64.二人が歩んできた道
わたし達は改めて、テーブルを挟んでソファに座った。
他にも別室に控えていたメイドさんにお茶の準備をさせてから、ソニアさんはわたしが手渡した父さんの本を読み始めた。
「お手伝いできることがあったら、何でも言ってください」
「あー大丈夫よ。聞きたいことがあれば私から聞くから」
本に目線を落としたソニアさんは、わたしの方を見ずに言った。
そこからは、沈黙がわたし達の間を支配していた。
彼女は一言も発せずに、本を読むことに集中していた。
紙上に書かれた文字を指先でなぞりながら、次々とページをめくっていく。
そのスピードは、とてつもなく速かった。
アレクよりも、もちろんわたしよりも速く、本当に読んでいるのかと思えるほどだった。
時々視線を上げたソニアさんと目が合っても、にっこり微笑み合うくらいで、特に質問も会話もなかった。
(ほんとに、わたしを鑑賞したかったのかな?)
そう思ったわたしはソファに座ったまま、観賞植物よろしく何もしなかった。
冷めたお茶のおかわりをもらって、何度か座り直してじっとしているうちに。
(ちゃんと読めてるのかな……?)
と、なんだか心配になって来た。
それがとても失礼な想像だ、ということは分かっている。
でも、止められなかった。
本の半分を過ぎて、魔法式の説明に入っても、読む速度が変わらないのだ。
記号の羅列にしか見えない式が無数に出てくるのに、普通に本を読むより速いのだ。
詰まることもなく、考え込むこともなく、ただひたすらページがめくられていく。
(ソニアさん、きちんとりかい……)
「ねぇ、リースちゃん」
「はっ、はいっ!」
久々に声をかけられ、心臓が飛び跳ねた。
頭に浮かんだ思考を急いで追い払い、ソニアさんの言葉に耳を傾ける。
「あなた、さっきから」
本を読むことに集中しているのか、呟くように話すソニアさんの声は、どことなく上の空のようだった。
「大丈夫かな? って顔をしてるよね?」
「!?」
図星を言い当てられて、わたしは焦った。
「そ、そんなことはっ、ないですっ!」
わたしは両手を振って、大げさに否定する。
冷たい汗が背筋を流れ、心臓がバクバクいっているのを、どうにかして隠したかった。
「ぷぷっ。慌てなくてもいいのよ。私に隠し事なんてできないの」
ようやく顔を上げたソニアさんは、口元に手を当てて楽しそうに笑った。
動転するわたしを眺めて、面白がっているようだった。
「不安に思ったことがあったら、ちゃんと聞いてね。怒ったりしないから」
「え……と。それじゃ」
わたしは、さっき思い浮かんだことを聞いてみた。
「その速さで読んで、どこまで解読できるのかなって、思ったんです」
「これは訓練によって培ったものよ。どうやったら速く読めるかを追求した結果なの」
「でも、その言葉はものすごく難しいって、アレクも嘆いてました」
「私も魔法学者の端くれだからねー。イニティウム語は長年勉強してるのよ」
わたし達がさんざん苦戦したことを、ソニアさんは事も無げに言ってくる。
「それにイニティウム語は、魔法理論や魔法式を構築するのに向いている言語なの。様々な解釈が取れるから、複雑な構造をシンプルに組み上げられるってわけ。新しい魔法式を作ろうと思うと、きちんと使いこなせないとね」
人差し指を立てて説明するソニアさんは、先生のような顔つきをしていた。
「どのくらい勉強したら、すらすら読めて使いこなせるようになれるんでしょう……?」
「そうね。最低10年、普通は20年ってところかしら?」
「にじゅっ……!?」
わたしは思わず絶句した。
あまりに途方もない道のように思えて、目が回りそうだったのだ。
(ソニア様はそもそも、何才なんだろう?)
と、わたしは思った。
さすがに面と向かって聞く勇気はなくて、黙ってはいたけれど。
わたしが生まれる前から、ソニアさんの名声はゴルドニア全土に響いてたというし、彼女の見た目と、実際の年齢とは全く異なるのかもしれない。
「あとは、そうねぇ。私の祝福のおかげでもあるかな」
「ソニア様の祝福って、どんなのですか?」
「わたしの祝福は、この目なの」
そう言った彼女は、自分の目元を指さした。
顔を近づけてよく見ると、瞳の部分が七色に入れ替わりながら輝いているのが見えた。
「【極彩色の瞳】って言ってね。この目でじいっと見ていると、色々なモノの本質が見極められるようになるの」
と言って、ソニアさんはわたしの右手を取って。
「例えば……あなたが持っている指輪の価値も、分かるのよ」
指にはめられた【防壁の指輪】をじっと見つめた。
「これも初めて見る魔法式が刻まれている、か……式の構成から、受けた魔法の内部構造を瞬時に分析して、魔法式を解除している……のかしらね? 外部から影響を与える攻撃系のあらゆる魔法に対処でき、て? ちょっと待ってっこれだと……戦略級極大魔法も受けられるかもっ!」
解説の途中で感動し始めたのか、ソニアさんの声が大きく、震えるようになっていった。
そして、ひとしきりわたしの手と指輪を撫でまわしてから、興奮で赤く染まった顔を上げて、早口でこう、言ってきた。
「もしよければその指輪、百億ガルドで売ってくれない?」
「ひやく……おく?」
ガルドというのはゴルドニアの通貨だけど、桁が大きすぎて、その価値がよく分からなかった。
今回の旅費がだいたい百ガルドだから、一億回も旅ができて……
って、そんなに行かなくてもいいって!
「ゴルドニアの国家予算が、だいだい一千億ガルドなの。だから、その一割で売って欲しいってわけ」
「いちわり!? って、そんなお金がどこにっ!」
「うん、大丈夫。私にはそのくらいの資産があるから」
身を引いたわたしに迫るように、ソニアさんはテーブルの上に身を乗り出してきた。
ご丁寧に契約用の魔法まで起動して、今言った途方もない内容をわたしに突き付けてくる。
「それで、どう? 私と契約してくれる?」
迫りくる美女の圧力と、貰えるであろう大金の価値とが、わたしを跪かせようとしてきた。
わたしがこの場で「はい」と言えば、お金の雨がわたしの頭上に降り注ぎ、指輪の使用権限がソニアさんに移るのだ。
「う、売りません! 絶対に!」
わたしはそのどちらにも屈したくなくて、手で指輪を隠して身体を縮こませて、きっぱりと断言した。
指輪の価値はよく分かんないけど、とにかくこれは父さんが作って、母さんにプロポーズする時に渡したものなのだ。
わたしの十五才の誕生日に、母さんが譲ってくれた大切なものなのだ。
どんなにお金を積まれても、絶対に売ったりしない。
「そっか。残念……」
あまりがっかりしてなさそうな口調で、彼女は言った。
わたしの眼前に迫っていた契約魔法を取り消して、自分もソファに座り直した。
「とまあそんな感じで、この指輪にどんな能力があるのかってことが、私にはだいたい分かるの。この目で見れば、ね」
さっきまでの圧はどこへやら、ソニアさんは軽い調子で、自分の祝福について説明してくれた。
「でも、それなら……」
と、わたしは言った。
どうしても、聞いてみたいことがあったのだ。
「ソニア様は、ラングロワ病の研究をされてないんですか?」
ゴルドニアを覆う不治の病。
彼女の本質を見抜く目があれば、王国を覆う不治の病の克服だって不可能ではないはずだ。
「残念だけど、私はその研究には取り組んでないの」
「どうして、ですか?」
「陛下から直々に、ラングロワ病の研究禁止命令を受けているからよ」
と、ソニアさんは目を伏せて、驚くようなことを告げてきた。
「そんな……」
病気に苦しむ人を救うよりも、重要なことなんてない、のに。
「私には、王様に逆らうような勇気はないの。私を師事してくれている大勢の弟子や生徒と、ここで働く子の未来がかかっているから……」
とても申し訳なさそうに目を伏せて、彼女は言った。
(余計なことを聞いちゃった……)
と、わたしは後悔した。
ソニアさんを責めるつもりも、悲しませるつもりもなかったのに。
「でも……」
と、ブルネットの美女は顔を上げ、わたしに微笑みかけてくれた。
「私の生徒の一人が、あなたをここに導いてくれたわ」
「アレク、が……?」
「そうよ。苦しむ人々を救う力を持つあなたを、私のところに連れて来てくれたの」
それが唯一の希望であるかのように、ソニアさんはわたしを見つめていた。
涙に潤んだ瞳で、真っ直ぐに、わたしを。
「さあ、続きに取り掛かりましょう。あなたが歩んできた道が正しかったと証明するために。それでこそ、あなたが私と出会ったことに、意味を持たせられるもの」
「はいっ!」
なんだかわたしまで泣きそうになりながら、わたしはそれでも、しっかりと返事ができた。




