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第32話 荒れ狂う川


 雨は数日降り続いていたが次第に激しさを増し、ついにはとんでもない雨量にまでなっていた。


 まるでバケツをひっくり返したような雨が続き、普段呑気な僕ですら、そろそろ避難したほうがいいのかもしれないと思いはじめる。


 なのにこのとき僕は、パソコンの上に突っ伏して居眠りをしてしまった。昨晩、屋根をたたく雨音が大きくてあまり寝れていなかったせいもあっただろうけど、それにしてもいままでに経験したことがないような唐突な眠気だった。


 どれくらい経ったのだろう、スマホから流れる嫌な警告音でハッと目を覚まし、手に握ったままだったスマホの画面を見る。


 スマホに表示されたメールには、赤い縁取りで大きく大雨特別警報と書かれていた。そして立て続けに今度は自治体から避難勧告のメールが届いて、僕の眠気はすっかり冷めた。時計を見ると、眠っていたのはほんの十分ほどだったみたいだ。


 窓の外では、目の前の飛騨川はごうごうと激流のような速さで流れていく。茶色い濁流が川の淵から溢れんばかりになっていた。


「やばいな、これ……」


 すぐにスマホで近隣の天候情報を調べた。


 雨量レーダーによると、僕たちがいる飛騨地方は極めて高い雨量を示す真っ赤な帯にすっぽり入っている。


 この大雨の原因は、日本列島に横たわり続けている梅雨前線だ。

 そこにさらに、今年の異常に高い海水温が追い打ちをかけていた。


 観測史上稀に見るほどのあたたかな近海の海水が次々と積乱雲を作り続けていて、それが梅雨前線に沿って集まってくる。その積乱雲のできるスピードが速すぎて、特にこの飛騨・木曽地方に記録的な降雨をもたらしていた。


 そのとき、ドンドンドンと部屋のドアを強くたたかれる。

 出てみると、作業着を着た若い男性だった。彼は、ここのシェアハウスを管理している管理会社のバッジを胸につけていて、ドアを開けたとたん緊迫した面持ちで早口にまくしたてた。


「この地区に避難勧告が出ています。いますぐ、高台にある下呂交流会館に避難してください。そこが避難場所になっています」


「小学校とか中学校ではないんですか?」


 ふと、そんなことを尋ねると、


「どちらも川沿いなんです。川が氾濫した場合にはどちらも浸水する危険があって、とにかく高台へ避難するよう指示が出ています」


 そっか。飛騨川が氾濫する可能性が高いから、川から遠くて高い場所にある避難場所に行かなきゃならないんだ。


「わかりました。すぐ出ま……」


 と、そう言いかけたところで、僕はふと気がついた。


 アカガネはいまも部屋で呑気に寝ている。でも……ミナシはどこに行った?

 僕はすぐに部屋の中を見回してみたけれど、うたた寝する前までアカガネのそばにいたはずのミナシの姿がどこにもない。


 管理会社の男性は、車で避難場所まで送るから早くしてほしいと急かしてくる。


「すみません。僕、ちょっと用事を思い出したので、先に行っていてください」


 そう返すと、彼はなおも食い下がってきた。


「もういつどこが決壊するかわからないんですよ!? いくら二階とはいえ、危険です!」


「わかってます。必ずあとから追いかけますから」


 ミナシのことがどうしても気になった。管理会社の人には一緒にくるようにとかなり粘られたけれど、彼も最後は折れて、「必ず来てくださいね!」と念を押して去って行った。僕と押し問答する時間ももったいないと思ったのだろう。


 彼は、すぐにほかの居住者たちを車に乗せると避難所へ向かったようだった。


 さて、ミナシをみつけて僕もすぐに避難しなきゃ。


 窓から見える川は、いつものあの穏やかな姿とは一変している。今にも牙をむいてきそうなほどゴウゴウと不気味な音を立てながら水位を増しつつあった。もう川の堤防を水が越えるまでにいくばくも猶予がなさそうだ。


「ミナシー! どこに行ったんだ!? アカガネ、ミナシがどこに行ったのかしらないか?」


「ん? 寝てて気づかなかった……いや、寝るつもりなんかなかったんだが……なんでだか唐突に睡魔が……」


 アカガネがそう呟いたことで、僕たちはハッと目を見合わせた。

 そうだ。僕もこんな非常事態なのに、緊急メールに起こされるまでうたた寝してしまっていた。


 アカガネだって、いつもは寝ていてもちょっとした物音ですぐに目を覚ます。こんなにぐっすり眠りこけるなんて珍しかった。

 だから、もしかしてミナシが僕たちに何かをしたんじゃないかと思い当たった。


「あいつ、何か妙な術を使って俺たちを眠らせやがったな」


 アカガネも同じことを思ったようだ。

 でもなんのために? そんなのわかりきっていた。きっと、ミナシの行動を僕たちが止めると思ったからにちがいない。


「ミナシ……もしかして、川を見に? ……いや、川を守りに行ったのか!?」


 彼の父親がそうしたように、彼もまた飛騨川を守るために行ったんだろうか。でも、彼の父親は力を使い果たして、消えてしまったのだとミナシは言っていた。


 もし、同じことをしようとしているんだったら、今度はミナシの身に危険が及ぶ。

 僕はデスクの脇にかけてあったボディバッグをつかむと、部屋を飛び出した。


「おい! どこに行くんだ!」


 後ろからアカガネの声が追いかけてくる。僕は靴を履きながら振り向いて声を上げた。


「ミナシを探しにいく! せめて、神饌(しんせん)を食べさせれば、少しは助けになると思うんだ!」


 家の外に出ると、傘なんてもう何の役にも立たなかった。ゴウと吹いた強い風に、僕の折りたたみ傘なんてあっという間に壊されてしまったからだ。シェアハウスの玄関の中に傘を放り捨てて、危険だと思いながらも飛騨川の堤防まで出てみた。


 川の水はまるで生き物のように、今にも街を飲み込みそうな勢いで流れ続けている。


「ミナシー! どこだ! いるなら、返事してくれー!」


 どれだけ叫んでも、僕の声はむなしく雨音にかき消されてしまう。

 ミナシがどこにいるのかわからない。でも僕の視線は自然と川の上流の方に向いていた。もし川を守りに行ったとしたなら、ミナシはあっちの方角に行ったように思えた。


 上流は、雨で煙ってよく見えない。


 とりあえず近くのバス停に行ってみたけれど、バスは当分来そうになかった。そもそもすでに運休になっている可能性も高い。


 せめて、途中でタクシーでも捕まえられないかと今度は257号線まで出てみたけれど、タクシーどころかほとんど車は通っていなかった。たまに通りがかる車は避難場所へ向かっているようだ。


「くそっ……」


 自分の見込みの甘さを呪いたくなる。どうやってこの大きな飛騨川のどこかにいるミナシを探すっていうんだ? そもそも、なんでこうなることを予想していなかった? 予期していればあらかじめ神饌を渡しておくことだってできたのに。


 そのとき、茶色い大きなものが走ってきて僕の目の前で止まった。


 雨に濡れた顔を上げると、そこにいたのは最大サイズまで大きくなったアカガネだった。


「お前は、人間のくせになぜそうも無茶をする。なぜ、他の人間たちと同じように避難場所とやらに行かない?」


 アカガネは淡々とした声で、さも不思議そうに聞いてきた。


「だって……このままじゃミナシまで危ないじゃないか!」


「それだって、お前に関係ないことだろう。お前はあやかしではないし、そもそもこの土地の人間ですらない」


 言われてみればそうなのだ。僕は単なる旅行者だ。ほんの一時的にこの地にとどまっているだけの人間だ。……だけど。


「ミナシとはもう友達だ! あやかしか人間かなんて、関係ない! 僕はミナシを放っておけない!」


 それが素直な気持ちだった。あんなに心やさしくて物静かな龍の子ミナシ。でも、川を、この土地の人たちを想う気持の強さゆえに無茶をするかもしれないあの子を、放っておくことなんてできなかった。


「神やあやかしを助けるのは俺の神命だ。しかしつくづく、まるでお前こそが神命を負っているようだな。妙な奴め」


 そんなこと言われても、自分でもバカだとは思ってる。一刻も早く避難しないと僕自身の身だって危ないのに、それでもなおミナシのことを見ないフリなんてできなかった。


「お前は以前、何事にも執着できないタチだと嘆いていたが、俺からみたらそれは違うな。お前は、自分が好いた相手には人一倍執着が強いのよ。だが執着は往々にして毒となる。だからお前は、執着しすぎて自分が傷つくまえに、自ら身を引いていただけだ。それがどうした? 自分の建前をやめたのか?」


 アカガネはどこかバカにしたようにも、真面目にも取れる口調で聞いてくる。

 そうなのかもしれない。思い当たる節はいくつもある。でも。


「ミナシやあやかしたちは、真っ直ぐに人のことを想ってくれる。なら、僕も人としてちゃんと向き合いたいって……そう想うようになったからかもしれない」


 それが僕の今の偽らない気持ちだった。


「そうか。あやかしどもの気に当てられたか」


 アカガネはにやりと不敵に笑うと、脚を負って身をかがめる。


「ほら、乗れ。俺なら、たとえ川の水が溢れたとてその上を渡っていける」


「う、うんっ」


 アカガネの背に上ってその首元にまたがると、アカガネはゆっくりと立ち上がる。


「振り落とされぬよう、しっかりとつかまっていろよ」


「わかった」


 すぐにアカガネは走り出した。ふりしきる雨の中を矢のように疾駆する。

 僕は落とされないように彼の毛にしがみつくので精いっぱいだった。





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