第一章 一 プロローグ
第一章 『きっかけ』
前野 綾斗は普通の男だった。
普通に産まれ普通に生活を送り、普通に学校に通い、普通に就職した。今日も出社時間より1時間早い朝礼に間に合うように目の下にこさえたクマを揉みながら満員電車に揺られ会社に着いた。
だが、今日はいつもとは違う日だった。
いつもある自分のデスクが見当たらなかった。自分のデスクどころか、他の人のデスクもない。ファイルが敷き詰められていた棚も、寿命寸前で紙詰まり祭りを引き起こしていたコピー機も、乱雑に文房具が入っていたカラーボックスも、何もかも無くなっている。
唯一あった、1枚のA4にことの顛末が収まっていた。
「まじか...」
それらしい言葉が並んでいるが、結局のところ会社は倒産、社員は全員リストラという内容だった。一晩で全てのものを持ち出せるほど小さなビルだった弊社のオフィスもデスクがなければ広く感じるのだなと、綾人は他人事のように思うのだった。
こんな違法な解雇許せないとか、訴えてやるとかを行動に移すには彼は疲れていた。そもそもそんなことが出来る元気があるならとっくに転職していただろう。彼の目の下のクマが元職場がどのような環境だったのかを物語っている。
労基である程度の金を貰ったら次の仕事をどうにか探そう。それぐらいの予定しか立てず寝るくらいにしか使っていなかったアパートに引き返した。
次の仕事、明日探そう、次の仕事、今日は無理だな、次の仕事、夕方に起きてしまった…そんなふうに過ごしてもう3ヶ月がたった。
すっかり仕事のない日常に溶け込んだ綾人は今日も汚部屋で焦燥感とそれに相反する無気力でソファーベッドに転がっていた。腹が減ったがそれ以上に何もしたくない。飯を買うのは高い。だが作るためにはあそこで放置された鍋やフライパン、皿、包丁、まな板を洗わなくてはいけない。見るのも恐ろしいのに。結局、飯のことばかり考えてたせいで我慢できずに夕方重い腰をあげてスーパーに向かうことにした。
コンビニよりは安く済む。安い菓子パンとかでもこの際構わない。そう思いながら暗くなり始めた道を歩きながらあくびをした。
瞬間。
踏み出した足が踏むはずだったコンクリートがどろりと蕩け、ずぷりずぷりと足を飲み込んでいく。想定外のことに体制を崩した彼は全身でその泥濘のようになったコンクリートに突っ込んでしまう。
驚きで声すら出せずに引きずり込まれる。ねっとり重く身体に張り付く泥のような感触が顔まで包み、目を開けられなくなる。上へ上へ行こうと腕を伸ばしても泥の重さが身体を底へと追いやってしまう。底?底なんてあるのか?そんな新しい恐怖が冷静さを失わせる。
呼吸が出来ない、何も見えない、どうしようもない、怖い。やばいやばいやばいやばい
(あ、死ぬ)
そう悟った。意識が遠のき力が抜ける。




