第8話 川原で泣く女
赤福本店で念願の作り立て赤福を食べられて、満足した気分で番茶をすすっていたときだった。
目の前にある五十鈴川の川岸で、キラリと何か光るものが見えた気がした。
え? なんだろう?
靴を履いて庭の端にまで行くと柵に身を乗り出し、そちらに目を凝らす。
すると、川原の近くでキラリともう一度何かが光ったんだ。
「どうした?」
アカガネもトンと座敷から降りると、こちらに歩いてきて柵に前脚をのせ、一緒になって川を眺める。
「いや、なんか今光った気がしたんだ。この神饌の輝きに似てた気がしたから、もしかして拾い忘れたのが川を流れてたのかなって思って」
「まだ、回収もれがあったか?」
「ちょっと、見てくる」
赤福本店の裏には勝手口があって、そこが出口にもなっている。僕は勝手口から外に出るとコンクリートの階段を下って堤防へ降り、さらに草むらを踏み分けて川原へと降りて行った。
川原は石がゴロゴロしていて歩きにくいけれど、転ばないように気を付けながらさっき何かが光った場所を探す。その横に、トンとアカガネが軽い足音を立てて着地した。赤福本店の敷地内から柵を飛び越え一跳びにここまで跳んできたらしい。
「たしかこの辺りだったんだけど……」
きょろきょろと辺りを見回すけれど、近くにくると光らなくなってしまった。もしかして何かの見間違いだったのかなと思いかけたとき、川原から一メートルほどの川の中、大き目な石がゴロゴロしているあたりでもう一度光った。
そちらに近寄って目を凝らすと、石に何か黒いものがひっかかっているのが見える。
そのときにはもう光り方からして、これは神饌じゃないなと分かっていた。たぶんあれは、神饌のようにそれ自身が発光しているわけじゃなくて、太陽の光を反射しているだけのようだったから。なので、角度によって見えたり見えなかったりする。けれど、それはそれで何が太陽光を強く反射させていたのかが気にかかる。
川岸から身を乗り出してそちらに手を伸ばしてみると、ぎりぎり指先がその黒いものに触れた。
あ、取れそう。そう思ったとき、バランスを崩して危うく川の水の中に落っこちそうになった。
だけど、川の水に身体がつく寸前に何かにシャツを引っ張られて川岸へと引き戻される。振り向くと、アカガネが僕のシャツを咥えていた。
「あ。ありがとう」
「それで、何が光っていたんだ?」
「これ」
アカガネに手に持っていたものを見せる。それは、四角い形の手の平ほどの大きさの鏡だった。ぱたんと蓋ができるタイプの携帯用鏡で、全体的に黒っぽい。
残念。神饌じゃなかったね。この鏡、せっかく拾ったけどどうしよう。そう思って辺りに視線を巡らせたとき、向かいの川岸をバタバタと慌ただしく走ってくる人影が目に入ってぎょっとしてしまう。
それは、二十歳前後とおぼしき若い女性のようだった。だけど時代劇の庶民役エキストラのような地味な色合いの着物を着ていて、長い髪を振り乱して走ってくる。
彼女は対岸までくると、乱れた髪の隙間から眼をぎょろっとこちらに向けて叫んだのだ。
『返してや。大事なものやねん。そやから、返してっ!』
突然目の前に現れた女の異様な姿に、ぽかんとしてしまう。
『それ』って……この携帯用鏡のことか?
これのこと?と声を出そうとしたけど、それよりも先にアカガネの低い声が僕の声を遮った。
「気をつけろ。あれはあやかしだぞ」
「え、え!? そうなの!?」
アカガネは僕を見て、やれやれと嘆息する。
「言っただろう。お前は人間のくせに神饌に触れたからあやかしの類が視えるのだと。こっちが視えるということは、あっちもこっちを強く認識できるということだ。現にほかの人間からはあの娘は視えておらん」
確かに、川の堤防にはジョギングしている人の姿もちらほら見えるのに、自分たち以外に彼女の存在に気付いた人はいないようだった。
そうこうしている間に、対岸の着物姿の女性は着物が濡れるのも気にせず川に入ってじゃばじゃばとこちらに向かって来る。
その鬼気迫る姿に、薄気味悪い怖さを覚えて僕は数歩後ずさった。
「どうしよう。逃げたほうがいいのかな」
「いまさらもう遅いだろうな。人間の遅い足で逃げられるものでもないだろ。ほら、来るぞ」
アカガネの言う通り、もう例の女は川をほとんど渡り終えてこちら岸に到達しようとしていた。
近くに来るとますますその容姿の異様さに目が離せなくなってしまう。
とりあえず彼女の目的がこの鏡にあることはわかったので、僕はその場に手に持っていた鏡をそっと置くと、さらに数歩後ろに下がった。
すると、彼女はまるで獣のようにその鏡に飛びついて拾い上げる。
そして、ぎゅっと大事そうに胸に抱くと、ハラハラと大粒の涙を流し始めたのだった。
その様子を見ていると、このあやかしが危ないものではないような気もしてくる。
あやかしとはいえ泣いている女性を川原に置き去りにするのもなんとなく気が引けるし。
どうしようとアカガネを見ると、アカガネは興味なさそうに大あくびをしていた。
お前、あやかしを助けるのが神命だってさっき言ってなかったか?
まぁ、いいや。アカガネが呑気にしているところをみると、さほど危ないあやかしというわけではないのだろう。そう判断して、僕は彼女に話しかけた。
「あの……」
声をかけると、泣きはらしていた彼女が顔を上げる。
自分で声をかけておきながら一瞬びくっとしてしまったけれど、よく見ると格好が異様だっていうだけでその姿は人となんら変わらない。むしろ、顔立ちはとても整っていた。
身づくろいをキチンとすればきっと息をのむような美人に視えることだろう。
「その鏡、たまたまそこで拾っただけなんです。なので、アナタのものなんでしたらお返しします」
そう伝えると、彼女は嬉しそうに顔を輝かせて、ぺこりと深くお辞儀をした。
そこにアカガネが低い声で威圧するように言葉を重ねる。
「それは人間の使うものだな。しかもまだ新しい。なぜお前のようなあやかしが持っている? 人間から奪ったのか?」
すると、彼女はぎゅっと鏡を胸に抱いたまま、乱れた髪をさらに乱れさせて首を激しく横に振った。
『違う! ウチが盗んだんちゃう! これは……借りたんや。そやから、大事なもんなんや』
必死に言う彼女に、アカガネは嫌な笑みを浮かべてなおも言う。
「お前、この辺りに出るという『肉吸い』だろう。肉吸いは、夜道を行く人間に火を貸してくれと言って近づき、その肉を吸うあやかしだ。その鏡も、そうやって肉を吸った人間から奪ったものだろ?」
「え、ええっ……肉を吸う……!?」
アカガネの言葉に驚いて、つい変な声を出してしまった。
なんだその、吸血鬼よりもさらに物騒なあやかし。この目の前の女性がそうだとは、ちょっとすぐには信じられなかった。でも、アカガネが呑気にしているからと勝手に相手が危険のない存在だと判断した自分の考えの甘さを内心後悔する。
アカガネにとっては取るに足らない相手だったとしても、人間である僕にとってはそうとは限らない。あやかしに接するときはもっと注意しないと……そう改めて思った。
でも、肉吸いだと言われた彼女はなおも激しく首を横に振る。
『たしかにウチは『肉吸い』や。そやけど! ちがうねん! この鏡は、そうやって盗ったんとちがう!』