45.精霊界にて その1
そこには、何もなかった。
温もりをもたらすお日様も、豊かな森も大地も、緩やかに舞い踊る風もなく。
ただ白一色に塗りつぶされた世界に、わたしは一人で立っていた。
白の世界には他に誰一人としておらず、さっきまでの喧騒は嘘のように消え去り、物音ひとつしなかった。
「イザベラ」
と、呼びかけたわたしの声も、ただ空しく広がっていって、誰にも受け止められなかった。
「わたしは、知ってるよ。あなたが、そこにいるのを」
もう一度、わたしは声を出した。
ここにいる、小さな少女を探すために。
「やめて……」
という声が、耳元に聞こえた。
「お願い、です。お願い……もう、やめて……」
小さな、とても小さな声が、わたしの中へと入ってくる。
涙混じりの、すすり泣くような、悲しみの声。
風龍様と一体となった自分を止めたくて、それでも止められないのを、嘆き悲しむ声だった。
「ちょっと待ってて。すぐ行くから」
わたしは目を閉じ、その声に語り掛けた。
少女の悲しみを、少しでも和らげてあげたくて。
「……見つけた」
とわたしは言った。
声の出所を、少女の存在を感じ取れたのだ。
わたしは目を閉じたまま両手を伸ばして、その場所に近づこうと試みた。
ここは、わたし達のいる世界ではない。
物質的な肉体や、空間的な距離は意味を持たない。
精神的な願いや思いが意味を持ち、実現する場所なのだ。
やがて。
絞り出すような嗚咽が大きくなって、はっきりと聞こえるようになってきた。
少女が目の前にいることを確信し、ゆっくりと目を開けると。
手を伸ばせば届きそうな距離に、イザベラがいた。
彼女は十字に組まれた柱に、手足を磔にされていた。
拘束する漆黒の柱は少女の身体よりも太く、鋭利なとげの付いた蔓がその小さな体を、華奢な手足をがんじがらめにして、柱に縛り付けていた。
ボロボロの布切れを身にまとっただけの彼女は力なく頭を垂れ、身動き一つ取れないようだった。
「イザベラ!」
わたしが大声を上げると、下を向いていた少女の肩がピクリと動いた。
とても重そうに、苦労して顔を上げて、涙にくれた瞳をわたしの方へと向けた。
「どうして、来た、ですか?」
感情が消え去った声は、背筋が凍り付くほどに硬くて冷たかった。
「わたしはあなたを、助けに来たの。あなたを捕らえるモノから」
それに耐えて、わたしは彼女へと手を伸ばす。
傷だらけになった心と身体を、治してあげたかった。
でも……
伸ばした手は、イザベラの身体に触れなかった。
肩を素通りして、文字通り「触れなかった」のだ。
ここは、魂と精神が支配する世界だ。
今のわたしもイザベラも精神だけの存在になっていて、触れ合ったり抱き締めたりとかの肉体的な接触は不可能なのだ。
「そんなの、いらない、です」
と、手足を拘束された少女は、首を振って拒絶した。
「私ここで、死ぬ。そう決まってる」
あたかもそれが自分の運命であるかのように、イザベラは断言した。
「どうして、死ななきゃいけないの? あなたが死んじゃったら、大切な友達を守れないじゃない」
「私、失敗した。間違えた。それで大勢の人、傷付けた。だから、死なないとダメ、です」
「そんなこと気にしないでよ。やってしまった失敗なんて、わたし達と一緒に取り戻せばいいの」
わたしは軽く肩をすくめて言った。
たった一度の失敗で死ななきゃならないなら、わたしは何度死んでるというのやら……
「それは、リースさんの意見、です。みんな、きっと、そう思ってない」
「大丈夫だよ。心配しなくても、村の誰もあなたを責めたりしない」
みんなの頑張りのおかげで、最悪の事態は避けられている。
だから彼女はただ一言謝って、反省すればいいのだ。
「アンジェラだってそうだよ。あなたが帰ってきてくれるのを願ってる」
「違う。そんなはず、ない」
イザベラは、沈んだ声で言った。
「アンジェきっと、私嫌いになった」
「そんなことない。彼女はあなたを嫌ってなんかない」
「ウソ! そんなの、ウソ!」
まるで駄々をこねるように、彼女は頑なに首を振り、不自由な身体を暴れさせた。
「アンジェ、怒ってる声、私聞こえる。絶対、許さないって、言ってる、です」
とても悲しそうに、受け入れがたいことのように、小さな少女は身体を震わせる。
「落ち着いて。アンジェラがあなたを、恨んだり憎んだりするわけがないよ」
わたしはその言葉が、信じられなかった。
必死になって祈っていた少女が、危険を冒してわたしの手助けをしてくれた少女が、そんなことを言うはずがない。
「でも、本当! アンジェの声、私聞こえる!」
「分かった。それじゃあなたに、本当の声を聞かせてあげる」
わたしは、悲嘆にくれる少女に手を伸ばした。
どんな言葉も、意味がなかった。
ここは、願いと思いが意味を成す世界、なのだ。
この世界に影響を与えられる召喚術師も、すぐそばにいる。
だからわたしが、イザベラの精神に触れられれば、ジェイクが彼女の友達の祈りを届けてくれるはず、だった。
「ヤダ! 私に、触らないで!」
不自由な身を強張らせ、イザベラはわたしの手を拒む。
「怖がらなくても、いいの。あなたに、アンジェラの願いを、知って欲しいだけなの」
イザベラを刺激しないように、わたしはゆっくり、慎重に手を伸ばしていく。
指先が、彼女の額に触れる直前。
「しツコイ!」
不意に、不気味な声が湧き上がったかと思うと。
伸ばした手が、指先が。
吹き飛ばされた。
手の中で、爆弾がさく裂したみたいに。
「くうっ……!」
全身を貫いた激痛に、わたしは思わず腕を引いてしまった。
そうして胸に抱え込んだ右腕は。
肘から先が、失われていた。
(落ちついて! 大丈夫!)
わたしは、パニックになりそうな自分に言い聞かせた。
ここでは、肉体に意味はないのだ。
倒れてしまいそうなほどの激痛も、錯覚に過ぎない。
その証拠に、肘の傷口からは一滴も血がこぼれてない。
わたしは深呼吸を繰り返して自分を取り戻し、周囲の気配を探った。
イザベラではない声を上げた奴が、どこかにいるはずだった。
そいつが、わたしを攻撃したのだ。
何としてもそいつを、ここに引きずり出さなきゃならない。
「リースさン、悪いノ。ヨけイなコと、すル、カラ」
わたしを見据えるイザベラの声は、とても聞き取りにくかった。
二つの声がずれて重なり、人のものとは思えない。
「どうして? わたしはあなたの、嘘を暴きたいだけなのに……」
「ソれガ、よケいナ、コト! ナゼ、ワカラナイ!?」
わたしは耳を澄まし、低い方の声だけに集中した。
声を出す意思、その意思を持つ魂を、見つけ出すために。
(……いた!)
そいつは、イザベラの傍にいた。
少女の首に巻き付いた漆黒の影が、にじみ出るように浮かび上がってきた。
人の上半身だけの影。
イザベラの精神をなぶるように、黒き両腕で彼女の頬を、胸を、身体を引っかき回す。
少女の耳元に口を寄せ、憎しみと怨嗟を彼女の心に注ぎ込む。
そうして彼女を捕らえて、彼女の大切なものを、精霊様に捧げる贄として使っているのだ。
少女の魂が、尽きるまで。
「余計なことじゃない。あなたに不可欠なことなの。だから何度でも言ってあげる」
わたしはもう一度、今度は左手を差し出した。
目を細め、影の存在と反応を、確かめながら。
「アンジェラは、あなたの大切な友達は、今もあなたのことが大好きだよ」




