第2話 はじめてのシェハウス入居
「まず、最初にどこに行こう……」
行ってみたい観光地や場所は、たくさんある。
きれいな海や大自然、温泉地、名物料理のあるところ……。
いろいろ考えて迷いに迷ったけれど、結局最初の出発地点に選んだのは、伊勢だった。
伊勢で有名なものといえば、もちろん伊勢神宮だ。
2013年に式年遷宮があった際には、テレビや雑誌でも特集が組まれてよく目にしていたから、そのころから一度は行ってみたいなと思っていたんだ。
式年遷宮とは伊勢神宮で二十年ごとに行われているもので、境内に新しい社殿を建てて神様に移り住んでもらう儀式らしい。
それに、伊勢神宮は全国有数のパワースポットとしても有名らしく、パワースポット巡りが趣味の同僚も絶賛してたっけ。
そんな霊験あらたかな土地は、旅をスタートさせるのにぴったりな気がしたんだ。
それで全国のシェアハウスを紹介するサイトで伊勢周辺にあるシェアハウスを予約した。
都内にあるワンルームマンションを引き払ったあと、僕は小さなボディバックと衣服などを詰め込んだボストンバックの二つを持って品川駅へと向かった。
ちなみに住民票はなくなると困るので、上司に事情を話して本社のオフィスに移させてもらった。郵便もそっちに届くように届を出しておいたので、郵便をとりっぱぐれることもないだろう。
東京から伊勢へ行くには、まず新幹線で名古屋へと向かう。
新幹線は出張で乗ることはあったけれど、プライベートで乗るのはずいぶん久しぶりだ。
仕事で乗ったときはただ時間をつぶすことしか考えていなくて、ずっとスマホで漫画を読んでたっけ。でも、今はなんだか見るものすべてが新鮮に思えた。
ああ、この感覚……なんだかとても懐かしいな。なんだろう。遠い昔に感じたことがある気がする。
しばらく考えて、ふと思い当たった。
そうだ。小学生の時、家族で遠くへ旅行したときに感じた、あのわくわく感と同じだ。
どこへ行くのかもよくわからない。行った先で何があるのかもわからない。でもただ無性に、わくわくしたんだ。
仕事で新幹線ホームに来たときはそんなことみじんも思わなかったのに。
物の見え方ってのはその人の置かれた状況や気持ちに大きく左右されるんもんなんだな。そんなことを思いながら、駅弁を買うと新幹線に乗り込んだ。
窓際の席。しばらくすると発車のベルが鳴って、新幹線が動き出す。
窓の外をゆっくりと、やがてぐんぐん加速してホームが見えなくなった。
さよなら、東京。また、いつか。
車窓に流れる富士山や茶畑、家々や山林の景色を楽しみながらお弁当食べていたら、あっという間に名古屋についた。
今度は、近鉄に乗り換えなきゃ。
ホーム端で挽き立てのコーヒーを売っていたのでのんびりホットコーヒーを買っていたら、発車のベルが鳴りだしてしまった。
慌ててコーヒーのカップ片手にホームを走り、なんとか電車に間に合った。ふぅ、危ないところだったと指定された座席に腰を下ろすと、電車はすぐに動き出す。
それから一時間ほど電車で揺られたら、伊勢市に到着。
やったー、ついたー!
東京の家を出てから数時間しか経ってないのに、もうずいぶん遠くまでやってきたような気がした。
JR伊勢市駅のロータリーへ出ると、さっそく石造りの鳥居が目の前に立っていて、いやがおうにも伊勢に来たという実感がわいてくる。
鳥居の向こうに続く伊勢神宮への参道にはお土産屋さんや美味しそうなお店が並んでいるのが見えた。そっちに引き寄せられそうになるけど、今は我慢。
駅までこれからお世話になるシェアハウスのオーナーさんが迎えにきてくれているはずなんだ。予約したシェアハウスは駅からバスで少しの場所らしいから一人でも行けますって伝えてはいたんだけど、その日はちょうど本業の方が暇だからといってオーナーの川中さんが車で来てくれることになっていた。
電車が着く時間は伝えてあったから、もう来ているはず?
ボストンバッグを持ったままキョロキョロと当たりを見渡すと、ロータリーの端にメールで教えてもらったものと同じセダンの車をみつけた。
近くまで歩いて行ってナンバーを確認する。メールに書いてあったのと同じ。間違いない、川中さんの車だ。
その車に寄りかかって、三十前半とおぼしき背の高い痩身の男性がぼんやりとタバコをふかしていた。少し気崩した細身のスーツがよく似合っている、ワイルド系のイケメンだ。
「すみません……川中さん、ですか?」
そう声をかけると、彼はハッと僕に視線を向けて慌てて手に持っていた携帯灰皿でタバコを消した。
「そうです。えっと、古谷さん?」
「はいそうです。よろしくお願いします」
待ち人と無事会えた安どで僕もホッと顔をほころばせる。
川中さんはすぐに僕のボストンバッグを手に取ると、後ろのトランクに入れた。
「荷物はこれだけ? あ、好きなとこ座っていいよ」
車の中はほんのりとタバコの香りがした。
川中さんの車に揺られて十分ほど走ると、車は一軒の家の前で止まる。
そこは静かな住宅街にあり、ぐるっと低めの塀で囲われていた。今はあまり見なくなった古いブロック塀。門を入ってすぐのところに小さな事務所があり、それにくっつくようにして奥に日本家屋の母屋があった。
事務所には『川中税理士事務所』と書かれた看板が掲げられている。
川中さんはトランクからボストンバックを取り出すと、それを持ったままスタスタと事務所の横を通りすぎて奥の方へ歩いていく。
「こっち」
言われるままについて行ったら、母屋から少し離れたところにもう一つ小ぶりの一軒家が建っていた。築三十年は経っていそうな古い木造家屋だったけど、きれいに掃除されて丁寧にメンテナンスされている様子がうかがえた。
ついでに言うと、シェアハウス紹介サイトで見た写真と同じだ。
建物の奥にはこんもりと木々が多い茂っていて、隣家は見えない。
「ここが……」
「そう。ここがシェアハウスとして貸している家だよ。たまたま今はほかに利用客もいないんで、いまのところ貸し切り状態で使える」
「え、まじっすか!?」
川中さんはポケットからカギを取り出すと、正面玄関を開けた。いまどき珍しい引き戸タイプの玄関だ。
「だから誰に気兼ねすることなく好きに使ってくれていいよ」
渋めの笑みを浮かべながら、川中さんはカギを渡してくれる。これからはこの鍵で自由に出入りしろということなのだろう。
僕の背は170ちょっとあるから日本人男性の平均くらいだと思うけど、川中さんはそれよりもずっと高い。180は越えているだろうな。すらっと背が高くて、男の自分から見ても渋めなカッコよさのある人だ。
「じゃあ、簡単に案内するね」
川中さんについて家の中にあがる。
建物は二階建て。一階の台所、ダイニング、風呂、トイレは共用。ほかに一階に二部屋、二階にも二部屋あってそれぞれが和室タイプの個室になっていた。
とはいえ、今ここを借りているのは僕ひとりらしい。
「どうせほかに誰もいないから好きな部屋を選んでいいよ。どこにする?」
そう聞かれて、僕は即答した。
「一階のそこの部屋がいいです!」
だって、その部屋だけ小さいけれど縁側が付いていたんだよ! 絶対そこにするよね!
初夏の今、風鈴とかつけたら楽しそうだし、縁側でスイカを食べるっていう子供のときからの夢もかなえられそうだし!
即答した僕に、川中さんは苦笑すると、
「んじゃ、それで。私は昼間は事務所、夜は母屋にいるから、何かあったらいつでも言って」
「はいっ、よろしくおねがいします!」
母屋へ戻っていく彼の背中を見送ると、一人きりになった自室で大の字になって横になった。
開けた窓から入ってくる風が心地いい。
部屋には、隅にテレビと小さな机、それに収納用のカラーボックスが置かれているくらいで大きな家具がないからか、広々としている。
ここで明後日からリモートワークに励むわけだけど、今日は土曜日。仕事も休みだから特段することもない。ゆったりのんびり時間が流れていく。時間の流れる速度すら、東京にいたときとは違うように感じられた。
とりあえず、夕飯の調達がてら近所を散策してみて、明日は伊勢神宮の方に行ってみようかな。