第20話 海女の小屋
コーヒーを淹れたカップを部屋にそおっと持って帰る途中、102号室の山岡さんの部屋のドアの前を通り過ぎたときだった。中からボソボソと声が聞こえてきて、僕はつい足を止めた。
おそらく電話か何かの声だろうが、「間に合わせます」「大丈夫です」「ほとんどできています」そんな必死そうな声がドア越しに漏れてくる。
どうやら相手は同じ会社の人のようだった。
彼女は僕と同じく、リモートで仕事をしているのかもしれない。でも、今日は土曜日なのに休日まで仕事して大変そうだ。もしかしたら週休日が土日じゃないだけなのかもしれないけど。
僕は自分の部屋に戻ると、デスクの前に座って海を眺めながらコーヒーを口に含む。うん。いつもと同じ、コンビニで買ったドリップコーヒーだけど、なんだかいつもよりおいしく感じる。
膝の上ではアカガネが立ち上がってデスクに置いたお茶碗の中の甘ったるいコーヒーをピチャピチャ舐めていた。
「お前は今日は仕事しなくていいのか?」
なんて顔をコーヒーでべちゃべちゃにしたアカガネが僕を見上げて聞いてくる。
「今日は休み。仕事のメールすら見たくない」
家で仕事していると、つい仕事とプライベートがあいまいになりがちだから、自分で意識してプライベートを保たないといけない。僕はそういうの割り切ってしまうタイプだから快適にリモート生活を楽しんでいるけど、そうじゃない人は仕事にプライベートが侵食されちゃう危険もあるんだろうな。そうならないように気を付けよう。なんてことを、海を眺めながら思った。
お昼になったので昼食を食べに出かけようと部屋のカギをかけていると、階段から誰かが下りてくる足音が聞こえてきた。
振り返ってみると、三十代前半とおぼしき男女の二人組だった。二人ともよく日焼けしていて、短パンにノースリーブのシャツ。首からはおそろいのシルバーアクセサリが下ってる。
「お。新しい入居者さん?」
男性の方が親しげに声をかけてきた。
先ほどの松岡さんとの出会いが強烈だったので、ほかの入居者さんたちはどんな人なんだろうと少し心配になっていたけれど、普通に気さくな人のようで僕は内心ホッと胸をなでおろしながら笑顔で返す。
「はい。101号室に越してきました。古谷です。一応、一か月の短期ですがよろしくお願いします」
「うちら、上の階やねん。俺が山田で、こっちが長澤。よろしくな。ああ、ごめん。どこか行くところやったんやろ? 呼び止めて邪魔してしもたな」
「いえ。あ、そうだ。僕、このあたり初めてなんですが、どっか昼ご飯食べるのにいいとことかありますか?」
もののついでにそう尋ねてみると、山田さんと名乗った男性の方は顎に手を当てて首を傾げた。
「昼ご飯? そうやなぁ。このあたりは観光客向けが多いから、ちょっと高いしなぁ。車で少し走ったらいろいろ店はあんねんけど」
残念ながら、車は持ってないなぁ。バスで行ける場所ならいいんだけど。
「観光もしにきたので、観光客向けのとこでも全然いいですよ」
そう言うと、長澤さんという女性の方が山田さんの服をちょいちょいと引っ張った。
「それやったらあそことか、ええんちゃう。海女の人がいるとこ。珍しいやろ?」
「ああ、そうや。ほんまもんの海女さんがやってる店があんねん。海でとれた貝やらエビやら焼きながら、いろいろ話聞かせてくれるらしいで。行ってみたらええんちゃう? 俺らもちょうど飯食いに行こう思うてたところやし、なんやったら一緒に行くか?」
え? 海女さん!? それって、あの海に潜って貝とか採ってくる海女さん? まだ現役の人がいるの?
俄然興味を惹かれる。せっかく海辺の町に来たんだから、それは行ってみなくちゃでしょ! だから、
「行きたいです!」
つい、力いっぱい答えてしまった。
海女さんのやっているお店はいくつかあるらしいけど、どこも予約制だった。でも、山田さんが電話してみてくれたところ、たまたまキャンセルが入ったとかですぐに予約が取れたんだ。
それで僕は山田さんの車に乗っけてもらって、その海女さんのやっているお店へと出かけることになった。
そういえば、102号室の森岡さんも誘ってみたらどうかと一応聞いてはみたのだけど、山田さんはゆるゆると頭を横に振って、
「あそこの人はずっと部屋に籠ってるみたいやから。俺らもほとんど面識ないねん」
と、暗に誘いたくないという空気を醸していたのでそれ以上は追及しないことにした。長澤さんも「ちょっと不気味やんな。あの人」と呟いていたし、あまり仲の良くない人を無理に誘うこともないだろう。
シェアハウスの近くの駐車場に山田さんの軽自動車は止めてあった。その後部座席に乗り込むと、子狼サイズのアカガネもぴょんと僕の隣に飛び乗ってくる。
うっかり「お前もシートベルトする?」なんて聞きそうになって慌てて口を噤んだ。
いけないいけない。山田さんたちにアカガネと会話しているところを見られたら怪しまれてしまう。
運転席に乗り込んだ山田さんがナビに場所を入力する傍らで、助手席の長澤さんが僕の方を振り向くと、
「でも、ほんまよぉ予約とれたなぁ。あんた、運ええなぁ」
さわやかな笑顔でそう言った。
「そんなことは……」
いままで運がいいと思ったことなんて一度もないけど。
もしかしたら、運がいいのは僕じゃなくてアカガネなんじゃないだろうか。
当のアカガネは窓に前脚をつけて座席の上に立ち上がり、窓ごしに空を舞うトンビを眺めていた。ところが、
「ほな、行くで」
掛け声とともに山田さんが車を急発進させたものだから、アカガネは座席から転げ落ちそうになる。それを手で支えてやりながら、やっぱり犬用シートベルト買っておくべきかもしれないなと思い直した。
山田さんの運転で海沿いの道をひたすら南下する。窓の外には真っ青な太平洋が一面に広がっていた。
その海の景色に見とれていたら、三十分ほどで車は相差という町に到着した。
ここは、海岸の多い三重の中でも特に海女さんが沢山いることで有名な街なんだそうだ。
山田さんたちについて浜の方へ歩いていくと、海岸沿いにその小屋はあった。
そこはいかにも『小屋』といった風貌の建物で、床は土を固めた土間になっていた。
その土間の上にテーブル代わりの囲炉裏があり、囲炉裏には大きな網が載せられている。
「いらっしゃい。どうぞこちらへ」
僕たちを出迎えてくれたのは、白い木綿の頭巾を頭にかぶり、同じく白い木綿の襦袢を着て、下は紺色のかすりの腰巻という、磯着とよばれる伝統的な海女の恰好をした現役の海女さんたちだった。
案内された囲炉裏の前に僕たちが座ると、一人の海女さんが僕たちの囲炉裏についてくれる。
「今日担当します水谷です。ようこそいらっしゃったね。どこから来なさったん?」
にこにこと素敵な笑顔で挨拶してくれた水谷さんの手には、沢山の海鮮が載ったお盆があった。ホタテやサザエに大アサリ、アワビやイセエビまで乗ったお盆。そのまま食べてもおいしそう。水谷さんはそのお盆を傍らに置くと、さっそくトングをつかって網の上にのせてどんどん焼き始める。
「僕は、東京から来ました」
そう答えると、
「え、あんた東京の人なん?」
山田さんがびっくりしたような顔をして言う。
「そうですよ。仕事がリモートOKになったんで、いろんなとこ行こうと思ったんです」
「そうなんか。俺らは、地元はもっと北の方やねん」
山田さんの話によると、二人は鳥羽にある鳥羽水族館で飼育員として働くためにこの地に移り住んできたのだそうだ。今日は二人とも休日だったのだが、普段の休日にはここからさらに車でずっと南下した国府の浜のほうへサーフィンをしに行くことも多いんだそうだ。やっぱり予想通り二人ともサーファーらしい。
そんな話をしている間にも、網に乗せられた貝やエビはどんどん焼けてよい香りを漂わせる。
あああ、すごく食欲をそそられる香り。
「さあ、焼けたのからどんどんおあがり」
水谷さんが教えてくれた食べごろの大アサリを一つ皿にとって、箸で身をとると口に入れた。あつあつでぷりぷりの身。今まで食べたことのあるどんなアサリよりも旨味がぎゅっと詰まっていて食べ応えがある。貝がらに残った汁も、濃厚でとってもおいしい。
一つ食べると、どんどん箸が進んでしまう。気が付くと、僕だけじゃなく山田さんも長澤さんも無心で貝を食べていた。
美味しいものを食べると無言になるのは、仕方がないよね。