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第26話 雨の中の訪問者

 次の日は、ハンゲの言う通り大雨になった。

 天気予報によるとこれから数日は雨が続くようだ。


 仕事をしていたノートパソコンのディスプレイから顔を上げて、部屋の中に渡した洗濯紐にほかの洗濯物と一緒に提げられている神袋へと目を向ける。


 海水でぐっしょり濡れてしまった神袋だったけど、どうにかすっかり乾いたみたいだ。本当は洗濯機に入れて洗濯したかったが、神饌を取り出しても取り出してもすぐに袋の中が神饌でいっぱいになってしまうので諦めた。

 ほかの洗濯物は、まだじっとりと湿り気を帯びている。


 この梅雨の最後の大雨ともいうべき時期が過ぎれば、きっと梅雨明けのカラッとした暑さがやってくるのだろうけど。

 でも今日は雨のせいか、しとしとじめじめ。そのうえ、心なしかひんやりと肌寒い。


「しばらく雨、続きそうだな。昨日買い出しに行っておいて良かった」


「俺の牛乳を買い忘れたがな」


 ベッドの上で丸くなっているアカガネが、目も開けずにぽつりとそんな文句を口にする。牛乳がないと、アカガネの好きな甘ったるいカフェオレが作れないのだ。


「冷蔵庫にまだあると思ってたんだよ。それくらいならあとで駅前のコンビニまで買いに行ってやるってば。毎日飲んでるんだから、一日くらいなくったっていいだろ?」


 軽く腕を上げて伸びをしてから、再びディスプレイに目を戻す。さて、昼までにこの仕事終わらせなきゃな。そう思ったときだった。


 キャーーーーーーーー!!!!!


 突然、女性の叫び声のようなものが耳に飛び込んできて思わず立ち上がる。


「な、何!?」


 アカガネも顔を上げ、ピンと立てた耳を壁の方に向けていた。


「隣の部屋からのようだな」


「森岡さんとこ!?」


 急いで僕は隣の部屋へと向かった。そして、102号室のドアを強くノックする。


「森岡さん! どうしたんですか!?」


 何度叩いても中からの返事はない。でも、ドア越しにバタバタという激しい物音が聞こえてきた。森岡さんが室内にいることは間違いなさそうだ。


「失礼しますっ」


 一応そう声をかけてからドアノブを引くと、カギはかかっていなかったようであっさりと開いた。


「森岡さんっ、どうしたんですか!?」


 大きくドアを開けて部屋の中を覗くと、真っ先に目に飛び込んできたのは腰を抜かしたように床に倒れこんだ森岡さんの背中だった。


 そして、彼女が見ている先。

 開いた吐き出し窓の向こうには、この家の庭がある。

 そこに一人の女性が立っていた。


 激しい雨の中、たたずむ女性。うつむき加減だったその女性が顔を上げた瞬間、僕も息をのむ。

 その女性は、森岡さんと同じ顔をしていた。


「ドッペルゲンガー!? なんでこんなとこまで……!?」


 すると、するりと僕の後ろから部屋に入ってきたアカガネが、森岡さんのベッドの上にひょいっと飛び乗って言った。


「ほぉ。これはアレだな。おそらく、お前が昨日海で落とした神饌を食ったのよ」


「神饌を?」


「ああ。だから、力を増してしまったんだ。雨に乗じてこんな陸地にまでやってくるほどにな。もしやとは思っておったが、目の前にして確信した。これはドッペルゲンガーなんて西洋のもんじゃない。この地に古くからいるものだ。お前もこの前、あの海女小屋で聞いただろう?」


「海女小屋で……」


 あのとき、僕は何を聞いたんだ? 海女小屋の水谷さんは、何を話していた?

 そうだ、海女の話だ。海女さんたちが恐れているという海の魔物の話……。


 森岡さんをそのまま写し取ったような同じ顔、同じ服装をしたそのあやかしは、うっすらと笑みを浮かべて森岡さんのことを見ていた。

 そして一歩一歩こちらに近づいてくる。


 森岡さんは「ひっ……」と口から小さな悲鳴を漏らして腰の抜けたまま後ずさろうとした。けれど、恐怖からか手足がてんでばらばらな動きになってしまって逃げだすこともできないようだ。


 森岡さんの姿をしたあやかしは窓の直ぐ前まで来て立ち止まると、ゆっくりと口を開けた。


『ツライ……ナンデ、ワタシバカリ、ツライ、シゴトガオワラナイ、ヤスミタイ、ナンデ…』


 森岡さんと同じ声。だけど抑揚の薄い機械音声のように同じ言葉が繰り返される。

 その様子を見ていて、僕はようやく思い出した。


 水谷さんの話の中に出てきたそのあやかしの名前。そして、このあやかしが何をしようとしているのかも。

 それは、心身の限界を超えた過酷な労働を行う海女さんの前に現れるという。

 彼女たちに、もうやすめ、海からあがれ。と、警告するために現れるソレ。


「ひっ……来ないで。来ないで!!!」


 森岡さんは手当たり次第に周りにあるものを、そのあやかしに向かって投げ始めた。しかし狙いが定まらず、窓に当たって跳ね返るだけ。

 僕は、彼女の腕をそっと掴んだ。


「な、何するんですかっ!?」


 抗議の目で僕を振り仰ぐ森岡さん。僕はできるだけ冷静な声で彼女に話しかける。


「このあやかしが、何なのかわかりました。何をしようとしているのかも」


 しかし、彼女はそんなことよりも今はもう恐怖が先に立ってしまっているようだった。僕の手を強く振り払おうとする。


「な、なんでもいいから、追い出してくださいっ!」


 あまり強く握ってしまうと彼女の手をひねってしまうおそれがあったので、僕は彼女から手を離す。でも、これだけは聞かずにはいられなかった。ずっと、心の中でわだかまっていたんだ。


「その前に、一つ教えてください。森岡さん。あなたはなぜ海に行ったんですか? それも恐ろしいコレと出くわしても、さらに何度も」


「そ、それは……」


 さっきまでの勢いが急に鳴りを潜め、森岡さんは口ごもるとあからさまに視線を泳がせた。


 そりゃ言えないだろうな。

 たぶんだけど。彼女は死にに行ったんだ。

 誰にも見られない深夜の海に身を投げようとしていた。それほどまでに追い詰められていた。だから……こいつが出てきたんだ。


「このあやかしの名は、トモカヅキ。海女さんたちに最も恐れられた存在であり、……その反面、海女さんたちを守る存在でもあったんです」


「トモカヅキ……?」


「はい。海女さんの方が教えてくれました。この地域に古くから出るあやかしだって。冬でも海に長時間潜る海女の仕事は、とても過酷なものなのだそうです。そして体力の限界を迎えそうになっている海女さんの前に、このトモカヅキは海女と同じ姿をして現れるんです」


 森岡さんの姿をしたトモカヅキは、時折うわ言のように同じセリフを吐き出しながら、こちらをただジッと見つめている。


「海女さんたちが限界を超えて仕事をすることがないように、それ以上もう海に潜らないように。そうやって海女さんたちに警告するために出てくるあやかしなんです。トモカヅキが出ると、近隣の村々も含めてしばらく海女漁はやめるそうです。いまは、そこまで過酷な働き方をする人はいないのかもしれませんが。だから、トモカヅキの出番はもうなくなっていたのかも。でも……このトモカヅキは海辺で見つけたんですよ。今にも死んでしまいそうなほど精魂尽き果てたあなたを。だから、見捨ててはおけなかったんじゃないでしょうか」


「じゃあ、なんですか!? こいつは、私のために私を怖がらせて、私の前に何度も何度も出てきたっていうんですか!? 冗談じゃない!!」


 森岡さんは僕にくってかかると、何度も僕の胸を両こぶしで叩いてきた。でも、ちっとも痛くないんだ。それほどまでに、彼女は弱っていたんだと思うと何だか逆にいたたまれなくなってくる。


「少し仕事を休んでみたらどうですか? 夜中もずっと仕事してて、ほとんど寝てないですよね? 僕もリモートで仕事してるからわかります。家で仕事をしていると際限なく残業できてしまうから、気を付けていないとどんどんプライベートの時間が仕事に食われてしまう」


 しかし、森岡さんはいやいやをするように激しく首を横に振った。


「そんなこと、できるわけないじゃないですか! ようやくプロジェクトマネージャーになれたんです……ここで頑張らないと、私は……。でも……部下もできて、その部下たちのミスや残したところは私がやらないとチーム全体の成績が……」


 そうやって抱え込みすぎたあげく、心身の調子を崩して、ついには海に身を投げたくなるほど追い詰められてしまった。そういうことらしい。


「森岡さん。このトモカヅキを海に戻すことなら僕でもできるかもしれない。だけど、君の仕事を代わってあげることはできません。それは、君自身が会社と交渉しなきゃならないことだから。それも仕事のうち、なんじゃないでしょうか」


 部外者の僕にそんなこと言われたくないだろうけど。

 森岡さんは頑なに何度も首を横に振る。できない、そんなこと、絶対できないとうわ言のようにつぶやく。その声は、さっきのトモカヅキの言葉にそっくりだった。


 と、そのとき。

 庭にいたトモカヅキが突然上を向くと、


「ヒューーーーーーーー」


 口笛のような高く鋭い声を上げた。それと同時にバンと音を立てて、開いていた吐き出し窓が勝手に閉まる。トモカヅキの姿もいつの間にか掻き消えていた。


 後で調べてわかったことだけど、その声は磯笛と呼ばれるもので、海中から上がってきた海女さんたちが出す声と同じものだったんだ。


 そしてその瞬間から、このシェアハウスは外から完全に切り離された。

 電話もインターネットもまったく使えなくなり、僕たちは家の外に出ることすらできなくなってしまう。

 降りしきる大雨が、まるでこの家にいる僕たちだけを下界から隔絶したみたいだった。


「やられたな。結界を張られたぞ」


 そう言って、アカガネは愉快そうに笑うのだった。



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