2.暴れる患者への対処法
「俺に何をした!」
と、いきなり青年は叫びをあげた。
同時に跳ねるように飛び下がって、わたしとの距離を取った。
いつでも動けるように、地面につけた手足を緊張させ、あからさまに警戒した視線を向けてきた。
「わたしは、あなたを治しただけ。他には何もしてないよ?」
と、なるべく優しく、落ち着いた声で言った。
こういう反応は、前にも経験したことがあったから、そんなには驚かなかった。
これは……
三年前、家の前で倒れていた子犬と同じ、だった。
(あの子も最初はものすごく警戒していて、銀色の毛を逆立てていたっけ……)
とわたしはあの時のことを思い出していた。
大きな声で吠え立て、ちっちゃな身体を強張らせて、すぐにでも飛び掛かってきそうなくらいだった。
(あの子もケガをしていて、お腹を空かせて震えてたんだよねぇ。だけどわたしが怖くて、ひたすら吠えてたなぁ)
と、その時の思い出に浸りつつ。
「ほら、武器もこの通り、だから」
わたしは腰に差していた護身用の【炎の短剣】を、地面に放り投げた。
見た目は柄の部分に宝石がはまった小ぶりなナイフのようだけど、内蔵された魔鉱石の力を使えば、人や魔獣をたやすく両断できる。
それ以外には、武器は持ってなかった。
わたしの服装は、半袖のインナーとポケットがたくさん付いた砂色ジャケット、同色のショートパンツにひざ下までの黒いスパッツ、底の厚い編み上げブーツ。
それに小型のリュックを背負った、可愛らしさの欠片もない恰好で、おそらく旅人や駆け出し冒険者のように見えるだろう。
「わたしは、治癒術師なの。それで、あなたを、治してあげたいと思ってる」
そう言いながら立ち上がり、戦う意思がないことを示すために両手を上げた。
こういう時は、無理に近づくとダメなのだ。
まずは距離を開けて、自分が無害であることを示してあげないと噛みつかれちゃう。
「俺を治す……だと?」
身体を強張らせた臨戦態勢のまま、彼はわたしの意図を探るように言った。
「そう。首の傷とか、腕の病気とかを、だよ」
わたしは大きくうなずいて、その問いを肯定した。
彼は視線を落とし、白く染まった自分の腕を見た。次に目を上げた時には。
戸惑うような訝しむような表情がこもっていた。
彼のかすかな変化を感じ取ったわたしは。
一歩ずつ、慎重に近づいていった。
彼は表情をまた変えて、手を上げてゆっくり歩み寄るわたしを、敵意むき出しの目で睨みつけた。
緊張感をみなぎらせ、今にも襲い掛かってきそうな雰囲気だった。
だけど。
わたしには、鳶色の瞳の奥にあるものが見えた、気がした。
それは……恐怖。
傷つくことを恐れ、死ぬことに怯えて、震えているように見えた。
だから誰も近づけず、隙があれば逃げようとしているのだ。
「大丈夫……怖くないよ。わたしはあなたを傷つけたりしない」
そう言って微笑みかけて、わたしは手を伸ばした。
わたしはただ、この人を救いたかった。
どんな病人だろうと、放っておけない。
目の前で苦しんでいる人は、誰であろうと救わなければならない。
それが、治癒術師の務めなのだ。
「俺に、触るな!」
咆哮のような叫びと同時。
彼を中心として、紅蓮の炎が広がった。
伸ばしたわたしの手を、周囲の草木までをも飲み込み、自分に近づくあらゆるものを焼き尽くそうとした。
でも。
わたしの手は、無事だった。
炎にまとわりつかれ、焦げ目がついた周りの木々と異なり、やけど一つしていなかった。
右手の指輪から放たれた魔法【防護壁】が、魔法の火を完璧に防いでくれたのだ。
「なん……だと!?」
彼はびっくりしたように目を見開き、絶句した。
今の炎はたぶん、中級程度の威力があったと思う。
普通の人なら服に火が付き、身体に火傷を負って、パニックになって逃げ出すくらいはできたと思う。
でも、わたしの【防護壁】は、その程度ではびくともしない。
何しろ、上級魔法のさらに上、大魔法だって完璧に防げる魔法障壁なのだ。
父さんが作ってくれた【防壁の指輪】は、そんじょそこらの魔装具とは違うのだよ。
「お願い……落ち着いて。わたしなら、あなたを治せるから……」
「くそったれが! これならどうだっ!」
心に浮かんだ恐怖を押し殺し、彼はまた、体内の魔力を暴発させた。
今度はわたしの足元、地面をえぐるほどの爆風が生じて、周りの空気を震わせた。
さっきと、結果は同じ。
穴が開いた地面の前に、わたしは何事もなかったかのように立っていた。
「くそっ! 何なんだ、お前は!」
暴風にあおられても、全く驚かないわたしに向かって、彼は苛立たしそうに毒づいた。
「わたしは、あなたの、味方、だよ。怯えなくても、いいの。ほら……じっとして」
一言、一言、言い聞かせるように、わたしはゆっくりと話しかけて、じりじりと距離を詰めた。
彼に対する不安は、欠片もなかった。
(この人はもう、わたしを傷つけたりしない)
という、確信があったから。
さっきの爆発は、威嚇のつもりなのだ。
一発目の炎よりも明らかに威力がなくて、音と衝撃で驚かす程度のもの。
【防護壁】を使うまでもないくらいだった。
だからわたしはゆっくり、おどかさないように手を伸ばし、彼に触れられそうな距離まで近づいた。
「俺に触るなって……!」
「そんなに、怖がらないで……心配しないで。わたしは、敵じゃないから」
ちょっと早いけど、治癒魔法【再生】発動。
体内に残った魔力を絞り出し、わたしは差し出した手のひらに、ほのかな魔法の光を作った。
光の色は、薄い緑色。春に生まれた若芽のような色だった。
「……!」
自分に差し出されたその色を見て、彼は吠えるのをやめた。
思った通り、わたしの意図を察してくれたみたい。
たいていの人なら、光の色を見れば、どんな魔法を出したのかが分かるのだ。
緑系は回復魔法、赤系は攻撃魔法、青系は補助魔法というように。
そして、【再生】は緑の光の強さで、どのくらいの回復力があるのかも分かる。
わたしが出した弱々しい光は、初級に分類される強さで。
その威力は。
ちょっとした切り傷や擦り傷を治すくらいのもの。
王国の至宝と称される治癒術師が生み出す光は、眩いくらいの翠色なんだって。
その光に触れれば、切り落とされた腕だろうと生えてくるし、たとえ致命傷を負ったとしても、瞬く間に完治できる。
それを成し遂げられるのが、わたしの憧れの人、ソニアさん。
貴族でもなく、何のコネもなく、魔法の実力だけで当時の王様に認められ、自分の研究所まで作ってもらえた偉大な女性。
わたしの魔法は彼女の足元にも及ばないけど、彼にわたしの意図を伝えるには十分だったみたい。
大人しくなった彼の首に手を当てて、奇跡の力を流し込むと、今も血が流れていた首筋の切り傷がゆっくりと塞がっていった。
首の傷は出血が続いていたから、早く止めたかったのだ。
「ね? 痛くなかったでしょ?」
頭がクラクラするのを我慢して、わたしは笑顔を浮かべた。
そんな初級魔法を行使するだけでも、失神しそうなくらい辛かった。
頭が痛くて吐き気がして、手足がしびれるくらい疲れていた。
祝福を持たない自分が恨めしかった。
ほんの小さな傷一つを治すだけで、ここまで苦労しなくちゃならないのだから。
「お前……治癒術師か?」
「そうだよ。さっきそう言ったじゃん」
とわたしは口をとがらせて、彼の言葉を肯定した。
「ウッドランド村のリースと言えば、ちょっとは有名なんだから」
ふふん、と鼻を鳴らして、わたしは胸を張った。
ほんのちょっとだけど……という真実は、黙っておこう。
(患者さんには、こちらを信用してもらわないとっ)
せっかく魔法が成功したんだし、別に言う必要もないしね。
「俺は……」
と、彼は一瞬ためらってから。
「アレク、だ。家名はない」
やっと、そう名乗ってくれた。
家名、つまりは姓を持たない人も、この国にはけっこういる。
地方に住む平民はほとんどそうだ。
わたしが住んでいる村でも、ウッドランド村の誰々とか名乗ればたいていは通じてしまうから、姓を持つのは一部の人に限られる。
わたしは父さんが異国の人で、クロムウェルという家名を持っていたから、リース・クロムウェルという名前になるのだ。
「そうなんだ……よろしくね、アレク」
警戒を緩めた彼の手を少し強引に取って、わたしはブンブンと振り回した。
アレクはびっくりしていたけど、手を振り解いたりしなかったし、嫌そうなそぶりは見せなかったので、もう大丈夫だと思う。
たぶん。