第31話 龍神のなやみ
僕の頭の上にのっかって、龍の子は目を輝かせながら龍神火祭りの龍みこしを楽しんでいた。
「お前、龍の子ってことは、もしかしてこの祭りの由来になった伝説とも関係あるの?」
気になってそう尋ねてみると、龍の子はうんうんと頷く。
『そうです。ボクの父様がそのまた父様から聞いたって言ってたです』
へぇ、龍の一族なのか。
「今日は一人で来たの? お父さんとかお母さんは?」
もしかしたらこの祭り会場のどこかに、もっと巨大な大人の龍がいるんじゃないかと想像してそう聞いてみたのだが、龍の子はそれまではしゃいでいた空気を急にしゅんとすぼませた。
『いまはもう、ボク一人しかいないです』
ボクの頭にしがみつくようにして、ぼそりと言う龍の子。
そっか、もういまは一人ぼっちになってしまったのか。だから、ほかの龍たちが恋しくてこの祭りを見に来たのかな。そう思うと、悪いことを聞いてしまったなと申し訳なくなった。
その後、龍神火祭りは滞りなく進んで、観衆と担い手たちの熱狂のなか大盛況のうちに終わりを迎える。でも、そのころにはぽつりぽつりと、大粒の雨が空から降り始めていた。
実は今年はまだ梅雨が明けていない。七月もぐずぐずと雨が多く、ついに八月になっても梅雨は続いていた。だからいまもまだ梅雨前線は日本列島の上に横たわったままだ。
ここ数日、前線が若干北上した関係で雨は止み薄曇りの日が続いていたけれど、また前線が戻ってきたようで降り出した。
明日も雨なら、明日以降の祭りはどうなるんだろう。最終日の花火大会もぜひ見たかったんだけどな。
今日の祭りが終わって駅のほうに流れ始めていた人々の足が、雨を受けて早くなる。
僕たちは電車に乗る必要はないから人の流れとは逆方向に、飛騨川を川下に向かって歩いていけばいいわけだけど。
僕がバッグの中から折り畳み傘を取り出していると、
『終わってしまいましたね……』
川の柵の上にちょこんと座った龍の子が、駅へと足早に急ぐ人たちを眺めながらつぶやくのが聞こえた。
その声があまりに寂しそうで、こちらまで胸が苦しくなってくる。そのまま放ってはおくのは忍びなかった。だからつい、言ってしまったんだ。
「もしよかったら、僕んちに来ない? たぶん1、2か月しかここにはいないと思うけど、その間ならいつでも遊びに来てくれて構わないよ?」
そんなことを申し出てみると龍の子は、
『ほんとですか!? ボク、いてもお邪魔にならないですか?』
びっくりしたように目をまん丸くする。
「うん。平日の明るいうちは僕は仕事してるけど、そんときはアカガネに遊んでもらえばいいし」
「俺は別に遊んでるわけじゃないぞ」
すかさず、不満げにアカガネが返してくる。
「お前、ほとんど一日中ごろごろしてんだろ」
実際本当に、ゴロゴロしてるからね、こいつ。たまにふらっと一人で外に行くことはあるけど。
『ほんとに。ほんとですかっ!? 遊びに行ってもいいですか!? あ、ありがとうございますっ』
龍の子はぺこぺこと何度も頭をさげる。
「そこまで感謝されると逆に恐縮しちゃうけど、……そういえば、君はなんて名前なの?」
ずっと龍の子と呼ぶわけにもいかないから名を尋ねると、龍の子は「うーん」と長い首を傾げた。
『いろんな名前があるですが、……そうですね、「ミナシ」って呼んでください』
ミナシ……漢字で書くと水無なのかな。
「わかった。じゃあ、雨が強くなってきたし、ミナシも一緒に来る?」
そう尋ねると、ミナシは満面の笑顔で、
『あいっ!』
と、元気よく答えた。
というわけで、変わった連れがもう一人、いやもう一匹できちゃった。
そろそろ雨も本降りになりつつある。折り畳み傘を開くと、ミナシは僕の頭にのっかって、ついでにアカガネまで子狼サイズになって僕の背中にしがみつてきた。
いや、たしかにこうすればみんな雨に濡れないけどさ。
お前らあやかしだろ??? 濡れても平気じゃないの???
と思ったけど、アカガネは濡れると生臭くなるので仕方なくそのまま帰ることにした。
雨はその次の日も、その次の日も降り続き、祭りはしばらく延期になった。
『雨、なかなか止まないですね』
雨だれの伝う窓から外をのぞきながら、ミナシがもう何度目かわからないため息をついた。
ノートパソコンに向かっていた僕は、顔を上げて窓に目を向ける。ガラスにはいくつも雨の筋ができていて曇りガラスでもないのに外が見えないくらいだった。
「しばらく雨は続くって予報にはあったよ。前線がずっと居座り続けてて、なかなか北上しないんだってさ」
本来ならこの時期、梅雨前線は北海道や朝鮮半島へ北上して消滅し、本州はカラッとした夏の暑さに覆われるはずなのだ。
でも今年の夏はまだ雨続き。ここ近年は例のないくらいの梅雨明けの遅さだ。
しかもしとしと雨ではなく、結構な勢いで雨は降り続いている。
ミナシは眉間にきゅっと小さなシワを寄せて、家の前を流れている飛騨川を見つめていた。隣に行って窓を開けてみる。
「……ずいぶん、水位が上がってきているな」
普段それほど深さのない飛騨川が、今は茶色い水がごうごうと勢いよく流れている。水嵩も随分増しているようだ。
その川の水を、ミナシはずっと心配そうに見つめていた。
「やっぱり龍は、川と関係あるんだ?」
龍といえば、川を守る守護神として祀られることも多い存在だから、もしかして?と思って尋ねてみる。
でも、ミナシはゆるゆると首を小さく横に振った。
『昔は、この川もボクたちの一族が見守っていました。でも、今はもう……護岸工事にダムに……川を管理しているのは人間です。父様は川を統べる者は龍から人に移ったのだ、とそう言ってました』
「そっか……」
たしかに、河川は行政の手がガッチリ入って管理されている。洪水などにならないように護岸工事を行う治水、飲み水やかんが用水、発電などに利用する利水、そして水源地を含めた環境整備。水源地から河口まであらゆる部分に人の手が入っているのだ。
そこにはもう、あやかしや神様が介在する隙はないのかもしれない。
「なら、もう川を見るのなど止めればいい」
背中越しにアカガネの呑気な声が聞こえてくる。
暇に飽かして床にころんと転り、ひっくり返って自分の尻尾で遊んでいたアカガネ。
「……心の底から暇そうだね、お前」
「本当は山に狩りにでも行こうと思っていたが、こうも雨が降るとな」
「……一応聞いておくけど、その狩ってきた鳥だか動物だかは、どうするんだ?」
「もちろん、お前が捌いて今夜の晩飯にするに決まっているんだろう」
コロンと態勢を戻して、当然のように言うアカガネ。こいつはきっと、晩飯の足しになるのだからありがたいだろう? くらいに思っているに違いない。
「僕、魚くらいなら捌けるけど、それ以外の生き物捌くのは無理だからね?」
「魚も鳥もたいして変わらんだろ」
アカガネは、ぐいーんと気持ちよさそうに伸びをしながら何でもないことのように言う。
「大違いだよ」
「なんだ、軟弱ものめ」
「だったら、お前が捌けばいいだろ?」
そんないつもの僕とアカガネのやりとりを、ミナシはくすくすと笑って見ていた。そして、川が気になる気持ちを振り切るように、窓を閉めた。
『そうですね……気にしても仕方ないですよね。ボクにはどうすることもできないことなのに。ボクの父様は……洪水を止めようとして力尽きたんです』
小さなミナシが、聞き漏らしそうなほど小さな声でそう漏らした。
そういえば前にもミナシは、もうここに残っている龍は自分一人だけだと言っていたっけ。でも、そんな理由で家族を失っていたなんて、想像もしていなかった。
ミナシは顔を上げて、弱く笑う。
『父様が荒れ狂う川を守ろうとして出ていくとき、言いのこして行ったんです。お前は決して私のようになるな、と。ミナシ一族最後の生き残りなのだから、生きて末永く里の人たちを見守り続けろ、って……』
「そっか……」
それ以上の言葉が出なかった。
この下呂の、そして飛騨の地を守り続けた龍の一族。
彼らのことを今も人々は龍神火祭りのような形で祀り続けている。そして龍も里を見守り続ける。そんな関係がこれからもずっと続けばいいと、そう願うばかりだった。
ミナシはまだ心残りのようだったけれど、ようやく張り付いていた窓の前から離れてアカガネと一緒におやつを食べ始めた。
その姿を見て、少し僕もホッとする。
雨は、いつまでも激しく降り続いていた。