1.患者を拾う
彼は、見事な行き倒れだった。
わたしが住むウッドランド村へと通じる細い街道から少し外れた草むらで、仰向けに倒れた男性を見つけた。
彼はおそらく20代前半で、少し長めの黒髪は泥にまみれて汚れていた。
見た目は、鼻筋の通った整った顔立ちをしていた。
手入れしているのかされているのか、貴族の女性のようにきめ細かな肌をしていて、今みたいに泥と砂で汚れてなければ、大勢の女性が歓声を上げてくれるんじゃないかな。
平均的な男性よりも少し背が高く、引き締まった体つきをしていた。
半袖の黒いインナーに、軍用らしき迷彩が施された長ズボンを身に着け、ごついブーツを履いているので、ゴルドニア国軍の軍人か、国家警察の警官なのかもしれない。
そして彼は、何も持っていなかった。
すでに身ぐるみはがされた後なんじゃないかと思えるくらいで、荷物もお金も食料も、水さえもなかった。
「ちょっとー。大丈夫?」
と、わたしは彼のそばにしゃがんで、声をかけてみた。
胸に手を置いて身体を揺すってみても、ちっとも反応がないので、最初は死んでいるのかと思った。
でも、手に伝わる温もりと弱々しい鼓動があり、胸もかすかに上下に動いていて、かろうじて息をしているようだった。
わたしは、本格的に彼の具合を見てみた。
首の切り傷と頬の擦過傷以外に大きな外傷はなかった。
骨折や内出血もなさそうで、怪我をして倒れているわけではないみたいだった。
だけど熱が高く、額に触れるととても熱かった。
それに呼吸が浅く速くて、かなり苦しそうに見えた。
何かの病気かな……と考えているうちに、わたしは気付いた。
左腕に、引き裂かれた布が巻かれていることに。
包帯のように巻かれた布切れもまた、泥と汗とで汚れて濡れていた。
巻き方も適当で、これじゃ止血もままならないし、何の役にも立ってなさそうだった。
わたしはひとまずそれをほどいて、腕の状態を見て。
息を、呑んだ。
彼の左腕が、白く染まっていたのだ。
慌ててシャツをめくって中を見てみると、燃え尽きた灰のような白色が、左肩のあたりから腕や肘や手首、指先に至るまで広がっていた。
(これを隠すために……)
とわたしは思った。
身体が白く染まるのは、ここゴルドニア王国に広がる、ラングロワ病という病気の特徴だった。
この病気の発症初期では、手足とかの身体の末端部分から、徐々に白く染まり始める。
灰のようになった部分は機能が停止して動かなくなり、たとえ切り落としたとしても、血が一滴も出ないのだ。
白の部位は徐々に腕や太ももへと広がり、お腹が侵されると食べ物が消化できなくなり、胸が侵されると息ができなくなって、心臓も止まってしまう。
病気の進行速度には個人差があるけど、発症者は全員、間違いなく死に至る。
その原因は、体内の魔力の減少、と言われている。
この世界のあらゆる生命は魔力を持っていて、生命の維持に欠かせない役割を果たしている。
何かの原因で魔力が枯渇すると、草木は枯れ果て、人や動物は例外なく死に絶えるのだ。
魔力は、普通に過ごしているだけでも少しずつ減少していく。
それでも、食べ物や水を摂取することで、他の栄養分と共に魔力も補給されるから、常にバランスは取れている。
ラングロワ病は、何らかの原因でそのバランスが崩れて、魔力の減少に歯止めがかからなくなった時に発症するのだ。
この病名は、最初に病気の発症原因を突き止め、対処法を確立した治癒術師ロベルト・ラングロワさんの名前から取られていた。
病気の治療法は今のところ、なかった。
そもそもの話、なぜ魔力が失われるのかまでは分からないのだ。
ラングロワさんも食事療法などの対処法で病気の進行を遅らせることに成功しただけで、根本的な原因までは突き止められなかった。
伝染するかもどうかも分からず、どうして病気になるのかもわからない。
村のお年寄りとかは、太古に滅ぼした魔王の呪いだと噂しているけど……
「大丈夫だよ。わたしが……」
とわたしは口の中で呟いた。
そう、≪今のところ≫治療法がないだけだ。
わたしは彼の左肩に手を当てて目を閉じ、頭の中に複雑な意匠を持つ魔法式を思い描いた。
これは、癒しの力。
ラングロワ病を治す力を持つ魔法。
父さんが作り上げ、わたしが改良した魔法式。
木々の枝が絡み合うような幾何学模様の中に、抽象的な多数の文字を含んだ計算式を、自分の中にある魔力を使って、編み上げていった。
頭の奥で術式が展開され、右手の中で魔法が起動に近づくごとに。
意識が遠のき、身体から力が抜けていった。
頭が割れそうなほど痛くなって、手足の感覚がなくなっていった。
いつもそうだった。
この魔法を使おうとするたびに、身体から血が絞り出される感覚に襲われ、最後までやり遂げられたことがなかった。
魔力の乏しい、自分の身体が恨めしかった。
神様からの祝福を持たないわたしは、本来は魔法を使えないのだ。
だから、この魔法を使うには、魔力が全然足りない。
今も体内の魔力を無理やり絞り出しているのだから、意識が遠のくのは当然だった。
いつかわたしも病気になるんじゃないかと心配ではあるけれど。
わたしは必ず、この魔法を使ってみせると、この病気を治してみせると決意していた。
自分の魔力不足をカバーするため、魔術式のほんの一部だけを使って、最低限の起動に必要な部分だけを作り上げていった。
魔法の威力は数十分の一になるけれど、それでも十分効果はあるはずだった。
そのおかげか、右の手のひらが熱くなり、強い緑光を放ち始め……
(もう少しで、彼を治せる!)
喜び勇んだわたしの、なけなしの魔力がどんどん減っていって。
頭痛とめまいが耐えられないくらいになったころ。
奇跡の力が、遠のいていくのを感じた。
(待って! 待ってよ!)
と、わたしは声にならない叫びをあげて、散り散りになりそうな光を手で掴んだ。
今にもこぼれ落ちそうな光を、奇跡の力をかき集め、必死になって一つの力にまとめていった。
(もう少し、あと少しだけでもっ)
と、力が抜けていく自分を励まし、遠のく意識を繋ぎとめた。
頭が痛い。
目眩がひどい。
視野がどんどん狭くなってきて、わたしまでひっくり返りそうだった。
そうして苦労して、魔力のほとんどを絞り出し、治癒の力を作り上げ。
ついに、魔法が起動した。
わたしの手の中に、確かな力があった。
柔らかな緑の光を持つそれは、間違いなく治癒の力だった。
後は自動的に、光を伴う力がわたしの右手を通じて、倒れた彼の体内へと流れ込んでいった。
やがて光が消えて、発動した魔法を全部使い切ってから。
わたしは額の汗をぬぐった。
この魔法は、まだ完璧には使いこなせてなかった。
魔力不足だけでなく、わたしの知識では、複雑な魔術式の一部しか理解できてなかった。
それでも、完治させられなくても、病状は改善できるはずだった。
(はず……なんだけどね……)
わたしは、心の中で呟いた。
治せる確信がないのは、仕方がなかった。
この魔法の起動に成功したのは、今回が初めてなのだから。
疲れ過ぎでその場にうずくまりたいのをこらえて、わたしは結果が出るのを待った。
心臓が口から飛び出るくらいに緊張した。
何しろ、この人の命がかかっているのだ。
かけた治癒術が失敗したら、彼は間違いなく死んでしまう。
そのくらい、この人は衰弱していた……と思う。
そして……
両手を胸の前で組んで祈るわたしの目の前で。
彼の熱が引き始めた。
「やっ、やったっ! できた! できたよー!」
と、わたしは一人で喜びを爆発させた。
両こぶしを握り締め、ガッツポーズをしてしまったくらいに。
白色に染まっていた彼の左腕の一部が、元の肌の色になった。
左肩は元通りになり、上腕の辺りにまで白の領域が後退していた。
完治はできなかったけど、初めての成果にしては十分だと思った。
わたしは興奮のあまり心臓がバクバクして、さっきまでの倦怠感は吹き飛んでしまった。
治せたのは、ほんのちょっとだけかもしれない。
完治には程遠いかもしれない。
でも、自分が成し遂げたことを、わたしは誇りに思った。
このまま術式の改良を続ければ、もっと手際よくできる。
魔法全体の理解が進めば、きっと上手くいく。
その手掛かりを得られたことが、本当に嬉しかった。
そうして心地よい達成感に包まれ、一人で喜ぶわたしを。
横になったままの男性が、不思議そうに見上げていた。
「あ、目が覚めた?」
「お……れ……は?」
まだ意識がはっきりしないのか、彼はかすかな声を上げた。
すぐそばにいるわたしも見えてないのか、焦点の合わない鳶色の瞳を、ゆっくりと左右に動かしていた。
彼の意識がはっきりするまでの間、わたしは自分の患者の様子をうかがった。
横になったままあたりを見回す彼は、顔に赤みが差して呼吸が落ち着いてきた。
首筋に触れるとはっきりとした鼓動があり、熱も下がったみたいで。
もう大丈夫、と思った。
彼は自分に何が起きたのかを、少しずつ、少しずつ理解していくように、身体を起こして、自分の手を見て、足を見ていた。
やがて傍らに膝をついたわたしにやっと気付いたみたいで、こっちに目を向けてきた。
「わたしはリース。リース・クロムウェルって言うの。あなたのお名前は?」
彼の不安を和らげたくて、わたしは彼に微笑みかけた。