31.父が遺してくれたもの
父さんの本は、とても難しい。
そもそも、ゴルドニアで話されている大陸東部の共通語ですらなく、見たこともない記号のような文字が並んでいるのだ。
そんな文字で、難解な理論とその解説が書かれているから、村での基礎的な教育を受けただけのわたしが読み解こうというのは至難の業だった。
だから、家にいる時は毎日、わたしは同じく父さんが遺してくれた手書きの辞書を傍らに、頭を抱えながら本を相手に格闘していた。
そこに書かれている内容は、魔法式の根幹を形作る基礎理論と応用展開が第一部で、式全体の概要や式を構成する各要素の持つ意味についての詳細説明、要素同士をつなげるための結節点の説明が第二部、式の起動や展開・操作など使い方そのものが第三部、という三篇から成り立っている……らしい。
最後の魔法の使い方は説明のための図も多いから、何とか読み進められたのだけど、肝心の理論の方はさっぱりで、六年かかっても大半がチンプンカンプンだった。
「うー、ダメだぁ……わかんないや……」
机の上に突っ伏して、わたしは呻いた。
魔法理論の本文の中にあるいくつかの文字が、ノートの中にないのだ。
父さんの筆跡で書かれた翻訳も、全部の言葉が載っているわけじゃない。
分からない言葉は前後の文脈から推測するしかないんだけど、そもそも難解な理論を理解しないと文脈も読み取れないのだ。
結局、朝からずっと考え続けているのに、二ページも進んでなかった。
「どーしよ……読めないよぅ」
と、泣き言を呟きながら、机に顎を乗せたまま本とにらめっこしていると。
家の扉が、ノックされた。
「はーい。開いてるよー」
わたしはだらけた姿勢のまま返事をした。
思考が煮詰まりすぎて頭が爆発しそうで、立ち上がる気力もなかった。
「なんか、倒れそうになってるな」
と言いつつ家に入って来たのは、右腕に添え木をしたアレクだった。
ダリルさんとの模擬戦闘で彼はやっぱり骨折していて、エイミーさんの治療を受けて二日、今日にも完治するかもという話だった。
「まーねー。理解できないことを理解しようとすると、こうなっちゃうのよ」
「勉強中だったなら、また後で来ようか?」
「別にいいよ。どうせ全然進んでないから」
わたしは投げやりにそう言うと、アレクに用件を聞いた。
「この薬を、貰いに来たんだ」
差し出された袋の中身は、わたしが飲むように言って渡した、ラングロワ病の丸薬だった。
袋の中を覗くと確かに空っぽで、彼が毎日欠かさず薬を飲んでいるのが分かった。
「アレクは真面目だよねー。こんな美味しくないのを毎日飲んでるなんて」
「作った本人が、それを言うのか……?」
わたしの感想を聞いて、アレクは呻きのような声を漏らした。
この丸薬、混ぜ込んでいる薬草が死ぬほど苦いのだ。
わたしも自分で飲んでみて、あまりの不味さに吐いちゃった覚えがある。
「もちろん効果は折り紙付きだよ。でもまあ……当時の患者さんたちは、ラングロワさんに文句を言うべきだったと思うよね」
「高名な治癒術師に対して意見を言える奴なんて、そうそういないだろう」
「だからこんな味になっちゃって、みんなが苦しむ羽目になってるのよ。ちょっとくらい言ってあげたらよかったのに」
わたしのぼやきを聞いたアレクは、微妙な表情を浮かべていた。
何かを言うべきかどうかを、迷っているみたいな顔だった。
「そうは言っても、だな……」
しばし時間をかけてから、彼はようやく切り出した。
「そもそもこの薬は、誰も使ってないんだ」
「……へ?」
驚きの事実を、アレクは言いずらそうに口にした。
「そ、そーなの? 割と常識じゃないの?」
「いいや。王都の治癒術師は、こんな薬は作れないし、作り方も知らないと思う」
「じゃあ、どうやって患者さんの治療をするの? ラングロワ病に治癒魔法は効かないよ」
「治療なんてしない。一応は治癒魔法をかけるが、基本は安静にして魔力を使わないようにするだけだ」
「そんなの……単に見捨ててるだけじゃない!」
無意識のうちに、声が大きくなってしまった。
魔法で治せないなら薬で、薬で治せないなら別の手で、と色んな可能性を探るのは、ヒーラーとしては当たり前だと思っていた。
そんな基本的なことさえしないなんて、自分の仕事を放棄しているのと同じじゃないか。
「それが連中の、王権の方針なんだ。彼らはあくまで、魔法による病気と怪我の克服を目指している。魔法が効かないなら、それ以上のことは何もしない」
「冗談でしょ! ってわけじゃ、ないん……だよね?」
「そうだ。だから俺は、お前にあの魔法を完成させて欲しいと思っている。それしか、ラングロワ病の患者を救う方法はない」
わたしに、母さんやアレクやアンジェラ、以外にも大勢の患者さんの命がかかっている。
その事実を聞かされて、わたしは身震いした。
責任重大だ……
「うん! 頑張るよ!」
身の内から、やる気が湧き上がってきた。
分からないとか、難しいとか弱音を吐いている場合じゃない。
「一日でも早く、魔法を完成させないと、だね」
「それにはお前の親父さんにも協力してもらって、だな……」
そこまで言ったアレクは。
わたしの意欲が、急にしぼんだのに気付いた。
「そう言えば、お前のご両親は?」
「母さんは、隣の部屋で寝てるの。父さんは、いないよ」
「いない? どこか出かけて……」
わたしが静かに首を振ると、アレクも気付いたようだった。
「……悪い。そんなつもりじゃ……」
「ううん。気にしないで」
申し訳なさそうに顔を伏せたアレクに、わたしはまた首を振った。
父さんが死んだ時は、母さんと一緒になってショックで寝込んだけど、村のみんなが色々手助けしてくれたおかげで、今ではその悲しみを乗り越えられていた。
「父さんは六年も前に死んじゃったけど、父さんとの思い出は、今でもわたしの宝物なの。貧乏でも一生懸命生きていたし、わたしをとても大切にしてくれたよ」
わたしは両手を胸に当て、過去の思い出に触れた。
父さんはとても頭がよくて、機転が利く人だったと思う。
おしゃべり好きで、難しい話や面白い話を子供だったわたしにも分かりやすく話してくれた。
わたしに勉強を教えている時も、いつの間にか話が脱線して、誰かの冒険譚になってたこともあって、母さんに怒られたこともあったっけ。
わたしは父さんの話を聞くのが大好きで、いつも新しいお話をせがんでいた気がする。
「父さんの優しさと温かさは、今でもわたしの中にあるの。だからわたしは、大丈夫だよ」
胸の内のぬくもりを感じながら話すわたしを、アレクは眩しそうに見ていた。
「お前は、両親を恨んでないのか? 生まれる前から、辛い運命が決まっていたのに」
「恨むとか、そんなの、考えたこともなかったよー」
と、わたしは言った。
生まれた時から【虜囚】であっても、父や母を憎んだことなんてなかった。
「父さんも母さんも、わたしをとっても愛してくれたもん」
それは、間違いなく断言できる。
その思い出があるから、わたしは前を向いて生きられるのだ。
「裁判で有罪になった母さんが奴隷にされそうになった時、単身で牢獄に潜入した父さんが助け出して、二人で手と手を取り合って追手を振り切ったんだって」
そして、ここで幸せに暮らしたおかげで、わたしが生まれたのだ。
「そうか……いい、ご両親だったんだな」
「うん、そうだよ。父さんと母さんはわたしの自慢なの」
常に優しく、時に厳しかった両親のことを、わたしもずっと愛している。
母さんが病気で寝たきりになって、父さんが死んだ今でも、それは決して変わらない。
「だからわたしは、父さんが遺してくれたものを受け継ぎたいと思っているの。自分自身の力で」
机の上に開かれた本を指先で撫でながら、わたしはアレクに告げた。




