32.大切な本の取り扱い
その動きに気付いたのか、アレクも父さんの本を見た。
「その本が、そうなのか?」
「そうだよ。父さんが作った治癒魔法の理論とかが書かれた本。わたしはこれで勉強しているの」
「ちょっと、見てもいいか?」
アレクはわたしの側に来て、開かれたページを覗き込んだ。
さっきまで必死で頭を捻って、全く進めなかったページ。
そこに視線を走らせたアレクは。
「これは……イニティウム語か?」
と呟いた。
そして、まるで内容が読み取れているみたいに、書かれた文字を指先でなぞっていく。
「アレクはこれが読めるの?」
目を丸くして、わたしは聞き返した。
わたしにとっては、ただの記号の羅列にしか見えない文字が、彼には意味のある言葉として見えるのだろうか。
「魔鉱石や魔装具の理論も、イニティウム語なんだ。だから昔必死で勉強して、読むくらいはできるようになった」
そう言いながら、アレクはページをめくり、少しずつ読み進めていった。
イニティウム語は古代の、しかも異種族の言葉らしくて、読める人なんて会ったことがなかった。
わたしは父さんが作ってくれた翻訳書を片手に、苦労して読んでいるというのに、アレクはさほど苦労もせずに読み進めていた。
「この魔法は……」
とアレクは言った。
何かに気付いた風だった。
「隷従魔法と、似ている気がする」
「ほんとなの? 父さんの魔法とあんなのが似てるの?」
わたしはにわかに信じられなかった。
悪魔のような隷従魔法と、大切な治癒魔法とが似てるなんて、あり得ないと思った。
「ここに、対象となる人物の特定方法が書かれている」
アレクが指さしたページは、わたしがまだ手付かずの部分だった。
そこに書かれている文章も、やっぱり記号の塊にしか見えない。
かろうじていくつかの文字が読み取れて、記号の一部が数式の形になっているのが分かるくらいだった。
「隷従魔法は、複数のグリミナがいても、無差別にかかるんじゃない。魔法をかける人間を特定して、その人の中に、主となる人物に合わせた疑似人格を作り上げるんだ」
それは、そうかもしれない。
あの時、檻の中に五十人ものグリミナの子供たちがいたのに、ヘクターの魔法はわたしにだけかかったのだ。
隷従魔法の式の中に、個人を特定する要素が含まれているはずだった。
「その特定方法が、隷従魔法とよく似ている。対象の魂に触れて思考や属性を読み取り、その人物の因子を探ってルーツを辿り、その両方を使って誰なのかを決定付ける」
アレクは書かれている内容を理解しているのか、上気した顔で雄弁に語る。
「ごめん……全然分かんないよ……」
大変申し訳なかったけど、わたしはその熱意に応えられなかった。
人間は、魂を持っている。それは分かる。
わたしも、戦闘時には魂というべき存在から、わずかながらも魔力を引き出しているのだ。
人間は、その人を特定する因子を持っている。それも分かる。
魔鉱石の権限付与には、肉体に含まれる因子を吸い上げる必要があるのだ。
でも、魂も因子も、本質が何なのかは分からない。
理解できないモノを特定する数式なんて言われても、やっぱり理解不能だった。
「言葉で説明するよりも、見てもらった方が早いかもな」
アレクはそう言って、副木で固定された右腕を上げて。
「ちょっと、失礼するぞ」
わたしに断りを入れてから、右手で額に触れた。
瞬間、わたしの頭の中に、球状をした複雑怪奇な数式が浮かび上がった。
「これが、隷従魔法の効果を発揮する魔法式だ」
ゆっくり回転する蒼い球形の中に、絡み合った記号と文字が刻まれている。その一つ一つが光を放ち、魔法式全体が青の光に包まれている。
「この中に、個人を特定する式がある」
アレクの言葉と共に、球体の一部が赤く変色して、本体から切り抜かれて拡大された。
複数の記号が重なり合い、多層構造となった魔法式は、見たことのあるような形をしていた。
「これって……」
わたしは失神しないよう慎重に、魔力をなるべくセーブして、父さんの魔法を展開した。
隣に並べた魔法式は、8割くらいが暗黒に包まれていて、ごく一部が緑色の光を放っていた。
その、光っている部分が、私が起動できる部分なのだ。
緑に輝く球形の一部を抜き取って、青の魔法式と見比べてみると、形のイメージというか、記号の配列、並んだ記号の形、その重なり合い方、そういうのが、確かによく似ている気がした。
複雑な形状がもつ意味は、全くと言っていいほど理解できなかったけど。
「……なんて言うか、対称的な感じ……だね」
というのが、二つの魔法式を比較した、わたしの感想だった。
どちらの魔法も、魔法をかける個人を特定するところまではそっくりな形をしている。
そこから先、人の魂や肉体に作用する仕組みが、真逆のような気がする。
魔法式の形が、全体の印象が、鏡写しのように見えるのだ。
でも、よくは分からない。
わたしが思いつくのは形が似ている気がする、という程度でしかないのだ。
球体を形作る文字や記号やその配列が持つ意味も本質も、何も把握できなかった。
「そこまで見えたなら、十分だよ」
納得したアレクがわたしの額から手を放すと、頭の中の魔法式が消えた。
その向こう側にいた彼と目が合うと、わたしは。
ドキリと、心臓が跳ね上がったのを感じた。
アレクが間近で、わたしを真摯な表情で見つめていたのだ。
「なあ……」
「は、はひっ!?」
声が裏返って、変な返事になってしまった。
アレクは、そんなわたしの失態も気にせず。
「この本を、貸してもらえないか?」
真剣な顔つきで、とんでもないことを聞いてきた。
瞬間。
自分のバカさ加減に呆れてしまった。
彼は大真面目に、大切な話をしているのだ。
それなのに。
ぼうっと彼に見とれてしまったのは、わたしだけの秘密にしておこう……
「ダメだよ。これは大切なものなの。どんなに頼まれたって貸さないよ」
わたしは本を胸にかき抱き、全力で拒絶した。
別に、意地悪をしているわけじゃない。
もしもこれを失くしたら、母さんを治す手がかりがなくなってしまう。
そんな大切なものを誰かに貸すなんて、欠片も考えられなかった。
「だいたい、何に使うつもりなの?」
「知り合いの魔法学者に見てもらいたいんだ。あいつなら、俺よりはるかに内容を理解できるだろうから、きっとお前が魔法を完成させる手助けをしてくれるはずだ」
「うっ……」
わたしは言葉に詰まった。
それは……確かに、魅力的だけど。
なんでだろう。どうしても、素直に頷けない。
さっきの自分の失態が恥ずかしかったのか、「あいつ」を語るアレクの口調に違和感を覚えるのか……
「でも、だからって、その人が信用できるかどうかは別の話でしょ? この本は1冊しかないんだから、なくしたり汚されたりしたら困るの!」
「あいつは信頼できる奴だ。それは俺が保証する、って言っても」
「ダメに決まってるでしょ! わたしがその人を知らないんだから!」
「だよな……」
と、困ったように頭を掻くアレクを見かねて、わたしは妥協案を提示した。
「それなら、ここに来てもらえば? 見てもらうくらいなら別にいいから」
「それが……あいつは王都を出られないんだ。王権に軟禁されている状態だから」
いよいよなす術がないように、アレクは途方に暮れていた。
(どうしよう……)
とわたしは悩んだ。
本を貸すなんて、とてもできない。それは譲れない。
かと言って、その学者さんも王都を動けない。
魔装具カルプトで話をするくらいならできるけど、アレクやわたしが本の内容を完璧に説明できるはずもない。
結局は、直接その人に本を読んでもらうしかないのだ。
だったら……
「わたしが本を持って、王都までその人に会いに行くのは?」
「お前が、王都に?」
アレクは、信じられないという顔をしていた。
わたしも王都になんて、絶対に近づきたくない。
グリミナが王都に入れば、その日のうちに奴隷へと堕とされてしまうかもしれない。
「だって本は貸せないし、その人も外に出られないんじゃ、それしか方法がないでしょ?」
それでも、アレクの知る学者さんが本の内容を読み解けるのなら、そのリスクを冒す価値があると思うのだ。
「あいつに……お前が会うのか……」
「なんなの? その人、ヘクターみたいな奴なの?」
「そんなことはない。基本はいい奴で、グリミナにも理解がある。ただ、色々問題のある奴だから、きっと何かしでかすだろうって思ってな」
苦笑いとも思える表情を浮かべながらも、やけに親しげな口調で語るアレク。
その声を聞いているうちになんだか……
ムカムカした。
「問題って何よ。多少の暴れん坊くらい、わたしがとっちめてやるから」
「いや、そうじゃなくて、だな……あいつはせいへきに問題が……」
セイヘキって何だろうと一瞬思ったけど、頭に来ていたわたしはそこを聞き返せなかった。
「と、に、か、く! この本は貸せないの。それだけは絶対にダメッ」
「分かった……とりあえず、連絡だけは取ってみる」
頑ななわたしにしぶしぶという感じで、アレクの方が折れてくれた。
いったいぜんたい、何だっていうのか。
何が問題だって言うのか、ちっとも分からない。
それに彼の態度もだ。
わたしが王都へ行く危うさよりも、その人に会うことを気にしているみたいで。
なんだか、無性に腹立たしかった。




