第19話 鳥羽へ
川中さんもすっかり元気になったし、肉吸いもちょくちょく遊びに来る。
川中さんのシェアハウスはとても居心地がよかったけれど、ほかの入居者さんたちが入ってきたこともあって、そろそろ別の土地へ行こうかと考えはじめていた。
「そうだ。海へ行こう、海。せっかく三重まで来たんだからもっと海辺の町を見てみたい」
というわけで、次に滞在地に選んだのは伊勢からJR参宮線で二十分ほど離れた鳥羽だった。
駅まで見送ってくれた川中さんたちに別れを告げ、電車で伊勢の市街地を抜けると車窓には緑が多くなってくる。
鳥羽駅に着いて電車から降りると、むわっとした熱気とともに潮の香りが出迎えてくれた。
伊勢からはそれほど離れていないのに、海沿いだというだけでなんだか日差しの明るさまで違うようだ。
今回のシェアハウスは、鳥羽駅から歩いて十分ほどの距離にあるらしい。
そこを管理している管理会社は伊勢市にあったので、事前に管理会社へ寄ってカギは借りてきていた。よって今回は出迎えはなし。
伊勢市街と違って鳥羽駅の周りには見える建物もぐっと少ない。バスに乗るほどの距離でもなかったので、歩いて行くことにした。
「アカガネ。海だよ、海」
スマホの地図アプリを頼りに海沿いの道を歩きながら、久しぶりに見る海につい気持ちがはしゃいでしまう。
海岸から水平線まで青い海が煌めいていて、トンビかな、大きな鳥が何羽も上空を自由に飛び交っている。
海もきれいだけれど、このあたりは伊勢志摩国立公園の一角だけあって緑も濃い。
青い海と深い緑のコントラストが、とても美しいと思った。
「そりゃ海もあるだろうよ。なんぞ珍しいもんでもないだろう」
と、アカガネはあくび交じりについてくる。
「……それはそうだけどさ」
「お前がもともと住んでいた土地に海はなかったのか?」
そう言われて、少し前まで住んでいた都心のワンルームを思い浮かべる。
「んー。お台場とかに行けば海は見えたけど……なんだろ。海自体に心が沸き立つ感じではなかったんだよな。沿岸にはタワーマンションとか、タンカーにコンテナを積み込む大きな機械とか商業施設とか、そんなものが沢山あって……なんていうか、海の色もこんなに鮮やかじゃないし、こんなに潮の香もしない。お台場に行ってもあんまり海を意識したことなかったな」
「ふぅん。そういうもんかな。俺は、そっちの方は数十年前に行ったっきりだが、今はずいぶん変わっているんだろうな」
そんなおしゃべりをしているうちに、地図アプリに導かれて目的の場所へたどり着いた。
そこは海岸沿いの道から百メートルほど内側に入った場所にある一軒家だった。
そのシェアハウスは四角い鉄筋造りの二階建てで、庭もある。庭には洗濯物を干すための物干し台もあった。
さっそく渡されていたカギを使って玄関のドアを開けて中に入る。ここはまだ建てられて数年しか建っていないらしく、外観も内装もとてもきれいだ。
僕の部屋は一階の101号室で、玄関からすぐの角部屋。どうやら、一階には二部屋。二階には三部屋ある作りのようだ。各部屋のドアには部屋番号のプレートがかかっていたので、それを頼りに自分の部屋を見つけるとドアを開けた。
室内には清潔そうなベッドと、窓際には小ぶりだけれどちゃんとデスクもある。そう、ここも家具付きワンルームタイプのシェアハウスなんだ。
「いいじゃん、いいじゃん!」
奥には掃き出し窓があって、そこから庭の樹木が覗いている。角部屋なので左の壁にも小ぶりな窓があり、いまはブラインドが下がっていた。
もちろんWi-Fi完備。仕事をするには申し分ない。
「川中んとこよりも、ずいぶん小さいな」
と、アカガネはぐるっと部屋を見回して言う。
たしかに僕一人なら十分な広さだけど、アカガネが自由に歩き回るのには少々狭いかもしれない。
「普通、ワンルームってこんなもんだよ。川中さんとこがでかかったの。文句あるならお前が小さくなればいいだろ?」
何気なくそんなことを言うと。
「それもそうだな」
アカガネは何でもないことのように返して、しゅるしゅると小さくなり、子狼サイズになってしまった。
「ふむ。これなら、申し分ない広さだな」
そして、ぴょんとベッドに飛び乗ると、その上でボヨンボヨン跳ねだす。
「こら、やめろって。埃がたつだろ? ……なんでサイズが小さくなると行動まで幼くなるんだよ」
これ以上飛び跳ねないようにアカガネを抱きあげると、小さいほうの窓のブラインドをあげて、窓を開ける。
「うわぁ!」
窓の向こうには鳥羽の青い海が見えた。潮の香りを含んだ涼しい風が窓から入ってくる。
「いいね、ここの景色。こういう海の見える家に住むのが子どものころからの夢だったんだ」
「海というと、うまい海の幸でも食べたくなるな」
と、僕に抱かれて足をぶらーんぶらーんさせたままアカガネが言う。
「ここに来るまでにいくつか海鮮の店の看板見たよな。あとで昼ご飯に食べに行こうか。でもまだちょっと早いから、とりあえずコーヒーでも淹れよう」
自室で海を見ながらコーヒー飲むのも乙だよね。さっそく、前にコンビニで買ったドリップコーヒーをカバンから取り出すとキッチンへ向かった。
このシェアハウスもキッチンは共用。調理器具や食器は貸してもらえる契約になっていたはず。
キッチンは一階の奥まったところにあった。コンロの横に瞬間湯沸かしポッドを見つける。食器棚を覗いてマグカップを探し出すと、二つ手に取った。
「アカガネも飲むよな?」
僕の足元にいたアカガネに尋ねると、アカガネはこくんと首を傾げた。
「この身体の大きさでは、そのカップは量が多すぎるな。半分でいい。それと、砂糖とミルクも入れてくれ」
「あれ? アカガネ、川中さんとこにいたときはブラックで飲んでなかったか?」
「あのときは成獣サイズだったからな。小さくなると甘いものがほしくなる」
へぇぇぇぇ。前から思ってたけど、アカガネって小さくなると途端に子どもっぽさが増すよね。体つきだって単にスケールが小さくなるだけじゃなくて、足が短くておなかがぽこんと出たずんぐりむっくり子狼体型になる。それに合わせて、中身も幼くなるみたいだ。
デカイときは、あんなにすぐ凄んでくるくせにさ。
「んじゃ、小さくなってるときは甘めのカフェオレにしてやるよ。でも今は砂糖しかないから、それで我慢しろよな」
「むぅ。仕方ないな」
そんなやり取りをしながらポッドに蛇口から水を注いでスイッチを入れ、ドリップコーヒーをカップに乗せて準備していたときだった。
突然、キッチンのドアがキィィと音を立ててゆっくり開く。
そのドアからのっそりと顔をのぞかせたのは、僕と同年代とおぼしき背の高い眼鏡の女性だった。長い髪を大雑把に後ろで一つにくくっていて、部屋着なのかゆったりしたTシャツにタオル地のハーフパンツを履いている。
そうだ。前のシェアハウスは僕の貸し切り状態だったけど、ここは僕の他にもいま三人の入居者がいるって管理会社の人が言ってたっけ。
でもまさか女性がいるとは思っていなかったから、一瞬びっくりした。
それはあちらも同じだったみたいで、驚いた顔をして僕を見たあと、ぺこりと頭を下げてくる。それで僕も、我に返って慌てて会釈を返した。
「あ、僕、今日から101号室に短期で入居した古谷です」
「私は、隣の102号室。森岡です。……ポット、コンセント入ってないですよ」
指摘されて、コンセントに目を向ける。あ、本当だ! どうりで、瞬間湯沸かしのはずなのになかなか沸かないと思った!
「あ、ありがとうございます」
僕はあわあわしながらコンセントにプラグを差し込むと、彼女を振り返った。
「ちょうどコーヒー淹れようと思ってたんですけど、森岡さんもどうですか? コンビニのやつだけど」
そう誘ってみたのだけど、彼女はのっそりと冷蔵庫に近づくと水のペットボトルを手にしてごくごく数口飲んだのち、はぁと深く息を吐き出すように、
「……いいです。飲みすぎて胃が荒れちゃったから」
そうボソボソと答えて、来た時と同じようにのっそりと帰っていった。
なんだか覇気のない人だな。全体的によれっとしているというか。疲れ果てているみたいというか。それが彼女への第一印象だった。
このときはまだ、彼女がなぜそうなっているかなんて思い至ることもなかった。