第25話 神袋を取り返せ
神袋を掴んだトンビは海の上を飛んでいく。
まずい、どうしよう。
おろおろと焦るばかりで、どうすればいいのか見当もつかない。だって、相手は上空。しかも海の上をどんどん飛んでいってしまうんだから。
すると、ハンゲがのっそりと杖を掲げた。
「なに。心配するでない」
どうするんだろうと思っていると、ハンゲは杖をエイっと投げ飛ばした。
すると杖は老人が投げたとは思えない高速でビュンと風切り音をあげながら、飛び去って行くトンビへと真っ直ぐに向かっていく。
そしてすぐにトンビに追いつくと、脚につかまれていた神袋に勢いよく当たった。
突然の飛来物に驚いたトンビは、神袋から脚を離す。
神袋と杖は重力に任せて落下し、トポンと海へ落ちた。
それを見てアカガネは、
「ったく。仕方ないな」
むくむくと成獣サイズになると、海岸沿いのコンクリート壁を乗り越えて海へと飛び降りた。
「アカガネ!?」
アカガネまで海に落ちたのかとコンクリート壁に駆け寄って下を眺める。だけど、アカガネは沈むことなく水面を軽やかに走っていた。
そういえば、初めて会ったときもアイツは五十鈴川の水面に座っていたっけ。
そうしてアカガネは神袋が落ちたところまでたどり着き、キツネが獲物を仕留めるときのように大きく飛び上がって海中に飛び込んだ。しばらくして浮かんできたときには、口にあの神袋を咥えていた。それと、波間に漂っていた杖も口で拾い上げたら海岸まで戻ってくる。
「あ、ありがとう。アカガネ」
アカガネは僕の前で口にくわえていた杖と神袋をボトッと地面に落とした。
神袋はぐっしょりと濡れている。おまけに、袋の口が開いたままだ。
「もしかして、神饌がいくつか海に落ちたかな……。それに他の神饌も濡れちゃったかも」
神袋の中を見てみると、袋の口が開いていたにもかかわらず中は相変わらず神饌でパンパンになっていた。ただ、やっぱり海水はかぶってしまっているようで神饌の表面がテラテラと濡れているのがわかる。
「いくつか海に落ちただろうが、神饌は足りなくなれば勝手に補充される。海水に濡れたところで、多少塩っ辛くなるだけで問題はなかろうよ」
とアカガネが身体を震わせて水を切りながら言うので、そいうものなのかと納得しておいた。とりあえず、もう盗られないように袋の口をきつく締めるとボディバッグの中へ締まった。あとで部屋に戻ったら陰干ししとこう。
「ハンゲさんも、ありがとうございます。助かりました」
ぺこりとお辞儀をすると、ハンゲは相変わらずほっほっほと愉快そうに身体を揺らして笑った。
「なに、ワシも久しぶりにあのような力が出せたよ。これも、おぬしらのおかげだ。さて、そろそろワシも行こうかの。次の土地を巡らにゃならん」
そのころにはもうアカガネはすっかり身体の毛に含んだ海水を飛ばし終えていた。再び子狼サイズに戻ると、ちょこんと僕の横にお座りしてハンゲを見送る。
「達者でな」
「おぬしもな、アカガネ。それに……えっと、なんていうのかの、アカガネの飼い主よ」
ハンゲはしわくちゃのやさしげな瞳で僕に尋ねてきた。
「あ、えっと。直樹です。古谷直樹」
隣ではアカガネが、「俺の飼い主じゃなくて、俺の眷属だっつの」とムクれているがハンゲは取り合わず、うんうんと大きくうなずいた。
「良い名じゃ。アカガネ、それに直樹とやら。おぬしらに幸多からんことを祈っとるよ」
そう唱えるように言うと、来た時と同じようにハンゲは唐突にその場から姿を消した。
まるで風に乗ってのどこかに飛んでいってしまったかのように、強い潮風が海から吹き付けてくる。
「ハンゲさんもお元気でー!」
口元に手を当てて叫んだら、どこからか「ほっほっほ」というあの笑い声が聞こえてきたような、そんな気がした。
さてと。ハンゲとの出会いで忘れそうになってたけど、僕の目的は森岡さんがドッペルゲンガーを見たという現場を調べることだった。
「でも、ドッペルゲンガーなんて本当にいるのかな」
海と海岸との間には僕の胸元ぐらいの高さの防波壁が続いている。その壁に沿って延びる海岸沿いの道は、たまにジョギングや散歩をする人とすれ違うくらいで、それほど人通りがあるわけでもない。
「さあな。ただ、何かしらのあやかしが関与してるのは間違いないだろうな。もしくはあの女の妄想か」
「うん……そうなんだよね」
森岡さんはいつも自室に籠りっきりで、深夜もずっとパソコンに向かっているようだった。朝夕夜かかわらず、絶え間ないキーボードの音が壁越しに聞こえてくる日も少なくない。そんな日々を送っていて、傍目にも彼女はかなり精神的に追い詰められているようにも見えた。
だから、ドッペルゲンガーを見たというのも、彼女の精神的な何かからくる妄想だという線は十分ありえるのだ。
とはいえ、それを経験した本人にとっては、それが妄想からくるものにしろ、実際に何かを見たにしろ、どちらにしたって本物の恐怖を感じたことに違いはない。
「でもさ。そんな怖い目に何回もあっているのに、彼女はなぜ何度も海に行ったんだろう」
僕も気分転換や散歩のために海まで来ることはよくある。
でも、そんな怖い目に立て続けにあっていて、彼女はなぜそれでもなお海まで来ようと思ったのか。それが、なんだかずっと腑に落ちなかった。
「海でどうしてもやりたいことがあったんじゃないか?」
「あの人が、……海でどうしてもやりたいこと?」
花火とか、釣りとかそういう楽しいことならいいんだけど。なんとなく、モヤモヤと心の中に浮かんできたのはそれとは真逆の想像だった。
その考えを振り払うように僕は首を横に振る。
結局、辺りをしばらく散策してみたけれど、ドッペルゲンガーの手掛かりになるようなものは何一つ見つからなかった。