第21話 海女さんたちを守るもの
新鮮でおいしい海産物に夢中で舌鼓を打っていると、海女の水谷さんがトングで貝やエビを次々に焼きながら海女の仕事について話してくれた。
ここ三重県相差は日本で一番海女さんの多い町なんだそうで、この町だけで150人ちかい海女さんがいるとのこと。三重県全体では1000人ほど。全国で2000人近い女性がいまも海女さんをされているのだそうだ。
海女さんというのは、身体一つに簡単な道具のみで海に素もぐりし、アワビやサザエといった海産物を採ることを生業にする女性のことをいう。
ここ三重では古くからそうやって生計を立てる女性が多くいて、現在は県の無形文化財にもなっているのだそうだ。
この店で提供されている貝も海女さんたちが採ったものらしい。
僕は水泳は一通りできるけれど、海で泳ぐのは苦手。プールと違って波や渦もあるし、ちょっと油断するとすぐに塩辛い海水が鼻や口に入ってくるし。
そんな海で素潜りをして貝を採ってくるだなんて、なんてタフな仕事なんだろう。
そんな話を聞いている最中も、おいしい貝やエビを目の前にしてどんどん箸は進む。僕の隣ではアカガネがぺたんとお座りして口を開けて待っているので、水谷さんや山田さんたちの視線が逸れた隙に、さっとアカガネの口に貝の身を放り込んでやった。
「生も良いが、焼くと香ばしさが増すな」
なんて言いながら、目を細めてアカガネは美味しそうに味わって食べている。いつもなら、ペロッと一のみにしちゃうのにね。
「そういえば、ここの入り口に石の置物があったやろ。あれ、見なさった?」
そう言って水谷さんがトングで入り口の方を示した。
みんなの視線がそちらに向く。
あ、ほんとだ。入口の所に白くて丸い、人の頭ほどの大きさの石が置いてある。上部は取っ手のように穴が開けられていた。
「あれは、石イカリ言うて、昔、海女が潜るときに少しでも早く海底に着けるように、手にもって潜ったもんなんよ」
「へぇ。ちょっと持ってみてもいいっすか?」
と興味津々の山田さんが言うと、水谷さんは快くOKしてくれた。
「ええよええよ。ただ、石やから重いで。気をつけてな」
「へへ。大丈夫っすよ。俺これでも、毎日ダンベルやってますから」
戸口の方へ軽快な足取りで歩いていくと、山田さんは石イカリの穴を掴んで持ち上げた。
「お……思ったより重い、これ。ほら、持ってみ?」
隣で見ていた長澤さんに渡すものの、
「え、……わ、ほんまや重いわ」
女性の長澤さんは両腕で抱きかかえるようにして持つのがやっとのようだった。
「ほら、古谷くんも持ってみ?」
リレーのバトンのように回ってくる石イカリ。
僕も山田さんと同じように穴に手を入れて持ってみようとしたけど、
「うわっ」
片手では厳しくて、すぐに両手で持ってしまった。こんな重いものを女性が持って海に潜るの!? もうそれだけで信じられない気持ちだった。僕だったら絶対無理だ。
「ひとつ十五キロほどあるんよ。今はもう使てへんけどな。そのかわり、今は『この家には海女がいます』いう看板代わりに使ったりするんや」
石イカリはざらっとしたさわり心地で、その表面には星のマークと、縦線横線を格子状に組み合わせた不思議なマークが彫られていた。
僕は石イカリを元の場所にそっと戻して席に帰りながら、水谷さんにそのマークのことを尋ねてみる。
「ああ、それはな。魔除けやねん」
「魔除け???」
意外な答えに、つい素っ頓狂な声をあげてしまう。
水谷さんは、トングでイセエビを丁寧に焼きながら笑顔で教えてくれた。
「そうや。星の方がセーマン、格子状の方がドーマン言うてな。セーマンの方は一筆書きで魔物が入る余地がないから、ドーマンの方は目が多いから魔物を見張る意味があるらしくて昔から魔除けに使われる印なんよ。ほら、私らの磯着にもついてるやろ?」
そう言って、水谷さんは頭にかぶせた白頭巾を見せてくれた。そこには確かに、赤い刺繍糸で星と格子状のマークが縫われている。
「海の中にはいろいろな魔物がおるって言われてるんや。チクチク刺してくるサンショビラシや、尻から肝を抜いてしまうシリコボシ、海の亡霊のヒキモーレンとかな。その中でも特に恐れられてたんはトモカヅキや。海女の姿で現れてこっちへ来いと誘ったり、アワビを差し出してきたりすんねん」
そう言いながら水谷さんは僕の皿に、焼きアワビを殻ごとぽんと乗せてくれた。
「うっかりトモカヅキの誘いに乗ると、命が奪われるっちゅうてな。トモカヅキが出たら、しばらくは近隣の村々どこもかしこもしばらく漁に出るのを辞めるくらいなんやで。昔、それでも怖がる海女の妻を無理に海に潜らせた旦那がおってな。その海女は可哀そうに、二度と海から上がってこなかったそうや」
「うわ、ひっっどい旦那」
なんて言いながら、長澤さんは隣の山田さんをちらっと見る。その視線に気づいて、山田さんが慌てて、
「お、俺そんなことせーへんで!?」
なんて返すので、
「当たり前や。そんなことしたら、私が海に蹴落としたるわ」
長澤さんは鼻息荒く返すと、すぐにアハハと笑い出した。自然と僕たちにも笑いが広がる。
「トモカヅキは、昔の過酷な長時間の水中労働で海女たちが見た幻覚だったんじゃないか、とも言われとるんよ。そういうときは休んで身体をいたわらないかん言う教訓やったんやろな。でも、怖いんは海の中の魔物だけやない。冷えも大敵やってんで」
水谷さんは囲炉裏に炭を足して、弱まりかけていた火を強くする。
「ずっと冷たい海の中におるやろ? 夏はまだええけど、春先や秋口超えたら海から上がるとどんどん身体が冷えてしまう。そやから、こういう海女小屋を作って火を焚いて、海から上がってきた海女たちが身体をあたためたんや」
この店はその海女小屋を模して造られているのだという。
海女の漁は毎年三月から十二月頃まで続けられるそうで、いくら温暖な三重の地とはいっても冬場は相当寒いのだろう。そういう海女の人たちの苦労を思うと、目の前のアワビがいままで以上にありがたいものに思えてきた。
いや、そもそもアワビなんてめったに食べれるものじゃないから、こんな新鮮なアワビをいただけるなんてありがたいことこの上ないんだけどね。
そうやって海女の水谷さんにいろいろな話を聞きながら、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。最後のウニご飯を食べたらもうおなかいっぱい。
お会計を済ませて水谷さんにお礼を言うと、海女さんたちの笑顔に見送られて店を後にする。
車を止めた駐車場まで戻ってきたところで、
「さて、このあとどないする? まっすぐ帰ってもええけど」
山田さんが車に乗り込みながら言うと、すぐに長澤さんが、
「せっかくここまで来たんやから、あそこ行きたい。石神さん」
と、即答した。
「石神さん、ですか?」
後部座席にアカガネとともに乗り込みながら僕が返すと、助手席の長澤さんが座席を掴んで振り返る。
「人の名前ちゃうよ。神社の名前。女性の願いを必ずひとつは叶えてくれるっちゅうありがたい神社なんや」
女性の願い……男性の願いは叶えてもらえないんだろうか……。
なんて思っていると車は走り出し、すぐにその神社へと着いた。
鳥居には、神明神社とある。石神さんはここの境内の一角にあるらしい。
先に歩いていく山田さんたちについて参道を歩いていく。女性の願いを叶える神様が祀られているのだから女性の参拝客が多いのかなと思っていたけれど、男性の姿も多く見かけた。どうやらここはかなり人気のある神社みたいで、観光客らしきグループもちらほら見かける。
神明神社の本殿でお参りを済ませると、同じ境内に祀られている石神さまのところへ向かった。
立派な石造りの手水舎で手を清めたあと、山田さんたちは鳥居の向かいにあるテーブルの方へと歩いていき、そこに置かれたピンク色の紙を一枚手に取った。
これは祈祷用紙というもので、ここに一つだけ願いを書くのだそうだ。
男の僕が書いていいものなのか迷ったけれど、山田さんも何か書いていたので僕も一枚祈祷用紙をもらってみた。でも、何を書いたらいいのかわからない。
迷っていたら、山田さんが僕の方に自分が書いた祈祷用紙をちらっと見せてくれる。そこには、
『結婚資金が溜まりますように』
とあった。
小声で、「金貯めて新婚旅行にオーストラリア行きたいねん。ゴールドコーストでサーフィンして、グレイトバリアリーフ潜って。ええやろ?」
と満面の笑みで教えてくれた。誰かに言いたくて仕方なかったみたいだ。
「早く溜まるといいですね」
僕も小声で返す。なんかそういう大きな目標があるって、いいなぁ。
あれ、そういえば僕もちょっと前までアメリカにいる彼女のところに行こうかとお金貯めてたことがあったな……いいや、いまはそのことは思い出さないでおこう。ちょっと一人でどんよりしそうになったので、慌てて頭を切り替える。
そうだそうだ。今はこの祈祷用紙に何を書くか、だ。
しばらく考えてみたけれど、特段思い浮かばなかったので今回もまた旅の祈願を祈っておくことにした。祈祷用紙を願い箱へ入れると、ご神体へ手を合わせる。
ここに祀られているのは玉依姫命という女性の神様で、ご神体は石神さんの名の通り、高さ六十センチほどの石なんだ。
古くからここ、相差の海女さんたちが大漁と安全を願って祈った神様とかで、そんなこともあって『女性の願いを一つだけ必ず叶えてくれる』なんて言われるようになったらしい。
最後に社務所へ寄ると、かわいらしい麻の小袋に入ったお守りを買った。
袋の表面には、魔除けのドーマン・セーマンの模様が描かれていて、中にはここ相差で採れた石のお守りが入っているらしい。ご神体と同じ石のお守り。僕にも何か願いをかなえてくれるんだろうか。
よく考えてみると、熱心に願いたくなるほどの願いを持てるようになりたい、っていうのが一番僕にとってすんなりくる願いのような気がしてきた。
そんなこと、神様に言われても神様だって困るよね、きっと。