18.奴隷を作る悪魔の魔法
動かせなくなったわたしの手を、ヘクターが握り締めた。
(しまった!)
と思った時には、手遅れだった。
わたしの【因子】を、見られてしまったのだ。
それを感じ取ったヘクターは口元を歪め、下品な喜びに満ち溢れた笑みを、満面に浮かび上がらせると。
「ハ、ハハハッ。フハハハハ! 貴様は、そうなのか!」
高笑いと共に、双眸を赤く輝かせた。
瞬間。
今度こそ、身体が、動かなくなった。
わたしは短剣を振り上げた姿勢のまま、一歩も動けなくなった。
まるで身体が、自分の意思から離れてしまったみたいに。
「この奴隷風情が! 調子に乗りやがって!」
ヘクターは血の混じった唾を吐き捨てると、わたしを押しのけて立ち上がった。
その動きに抵抗も反撃もできず、わたしは地面へ仰向けに倒れ込んだ。
静かになった戦場で、アレクの戦う音が、遠い世界の出来事ように聞こえていた。
身体の、力が、抜けていた。
世界が凍り付いたように冷たく、急激に体温が下がっていくのを感じる中で。
指先さえも動かせず、視線さえも動かせず、わたしは地面に横たわっていた。
ただ茫然と、赤く染まり始めた空を見上げていた。
世界が凍り付いたように冷たく、急激に体温が下がっていくのを自覚する中で。
両手足が、燃えるように熱かった。
この状態を、わたしは知っている。
見たことがある。
きっと今頃、手足には痣が浮かび上がっているはずだった。
手首と足首に巻き付く鎖の痣が。
隷属の証が。
隷従魔法を、使われ、たんだ。
体内に潜んでいた魔法式が力を発揮し、わたしを絡め取った。
生命の根源たる魂を、がんじがらめにしたのだ。
魔法の鎖を巻かれたわたしの隣に、何か別のモノが作り上げられていく。
人の形を取り始めたそいつは、わたしの体内に広がり、頭から手足まで、わたしの全てに侵食していく。
やがてそいつが身体を支配していくのを、わたしは見ているしかできなかった。
「そろそろか……? おい、お前の名は?」
地面に力なく横たわったわたしを見下ろしたヘクターが、いきなり問いかけてきた。
「リース・クロムウェルです」
あっさりと質問に答えたのは、聞き慣れたわたしの声、だった。
(勝手に答えないで!)
と叫ぼうとしても、声が出せなかった。
わたしの中にできた別の何かが、わたしの声を奪い去っているのだ。
「では、顔を見せろ」
「はい……」
わたしは言われるままに起き上がって、顔を隠していた覆面を解くと、ヘクターの顔をまっすぐ見上げた。
「ふむ……悪くはない、か」
彼はわたしの顎を掴み、好色な瞳で舐め回すように見た。
下卑た視線が突き刺さり、背筋に怖気が走る。
でも、いくら気持ち悪いと思っても、視線を逸らすことも、手を振り解くこともできなかった。
隷従魔法の力によって、わたしの中に、わたしではない別のモノが生み出されて、わたしの身体を支配しているのだから。
そいつの思考は、ただ一つ。
【ヘクター様の命令に、従わなければならない】
だからわたしの声も身体も生命さえも、わたしの全てが、ヘクターのものになっていた。
「やめろヘクター! 禁忌を犯すつもりか!?」
アレクの叫びが、はるか遠くに聞こえた。
複数の兵士と戦っている彼は、わたしを助けるどころか、近づくこともできなかった。
「何が禁忌だ! 役に立つ魔法を封印するなど、愚か者のすることだ!」
それを理解しているヘクターは余裕の笑みを浮かべ、嘲るように言い放った。
「ふざけるな! 人の魂を踏みにじる魔法を使う者こそが! 愚者そのものだ!」
「これは我が王も認めてくださっている! 反徒の血を持つ者どもと、共に生きてはいけないってな!」
「反逆者など、権力者が勝手に決めたものだ! ましてやその子供や孫に、何の罪がある!?」
「それでいいんだよ! 自分の好きなように振舞えるのが権力というものだ! 俺も陛下も、その原則に従っているだけだ!」
ヘクターは勝ち誇った笑いを浮かべながら、座り込んで動けないわたしを見下ろした。
「だからこの女も、俺の自由にできる。なあ、そうだろう?」
「はい……ヘクター様」
ふざけた質問にも、わたしは当然のように答えてしまう。
「貴様の主人は誰だ?」
「ヘクター・ベネット様です」
「その俺に対して、酷いふるまいをしてくれたよなぁ?」
「申し訳……ございません!」
わたしは慌てて地面に平伏し、忌々しい男の前で、地面に頭を擦りつけた。
(やだ! 止めてよ!)
と、いくら強く思っても、自分の身体を取り戻せなかった。
もうすでに、わたしのものではなくなっていた。
「そうだ。奴隷は奴隷らしく、地べたを這っているものなのだ」
ヘクターは見下しきった声で言い放つと、地に伏せたわたしの頭を踏みつけた。
(くっ! このっ!)
どんなに悔しくても、睨みつけたくても、足を跳ね除けてやりたくても。
身体を起こせず、視線も上げられなかった。
わたしは地面に口づけした姿勢のまま、口の中に砂の味が広がるのを、黙って感じているだけだった。
「主人に手を上げた奴隷は、どうやって罪を償えばいいと思う?」
「死ぬべきだと……存じます」
「許可する。自らを罰せよ」
「かしこまり……ました」
わたしは足をどけたヘクターの前に正座をして、地面に転がっていた【炎の短剣】を手に取った。
炎熱魔法は発動せず、刀身は鈍色のままだ。
わたしではないモノが手にしたので、魔鉱石が起動しないのだ。
「そうだ! 罪の深さを自覚するため、死ぬまで自分を切り刻め!」
まるで素晴らしいアイデアを思い付いたように、ヘクターは声を弾ませた。
(冗談じゃない! 誰がっ……!)
必死に抵抗しようとしてるのに、わたしは短剣を振り上げるのを止められなかった。
頭に響く声に拘束されたそいつが、命令通りの動きを始めていた。
煌めく短剣を頭上に掲げて、目の前にある左足に狙いを定め……
「よせヘクター! 彼女に手を出すな!」
「なあ、アレックス?」
血を吐くような叫びを上げるアレクを、ヘクターは馬鹿にしたような目で見つめた。
「お前はこの女を助けたいんだろう? だったらさっさと、ここに来たらどうだ?」
「言われなくても、すぐに行ってやるとも!」
嗤いながら挑発する男に接近を試みても、マグリット・ライフルの銃撃で素早く壁を作り上げる兵士に阻まれて、アレクは後退するしかなかった。
「できないのか? できないよなぁ? 【鎧】のないお前は、虫けらレベルだもんなぁ」
他人をあざける愉悦に浸るヘクターは、高揚感に満ちた笑みを浮かべていた。
「せいぜい、この女が死ぬ様をそこで見ていろ」
「止めろ! 彼女を離せ!」
アレクの叫びが、とても小さく聞こえる。
今のわたしには、ヘクターの声しかまともに聞こえない。
主人の声に耳を澄ませて、その指示を片時も聞き逃さないようにするために。
ふざけた命令を拒絶しようと思っても、身体が言うことを聞かなかった。
わたしのものではなくなった身体が、右腕が。
短剣を、振り下ろした。
(ああっ! ああぁぁ!)
わたしは、声にならない悲鳴を上げた。
鋭い刃が太ももに食い込み、皮膚が切れ、血が流れ、筋肉が切断された。
吐き気を催すほどの激痛が頭を貫く。
意識が遠のき、卒倒しそうになっても、わたしを支配するモノはそれを許さなかった。
自分を止めたい。
自ら足を切りつけるなんてありえない、のに。
どうにもできない。
自分の右手を止められない。
わたしは表情を変えずに、再び右腕を上げ始めた。
解放された傷口から血が噴き出て、足元を赤く染めていく。
流れ出る血を見ても、切られた苦痛を感じても、短剣を振り上げる手を止められなかった。
(助けて! 誰か! お願い!)
という声も出なかった。
わたしを助けてくれる人は、ここには誰もいない。
アレクは兵士の攻撃をかわすのがやっとで、わたしに近づけない。
檻に閉じ込められた子供たちは目を逸らし、顔を覆い、うずくまって小さくなるしかない。
他にはわたしを虐めて楽しむ男と、その忠実な部下がいるだけだ。
無力なわたしは自ら進んで、自分の命が失われるまで、自分の身体を切り刻むのだ。
わたしではない何かが、わたしの行動を、人生を、生死を決める。
それが、隷従魔法の、力だった。
「ほらほら急げよ。この女が死んでもいいのか?」
まるでゲームでも遊んでいるように、ヘクターは楽しそうに挑発する。
わたしの命を懸けたゲームをアレクに仕掛け、完璧な勝利を味わい尽くそうとしているのだ。
「このクソ野郎が! お前は絶対殺してやる!」
「はっ! 口だけじゃなく実際にやってみせろよ、アレックス!」
怨嗟の叫びを軽くあしらい、ヘクターはわたしに向き直ると。
「さあやれ! もっと急ぐのだ!」
わたしを足蹴にしながら、すぐに自殺するようけしかけた。
その……直後。
「止めろと言っているんだ!! この下衆が!!」
アレクの声が、ひときわ大きくなった。
ほとんど聞き取れないはずの声が、はっきりと聞こえた。
それがきっかけとなって。
二振り目を下ろしかけた手が、ピタリと止まった。




