46.精霊界にて その2
それを言葉すると、わたしの中に、アンジェラ記憶と願いが流れ込んできた。
四年前、暴力と空腹に満たされた悲惨な境遇で出会った二人は、お互いを支えにして生き延びてきたのだ。
どんなに辛い目に遭っても、二人で励まし合って耐え抜いて、やっとの思いでウッドランド村に来られたのだ。
互いに不可欠な存在となった彼女達の思いはただ一つ。
((これからもずっと、私と……))
その懸命な願いに背中を押され、わたしは左手を伸ばしていく。
イザベラにまとわりついていた影が、動いた。
指のない右腕を伸長させ、伸ばしたわたしの左腕に触れてくる。
気付かれてはいけない。
黒き影が見えていることを、悟られてはいけない。
わたしは何も分からない風で、指先をイザベラへと近づけていく。
腕を、肩を這い上がる影の感触がおぞましく、今すぐ振り払いたかった。
本能がもたらす衝動を意志の力でねじ伏せて、わたしは表情を変えずに手を差し出し続ける。
首を越え、頬を越え、わたしの頭にまで達した影の腕は、後頭部を掴み取るように包み込んだ。
(来る!)
影がわたしに影響を与える直前。
身をかがめ、頭を下げて。
低い姿勢で前に踏み出す。
頭の後ろで空間が弾けたのを感じながら、わたしはイザベラの首元、彼女に巻き付いた影の本体へと左手を突っ込んだ。
「今よ! 引き剥がして!」
わたしの合図に従い、ジェイクの意思がこの世界で具現化する。
突き刺した手刀を中心として、7つの半透明の小さき手が生み出され、影の全体を拘束。
「ナ、ナンダト!?」
驚愕の悲鳴を上げる相手を鷲掴みにした【手】が、影をイザベラの身体から問答無用で引き剥がす。
「クッ……何事か!?」
自分に起きたことが理解できず、影は半ばパニックに陥った。
黒い頭を左右に動かし、右往左往するこいつこそが、イザベラに悪意を吹き込み続けた奴だった。
「あんたは、ひっぺがされたの。わたし達の手でね」
「馬鹿な! 【虜囚】ごときが俺に影響を与えられるものか!」
自分を見下ろすわたしに毒づく影は、そこらのならず者と変わらぬ口調の持ち主だった。
セルザムが雇った私兵……なのだろうか。
「ま、信じる信じないは自由だよ」
わたしはあっさりと引き下がった。
細かく説明してあげる義理はないし、今はもっと重要なことがあるのだ。
「とりあえず、とっとと帰ってくれるならこれ以上は何もしないけど……どうする?」
「ハッ! お前らが俺に命令するだと?」
わたしが差し出した救いの手を、影は鼻で笑い飛ばした。
「お前らは地を這いずって、俺達の言うことを聞いていればいいんだ! 身の程をわきまえろ!」
「そう……」
目を細めたわたしは、左手で影に掴みかかった。
「ふん、愚かな……ここでは、俺達は決して触れ合えない」
「そんなの、ウソ、だよ」
影の言葉にそう言い返したわたしは。
相手の黒い肩を。
しっかりと、捕まえた。
「なっ!? 馬鹿な!」
「召喚術師ってのは、ほんっとすごいよね。精神だけで築かれたこの世界に、色んな影響を与えられるの」
驚愕する男に、わたしは教えてあげた。
「だからわたしが、あんたに触れるようにもできる。それに、ね……」
左手で掴んだ肩を引き寄せ、再生された右の拳を、思いっきり振りかぶる。
直後、影の頭に拳骨がめり込んだ。
「がっ、はっ……」
「彼なら、わたしの【身体】も再生できるの。それで復活させた拳で、わたしがあんたを殴れるようにもできるの」
がっくりと頭をもたげた影をまた引き寄せて、再び拳を振り上げた。
「あんたは、どうかな? わたしに触れる?」
「ひぃっ!」
影は両腕を交差させ、襲い来る攻撃を防ごうとした。
わたしが振り抜いた拳骨は、立ちはだかった腕をすり抜けて。
影の頭を打ち抜いた。
「馬鹿な……そんな馬鹿な……!」
「せっかくだから、あと百発ほどいっとこうか?」
「よ、よせ! 止めろ!」
これまで自分がしてきたことを棚に上げ、影は自分勝手なことを言ってきた。
「さっき同じことを、イザベラもあんたにお願いしてたよね? あの時、あんたはどうしたかな?」
「ひっ……」
わたしは男の悲鳴を無視して、さらに十数発殴ってやった。
そうして影がぐったりして、存在が希薄になり始めたところで。
そいつを、解放してあげた。
「言っとくけど、次はないからね。今回はこれで許してあげるけど、もう一度わたし達にちょっかい出したら、絶対許さないから」
足元にうずくまった影に、わたしは冷たく言い放った。
その脅しが効いたのか、あるいは魂を消耗して自らの精神体を維持できなくなったのか。
黒き存在はその色を薄めていき。
やがて、消滅した。
ジェイクの話だと、こういう精神世界でのダメージは、簡単には治せないそうだ。
一応、気絶しそうなほどには殴っておいたから、そうそうは立ち直れないだろうと思う。
相手が完全に姿を消したことを確認してから、わたしはイザベラに目を向けた。
「さあ、わたし達の世界に帰ろう。アンジェラも待ってるから」
「でも……」
自分を縛るものがなくなってもなお、イザベラは躊躇していた。
「私のせいで、たくさんの人、怪我した。みんな、失敗した私、許してくれない」
「それは、これからのあなた次第、だと思うよ」
わたしは、自分の素直な思いを口にした。
「あなたは確かに失敗しちゃったかもしれない。でもそれは、あなたが何も知らなかったから、だよ。本当のことを知った今、もう一度、同じことをしようと思う?」
「しない。絶対に」
「それならきっと大丈夫。今の気持ちを、アンジェラやみんなに話せばいいの。そうすれば必ず、受け入れてもらえるから」
わたしはまた手を差し伸べた。
彼女に何度も拒絶された手を。
「サル ヴァルミュ。ここでなら、あなたもその意味が分かるよね。あなたは最初に、そう言えばよかったんだよ」
「は……い……」
イザベラは息を呑み、その意味を噛み締める。
そして、ついに。
勇気を振り絞って、自分の両手を差し出した。
彼女を戒める物は、もはやなかった。
鋭いとげが砕け、絡みついた蔓はバラバラに崩れ落ちた。
自由を手にしたイザベラは恐る恐るわたしの手を取り、さっき教えてあげた言霊を紡いだ。
彼女が精一杯の勇気を出して、絞り出した言霊が持つ意味は。
とても、シンプルだった。
【助けて】
力を持つその言葉を糧に、世界が変容を始める。
白い世界に眩い光が満ちて、現世への扉が開いていく。
頭上から差し込む温かな光が、怯える少女を優しく包み込む。
さあ、元の世界は、もうすぐだ。




