第22話 突然の……
その日の深夜。
自室で寝ていた僕は、暑苦しさを覚えて目を覚ました。
なんだか部屋が蒸し暑い。寝るときタイマー運転にしていたエアコンは、もうとっくに止まっている。枕元に置いたスマホで時間を確認すると、夜中の四時近くだった。
のどの渇きを覚えて、足元で丸まって寝ているアカガネを起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
寝る前に冷蔵庫に入れておいたペットボトルのお茶がもう冷えているはず。
そう思ってキッチンへと歩いていくと、隣の102号室のドアが少し開いているのが見えた。
廊下にドアの隙間から薄い光が漏れて筋になっている。
いくらなんでもこんな夜中に部屋のカギをかけないのは不用心じゃないかな。閉めておいてあげようか。でも余計なお世話かな。
そう一瞬迷ってドアの前で立ち止まったとき、室内からカタカタカタとキーボードをたたく音が聞こえてきた。
え、まだ起きて仕事してるの?
つい気になって、ドアの隙間から森岡さんの室内を覗いてしまう。
暗い部屋の中で、ぼんやりと森岡さんのものとおぼしき背中が浮かび上がっていた。部屋の照明はついておらず、デスクライトとノートパソコンがぼんやりと部屋の中を照らしている。森岡さんは昨日の朝に見たのと同じシャツで、パソコンに向かっていた。
その姿にどこか薄ら怖さを感じる。背中からは生気が感じられず、何かに取り憑かれたかのように無心にキーボードをたたく姿が、なんだか亡霊がそこに座っているようにも見えたからだ。
なんとなく見ちゃいけないものを見た気がして、僕はドアを閉めることもできずそっと自分の部屋に戻った。
それからは特に何事もなく数日が過ぎた。そろそろ七夕だけど、ここ数年ずっと七月七日は曇り。ここは東京と違ってものすごく沢山の星が空に輝いているから、七夕の日も晴れたらいいなとは思うけど。まだ梅雨が明けないこともあって、ぐずついた天気の日も多かった。
でも、平日は基本的に買い出しくらいしか外に出ずに自室で仕事をしているので、天気が悪くてもあまり関係ないけどね。
山田さんたちは天気が悪い日が続くとなかなかサーフィンに行けないって愚痴っていたけれど、隣の部屋の森岡さんは相変わらず部屋にずっと籠りっきりで共用スペースでもあまり顔を合わせることはなかった。でもたまに見かける彼女は、日に日に顔つきがやつれて行っているようにも見えて、少し気にはなっていた。
そんな日常を送っていたある日。
久しぶりに雨があがったので、梅雨の切れ間に僕は庭でスニーカーを洗うことにした。
備え付けの青いタライを貸してもらったので、ついでにアカガネも洗うことにしよう。あやかしとはいえ、毎日僕のベッドの上で寝ているんだから少しでもきれいにしたいもんね。
庭にタライを出すと、散水用のホースで水を溜めた。
今日はシェアハウスには僕以外誰もいないようだったから、周りに気兼ねすることなくアカガネを呼ぶ。
「ほら。準備できたぞ。ペット用のシャンプーも買ってきたし」
でも、アカガネはタライの前でお座りしたまま、気乗りしない様子でタライの水を眺めている。
「俺はペットじゃない」
「じゃあ、人間用のシャンプー使うか?」
「……どっちでも、たいして変わらん。とにかく。俺は洗わんからな」
そう言うとアカガネはくるりと向きを変えてその場から逃げ出そうとした。
そうはさせるもんか。
「逃がすかっ。お前最近、雨に濡れたせいでちょくちょく生臭いだろ!?」
両手で飛びつくようにしてアカガネの身体を抑えると、アカガネは急にむくむくと身体を大きくしてシェアハウスの屋根にも頭が届くほどの最大サイズになり、僕に凄んでくる。
「洗わんと言っているだろう」
「ずるいぞ! でかくなるなんて! それじゃ、シャンプーがいくらあっても足らないだろ!? 洗わないんだったら、もうベッドにあがらせないからな!?」
巨大になったアカガネを見上げてそう強めの口調で言うと、アカガネはその黒く大きな瞳で僕をジッと僕を見つめ返してくる。そして、
「……仕方ないな」
しゅるしゅるとまたあの子狼サイズへと戻ってくれた。
お前、そんなにベッドで寝るの好きなの?
まぁ、いいや。アカガネがその気になっているうちに洗っちゃおう。
小さくなったアカガネを抱えてタライの中へと入れる。
「せめて湯ならいいのに」
「贅沢言うなよ。暑いから、水風呂も気持ちいいだろ?」
そもそも散水ホースも陽気で温まっていたから、タライに溜めた水もほとんどぬるま湯に近い。
タライの中に入ったアカガネの頭からホースでじゃばーっと水をかけると、犬用シャンプーを赤い毛の上に垂らして手で泡立てる。シャンプーのボトルにはかわいらしい犬の写真と、ノミよけ成分入りの文字がでかでかと書かれていた。
そういえば、アカガネにもノミっているんだろうか。いたとしても、あやかしのノミだったりして?
そんなことを思いながらアワアワになったアカガネを洗っていたら、ギィっと門が開く音が聞こえてきた。次いで、シェアハウスのドアが乱暴に開けられて、バタバタと室内に入っていく足音がする。
誰か帰ってきたのかな?
手を止めて顔をあげたとき、102号室の掃き出し窓に森岡さんの顔が見えた。
帰ってきたのは彼女だったんだ。
森岡さんは窓のカーテンを急いで閉めようとしていたようだったけど、庭にいる僕に気づくとその手を止めて窓越しにジッとこちらを凝視してくる。
ジッとみられるのは居心地が悪くて。僕は手についた泡を落としながら立ち上がって、軽く会釈する。
すると彼女はバッと窓を開けると裸足のまま飛び出してきて、僕の前で突然しゃがみこむと、わっと声をあげて泣き出したんだ。
「え……え!? ちょ……森岡さんっ!?」
一瞬何が起こったのかわからなかった。
咄嗟に彼女の肩に触れようと手を伸ばすものの、手が濡れていたことを思い出して慌てて自分のズボンで拭う。
森岡さんは泣きながらもずっとウワゴトのように、
「……怖い……怖い……」
と繰り返していた。その身体は小刻みに震えているようだ。
どうしよう。どうすればいいの!?
突然のことに頭の中は真っ白。
すると、タライの中で泡だらけになっているアカガネが、
「お前、俺の知らない間にその女子に手でも出してたのか?」
なんて茶化すもんだから、
「んなわけないだろっ」
つい、そう荒く言い捨ててしまった。その声に、森岡さんはびくっと驚いたように身体をびくつかせると泣きはらした顔で僕を見上げる。
「ご、ごめんなさい……ご迷惑、ですよね……」
震える声で、顔をくしゃりと歪めて謝る森岡さん。
「え、あ、ご、ごめん。こっちこそ、急に大きな声出して。いまのは、その、君に言ったわけじゃないから。ほんと……ごめん」
彼女に言ったわけじゃなかったけど、彼女にはアカガネは視えないんだから勘違いされるのは当然だ。
彼女は何かに怯えているようだった。その彼女をさらに怖がらせるようなことをしてしまって、もうひたすらに申し訳なかった。
「あ、あのさ。……何か、あったの? 話くらいなら聞くけど」
そのお詫びというわけでもないけどそう彼女に告げると、森岡さんの目には見る見る涙がたまって顔は真っ赤になり、
「う……っわあああああああああっ」
再び顔を両手で覆うと、我慢していたものがついにあふれ出したとでもいうようにさらに激しく声を上げて泣き出してしまった。