第9話 『肉吸い』の淡い恋心
彼女は、絶対に渡すもんかとでもいうように鏡をぎゅっと抱いたまま、その鏡を手に入れた経緯を話してくれた。
『ウチは、肉吸いや。そやから、あの日も。暗い夜道を歩く人を見つけて、声かけたんや』
彼女たち肉吸いは、暗い夜道を急ぐ人の前に現れる。
その手には火の灯っていない提灯を持っていて、『火を貸してくれませんか』と頼むのだ。相手がそれに応じて火を貸そうとすると、その隙に相手の提灯を取り上げて暗闇の中で相手に喰らいつき、肉を吸い取るのだという。
それを聞いて、僕はかなりドン引いていた。もしかして……いやもしかしなくて、かなりやばいあやかしだろ、これ。
いまはアカガネがそばにいてくれるから僕も平気な顔をしていられるけど、もし暗い夜道で一人で出くわしたらと思うと身震いしそうだった。
きっと引いているのが顔に出ていたんだろう。
肉吸いは僕の腕をガッと掴んできた。
「ひ、ひえっ……」
『ウチ、断じて人間に危害加えたりしてへんっ。ウチが吸うんは、その人のいらない部分。病気のとことか、悪くなってもう治らん部分とか、そういうとこだけなんや。ほんま、信じてや!』
「わかったから……お願い、離して」
怖いからっ。いくら綺麗な女性でも髪振り乱したまま縋られると怖いから!
アカガネに着物の裾を引っ張られて肉吸いは我に返ると、すとんとその場に正座した。胸には相変わらず大事そうにあの鏡を抱いている。
『でも、最近は誰も提灯なんて使わへんし。だからもう何年も、何十年も……上手くいったことなんてなかったんや。それでもウチはそういうあやかしやから。半ば諦めつつも暗い夜道を一人で歩く人間をみつけたら、声をかけんではおられんのや』
正座したまま、ぽつりぽつりと肉吸いは話し続ける。
『そやけど、あの晩な。こっからちょっと行ったところの林のそばで、帰りを急ぐその人を見かけたんや。アンタよりもう少し年嵩の、ええ男やった』
肉吸いはその日も、きっと火なんて貸してもらえないだろうと半ば諦めつつも、彼に声をかけたのだそうだ。『火ィ貸してくれませんか』って。
『したら、その人がな。ええですよ、言うて、胸ポケットから出した火ィつける道具でシュッて提灯に火を灯してくれたんや。ウチなんやもう感激してしもてな。肉吸うのも忘れてたんや。そしたらその人が、ウチの顔見てな』
肉吸いの声は弾む。
その男の人が、「ああ、頬に汚れがついてんで。きれいな顔が台無しや」と笑って、その鏡をカバンから取り出し渡してくれたのだそうだ。そのくだりを話すときには真っ白だった肉吸いの頬がうっすら赤みを帯びていた。
『ウチな。もう、嬉しいやら感激するやらで泣きそうになってしもてな。あの人、それじゃ言うてすぐに行ってしまいそうやったんで、ウチ慌てて鏡返そうとしたんや。そしたら、それは今度会えた時に返してくれたらええで、言うて』
肉吸いは愛おしそうに鏡の蓋を撫でる。
『ウチ、礼も言わんと、ただその人が去っていくのを見送るしかできひんかった。そやからほんまは、この鏡かて返さなあかんってわかってんねんけど。……どうしても手放せんくて。今日も川原で鏡眺めながら、どないしよって迷ってたらうっかり川に鏡を落として流されてしもたんや』
そう言って肩を落とす肉吸いの姿は、どこからどう見ても恋する乙女だった。
そのあと肉吸いは、
『話、聞ぃてくれて、ありがとな』
と、はにかむように笑って立ち上がると、ぺこりと一度頭を下げて川原を歩いて去っていった。
いつの間にか空は赤やけに染まりつつある。ずいぶん長い時間ここで話を聞いていたようだ。
「さよならー。その人にまた会えるといいですねー」
そう言って手を振ると、肉吸いはこちらを振り向いてもう一度ペコリとお辞儀をし、夜になりかけた黄昏の薄闇の中へと消えていった。
「今度会ったら、その男。あの肉吸いに肉を吸われるのではないか?」
アカガネに言われて、ハッと思い出す。そうだった、肉吸いは肉を吸うあやかしだった。
「……でも、身体の悪い部分しか吸わないって言ってたし。大丈夫じゃないかな……」
「そうかもしれんな。さて俺らも戻るとするか。それでお前の家はどこにあるんだ」
「それがさ。僕、家ないんだよね」
「……なんと、根無し草だったか」
アカガネに憐みの目を向けられてしまう。
「違うよ。もとは東京に住んでたけど家は引き払って、今はシェアハウスってとこを借りて住んでるの。来てみりゃわかるって。こっからバスですぐのとこだからさ」
「バスか。それなら、この大きさでもまだ不便だな」
そう言うとアカガネはその場でくるんと一回転する。地面に着地したときには、子犬くらいのサイズになっていた。こうなると、外見も子犬……いや子狼っぽくて可愛い。ぬいぐるみみたいだ。
「ほれ。これなら邪魔にはなるまい?」
ちょこんとお座りしてちっちゃな胸を張るアカガネを両手で抱き上げる。
「ずいぶん便利な身体してるんだな、お前」
そうしてバスに乗っている間中、アカガネは僕の膝の上で丸まっていた。
翌日は、月曜日だったので僕はシェアハウスの自室の机にノートパソコンを広げて、一日中仕事に明け暮れていた。
アカガネはというと、普通の狼サイズに戻ったあと、呑気に縁側で昼寝したりしていたっけ。
アカガネには神様から受けた神命とかいうやるべきことがあるんじゃなかったっけか?と思ったりもしたけれど、どのみち神饌は僕がいないと持ち歩きできない。だから、僕の仕事が休みであやかし探しに付き合えるときだけ付き合ってもらえればいいのだとアカガネは言っていた。
彼らあやかしの寿命は人間よりもはるかに長いらしく、時間の感覚自体が人間とはずいぶん違うようだ。
そして、平日は自室で仕事をして過ごし、一週間が過ぎた。ここ数日は雨続きだ。
その日は日が暮れる前に仕事が一区切りついたので、僕は近所のスーパーに今晩の夕食の材料を買いに出ることにした。アカガネも誘ってみたけれど、濡れたくないといってついては来なかった。
傘をさすとシェアハウスを出て、オーナーの川中さんちの敷地を歩いていく。税理士事務所の明かりがぼんやりと薄闇の中に光っていた。
川中さんとは顔を合わせたときに挨拶するくらいしか接点はないけれど、いつも遅くまで事務所に明かりがついているところを見ると仕事は忙しそう。
そんなことを考えながら門を出てスーパーのある方へと足を向けたそのときだった。
僕は、ぎょっとして足を止める。
川中さんちの家の塀のはしに、雨の中、傘もささずにじっと佇んでいる女性がいたんだ。
街灯から少し離れて、塀の内側を見ている女性。
その顔には見覚えがあった。まだ鮮明に記憶に残っていたから、間違えるはずもない。
あの肉吸いだ。