * …* …
一緒にトレーニングをするようになってから、彼女がまた僕の家に遊びに来るようになった。
僕らは友達になったのだ。彼女の目当ては僕というよりは、僕の持ってるエレキギターだったけど。
彼女の弾くギターは魔法みたいで、僕にはとても弾けそうにない。でも、もっとうまくなりたくて、彼女に頼んだ。
「ねえ、合気道みたいにギターも教えてよ」
「何を教えてほしいが?」
「速弾きのコツとか」
すると彼女はこう言ったのだった。
「んん? こう……パッと、サッと……。まぁ、弾いちょったらそのうち速く弾けるようになるぜよ」
原田さんは合気道に関しては努力して強くなったのだろう。たぶん、だからこそ、他人に教えるのもうまい。自分が辿った道を僕にも辿らせ、僕に出来ないことがあっても、なぜ出来ないかをわかってくれる。自分にも身に覚えがあるからだろう。
しかしギターに関しては天才だった。
天才はいつの間にか出来るようになっているものなので、人に教えることは不得意なようだった。僕に出来ないことがあっても、『まばたきが出来ない』と言われてるように、なぜ出来ないのか不思議がるばかりだった。
しかし彼女のギターは、どう聞いてもアコースティック・ギターの弾き方だ。エレキの弾き方をわかってない。チョーキングもパワーコードもまったく使わず、音を歪ませるとノイズが目立つ。
つまりはこの魔法みたいなギターには、まだまだうまくなる余地があるということだ。僕は未来のスーパーギタリストのコーチになったみたいに心が躍った。
「チョーキングって難しいのぉ……。力が足らいで弦が持ち上がらん」
そう言って、原田さんは人差し指一本で硬い弦を持ち上げようとしている。僕が出来ることを彼女が出来ないのを見ると、ちょっと得意になってしまった。彼女からギターを受け取ると、かっこよくチョーキングを披露した。
「こうやって、指を何本か添えて、複数の指で力を合わせて持ち上げるんだ」
キュイ〜ンとかっこいい音を鳴らすと同時に、部屋のドアが開いた。
「おいヒデキ。ちょっと音がでかいぞ。下の診察室まで聞こえ……えっ?」
兄貴だった。そういえば大学の夏休みが始まって帰ってきてるの忘れてた。僕と一緒に女の子が部屋にいるのを見ると、面白いものを見つけたように、はしゃぎ出した。
「何っ!? カノジョか? ついにおまえにも出来たのかっ? し、しかも……可愛い子じゃないかっ!」
「ち……、ちげーよ!」
ムキになって否定してしまった。
「と、友達だよっ!」
「友達です」
原田さんもそう言って、兄貴にぺこりと頭を下げた。冷めた表情が僕に同意していた。
「いやいや、おかしいだろ」
兄貴はニヤニヤ顔で、僕らをどうしてもそういう関係にしたいようだ。
「友達って、異性どうしで男の部屋に二人っきりって……、ふつうありえないだろ。よかったなぁ、ヒデキ。そうか、おまえにもカノジョがなぁ……」
兄貴は僕と似た顔をしていながら、僕と違って結構昔から女の子にモテた。僕と違って陽キャだし、何より高校の時にバンドでギターをやっていて、それが好評だったらしい。じつをいうと僕がギターを始めたのも、兄貴みたいになりたかったからだった。
「彼女、ギターがすごくうまいんだよ」
僕は兄貴に言った。
「それで教えてもらってたんだ。兄貴なんかより百倍うまいぞ」
「へえ?」
兄貴はニヤニヤ笑いを崩さず、言った。まだ僕と彼女が付き合っていると決めつけてるようだ。
「弾いてみてよ?」
原田さんのほうを見ながら、そう言う。
「びっくりするなよ?」
そう言いながら、絶対びっくりするぞと思いながら、原田さんにギターを渡す。あのジャズやクラシックの曲を、あの超絶技巧を見せつけてやってくれ。そう期待しながら、兄貴に負けないぐらいほどのニヤニヤ顔をした。
原田さんがギターを、弾いた。僕が教えたばかりのことを試したかったのか、三本の指で、まだ修得してないチョーキングを一発、びょーんと下手くそにかました。
「やっぱりカノジョじゃねーか!」
僕の言葉を『原田さんはギターがうまい』というのも含めてすべて嘘だと思ったようで、兄貴が猿のように拍手をはじめた。
「おいっ! うるさいぞ!」
半開きになってた部屋の扉のところに立っている兄貴の後ろから、白衣姿の親父の長身が覗き込んだ。
「診察室まで聞こえてるぞ……っておい」
親父の顔もニヤニヤになった。
「おいおいカノジョが出来たのか、ヒデキ? おいおいおい、可愛いじゃないか、可愛いじゃないか」
こうして原田さんと僕は、僕の家族公認の仲という形にされてしまったのだった。
はっきり言って、彼女に申し訳なかった。僕なんかのカノジョなんてことにされてしまって……。ごめんなさい。