36.アレクの夢
「わたしのことはもういいのっ。今度はアレクの番だよ!」
不意に我に返ったわたしは、アレクから離れるように身を引いた。
いつの間にか身を乗り出していたらしく、肩が触れ合うような距離にまで近づいていたのだ。
それに、ちょっと話し過ぎたかもしれないと思って、色々恥ずかしくなってきていた。
自分のことを語るのは、とても勇気がいることなのだ。
「俺の、ことか?」
「うん。例えばさ……アレクにはさ、夢はないの?」
「ゆめ……か?」
「そう。何かになりたいとか、こんな仕事がしたいとか。わたしの夢は、言うまでもなく治癒術師なんだけど」
「この前は、俺の奴隷になりたいとか言ってたくせに」
「あ、あれはっ……ちょっとした気の迷いというか、出来心というかっ」
悪戯っぽい目と軽い口調で茶化されて、わたしは口を尖らせた。
あの時は嫌なことがいっぱいあって、余計なことを考えすぎてしまったのだ。
「出来心で人生を投げ出すなよ……俺は心臓が止まるかと思ったのに」
と、呆れたように呻かれて、わたしは申し訳なさでいっぱいになった。
「あれからすっごく反省したよ」
「本当か? 約束できるのか?」
今度はアレクから身を乗り出してきて、わたしの言葉を確かめるように見つめてきた。
(さっきよりも近いって!)
わたしは、心臓が跳ね上がったのを自覚した。
内心ドキドキして頬が熱くなって、目がグルグル回り始めた。
このままだと、意識がどこかに飛んでいきそうだった。
「……うん。もう二度とあんなこと言わない。何があっても、もう逃げたりしないって、決めたの」
それでも、目を逸らしそうになるのを何とかこらえて、わたしは彼を見つめ返して断言した。
そうしないと、アレクが解放してくれそうになかったのだ。
「それなら、良かった」
アレクは心底嬉しそうに破顔すると、やっとわたしから離れてくれて、あぐらをかくように座り直した。
そして夜空を見上げて、少し考えてから。
「夢……ね。今はなくしてしまったな。俺の思いは、決して叶わないと分かったから」
と、寂しそうに告げた。
「子供のころの俺は誰からも愛されてなかった。大勢の使用人や教師には囲まれていたが、彼らも仕事でそこにいるだけで、俺のことを気にかけたりはしなかった」
わたしはその告白を、黙って聞いていた。
「俺の世界は、家の中だけで完結していた。外にも出られず誰にも会わず、大きな屋敷に閉じ込められて一人で過ごしていた」
過去を語る彼の声には震えが混じっていて、とても辛そうに見えた。
目に涙を浮かべているんじゃないかと、思えるほどだった。
「それでも、自分が頑張れば何かを変えられると信じて、勉強も鍛錬も欠かさなかった。俺がゴルドニアの誰よりも賢く強くなって、国家のために力を尽くせば、俺の世界も良くなると信じていたんだ」
アレクは、とても恵まれた人だと思う。
お金持ちの家に生まれて、何一つ不自由なく生きてこられたのだ。
明日の水や食事にも事欠く人や、いつ奴隷に堕とされるのかと怯えて暮らす人がいるなんて、想像もできなかっただろう。
「そのおかげか、十五の時に祝福を受けられて、それなりの成績で学校を卒業した後は、国家警察に関わる仕事にも就けた。力なき人々を凶悪犯や魔獣の脅威から守る戦いを続けるうちに、【魔鎧】を使えるようにまでなれたんだ」
さらには神様からの祝福を授かって、世界でも数えるくらいの人しか使えない力を持っている。
しかもハンサムで立ち振る舞いは文句のつけようがなくて、誰からも……特に女性から好かれそうで、ほぼ完璧な人生のように思える、のに。
「だけど……」
なぜこんなにも、悲しそうなのだろうか。
今にも泣きだしそうな顔をしているのだろうか。
「俺の周りは何も変わらなかった。みんなは俺が持つ力だけを見ていて、俺自身を見る奴なんて現れなかった。だから……」
ずっと空を見ていたアレクはようやく、わたしに目を向けた。
その瞳に浮かぶのは。
「お前がうらやましい、な」
羨望の光、だった。
悲しそうに、苦しそうにそう告げる彼は、これまでどれだけ孤独だったのだろう……
それを思うと、わたしは胸が締め付けられるのを感じた。
息が詰まるほどの、苦痛に襲われた。
「ご、ごめんなさい。余計なことを聞いちゃって……」
とてつもなく悪いことをした気がして、わたしは急いで謝った。
謝っても謝り切れない気がして、何度も何度も、謝罪の言葉を口にした。
「いや、いいんだ。俺も誰かに聞いて欲しかったから」
アレクはゆるりと首を振り、わたしを許してくれた。
「この腕も、変わらない世界の象徴なんだ」
そう言って、白く固まった左腕を右手で握る。
「【魔鎧】を習得したころから、俺は身の危険を感じるようになった。国のためと思って動けば動くほど、俺の周りには疑心暗鬼が満ちてきたんだ」
少し落ち着きを取り戻したアレクの話に、わたしは口を挟まなかった。
胸に溜め込んだ思いは、全部吐き出した方がいいと思ったから。
「最終的に、俺を長らく庇ってくれていた大貴族が、亡くなったのがきっかけだった。主流派の貴族からの通報で、反逆の意思ありという嫌疑が俺にかけられてしまった」
彼らはたぶん、恐れているのだ。
意に沿わない人間が活躍するほど、万が一反乱された時を、最悪の事態を考えてしまうから。
「結局、俺に逮捕命令が出て、ヘクターを含む国軍が出動する騒動にまで発展した。おかげでたくさんの追手をかけられるし、所属していた部隊を離れた途端、ラングロワ病まで発症した」
その時の逃亡劇を思い出しているのか、アレクの顔が曇っていく。
「何とか包囲は切り抜けたが、数日もたたないうちに病気が進行して、この村の近くで力尽きてしまった。あの時、お前が来てくれなかったら、俺は……」
声を震わせたアレクは、それきり何も言えなくなってしまった。
彼の生きてきた時間のほとんどをかけた結果が、信じていたモノからの非難と、死をもたらす不治の病なのだ。
わたしは、なんて言ってあげたらいいのか分からなかった。
慰めの言葉は意味がない、と思う。
そもそもわたしは、優しい言葉をかけるのが下手なのだ。
それでも、泣きそうな彼を何とかしてあげたくて。
うなだれた彼の頭を、両手で抱き寄せてしまった。
父さんも母さんも、いつもわたしをこんな風に抱き締めてくれた。
辛い時や泣きそうな時も、暖かな胸に抱き寄せられれば、心穏やかになれたのだ。
だからつい、同じことを彼にもしてしまっていた。
「ああ、くそっ」
わたしの腕に包まれたまま、アレクは舌打ちをした。
「俺の方こそすまん。つまらないことをしゃべり過ぎた」
「ううん」
と、わたしは首を振った。
「あなたのことを教えてもらって、わたしも嬉しいよ」
彼は腕を無理に振り解こうとはせず、むしろわたしにもたれかかってきた。
「これから、アレクにもいいことがあるよ。きっと」
「そう……だな……そうだと、いいな」
わたしの胸の中で、アレクはやけに素直に返事をした。
「寂しい場所とはサヨナラしてさ。わたし達と一緒に、いっぱい良い思い出を作っていけばいい、と思うよ」
彼が孤独に過ごした時間は、もう巻き戻せないし、取り戻せない。
だから……
まだ見ぬ未来のことについて話そうと思った。
「う……ん」
わたしにもたれかかったまま、アレクは素直にうなずいた。
「そうすればきっと、いい人生だって思えるようになるから」
悲しい記憶を、無理に消す必要はないと思う。
これからの良い思い出で埋め尽くして、不幸を乗り越えていけばいいと思う。
「だからこれからも、お互い頑張って生きようね」
「そうする……そうするよ……」
やっぱり素直に、アレクは頷いてくれた。




