第17話 肉吸いの力
翌日。
僕はアカガネとともに、肉吸いを連れて川中さんが入院している病院を訪れた。
病室のドアを軽くノックして「古谷です」と告げると、「はい、どうぞ」と中から声が返ってくる。
「失礼します」
ドアをスライドさせて中に入ると、彼は昨日と同じパジャマ姿でベッドの上にいた。ただ今日は、あらかじめメールで肉吸いが来ることを知らせてあったからか、彼はベッドを起こしてそこに背中を預けるようにして座っていた。
僕とアカガネは川中さんのベッドのそばへ歩いて行く。けれど、さっきまで一緒についてきていた肉吸いの姿が見えない。振り返ると、彼女は病室の入り口で立ち尽くしていた。
「おいでよ」
僕が誘うけれど、彼女は胸に鏡をぎゅっと抱きしめたまま。なかなかこちらに入ってこようとしない。
見かねた川中さんが彼女に声をかける。
「ひさしぶりだね」
声をかけられて、肉吸いの肩がここからでもわかるほど大きく揺れた。
こわばった表情のままじっとこちらを見ていたけれど、しばらくして意を決したように一歩病室に足を踏み入れる。そのまま、すたすたと早足でベッドに近づいてくると、両手であの鏡を持って川中さんの前につきだした。
『あ、あのっ! こ、これ、ありがとう! うち……早く返さなあかんって、そう思ってたんやけど、なかなか手放す勇気が出なかったんや。そやけど、やっぱり返さなあかんから!』
川中さんはその鏡を受け取ると、ふたを開け閉めして確認するように眺めたあと、優し気に目を細めた。
「大事に持っててくれたんだね。でも、そんなに気に入ってくれたのなら、君にあげたのに」
『で、でもっ……』
「それに。火が欲しいなら、またもらいに来るといい。うちの門はカギがかかってないから、いつでも開けて入ってきていいから」
入ってきていい。あの家の家主である彼の言葉があれば、肉吸いはもう塀の外で眺めるだけじゃなく、堂々と中へ入っていける。
そのことに、誰より彼女自身が戸惑っているようだった。
『う、うちが怖くないん……? そんなこと言うたら、ウチ、あんたんちも自由に入っていけてしまうんよ? あんたかてこの人間たちに聞いて知ってるんやろ? うちが人間の肉を吸うって』
必死な様子で言い募る肉吸いに、川中さんは小さく笑みを返した。
「ああ、聞いた。でも、君が人の悪い部分だけを吸う、あやかし?だっていうことも聞いた。僕も曽祖母から『肉吸い』の昔話を聞いたときは、そりゃ怖くて夜トイレに行けなくなるくらいだったよ」
そして、鏡を肉吸いに差し出しながら、彼女の目を見て言う。
「でも君のことは、初めて会ったときも。そして、いまも。なんでだろうね。怖いなんてちっとも思えないんだ。この鏡は君がそんなに大事にしてくれていたのなら、知り合えた記念にあげるよ。そして、また火をもらいに来るといい。僕も独り身で、あの大きな家に一人きりだし。シェアハウスなんてのを始めたのも、そもそもは寂しかったからなんだ。おかげでこんな変わった人たちにも会えたけどね」
ちらとこっちを見て川中さんは笑った。僕も笑みを返す。『たち』ってことはもしかしてアカガネのことも入っているのかな。
肉吸いは信じられないといった様子で川中さんを見ていたけれど、その双眸にみるみる涙がたまっていく。
鏡を受け取った彼女が大きくうなずくと、ぽたぽたと涙の雫が床にこぼれ落ちた。
そして鏡を胸の前で大事そうにぎゅっと抱くと、泣き顔のまま笑う。
『ウチ、頑張ってアンタのその悪いとこ、全部吸う。そんで、アンタが元気になってまたあの家に戻ってきたら……』
「うん。待ってる」
肉吸いは鏡を着物の胸元に差し入れて、一つ大きくうなずく。
『じゃあ、吸うで。動かんといてな』
「ああ……」
肉吸いは川中さんのすぐ真横まで行くと、両手で彼の身体に触れた。
『……たしかに、ある。この辺や。えらい黒ぉなってはる』
そう肉吸いは小声で呟くと、彼の身体に顔をうずめるように抱き着いた。
川中さんはぎゅっと目を閉じて思わず身体を固くしていたけれど、しばらくしてそおっと目を開けて肉吸いを見ていた。
「……なんか不思議な感じだ。急速に体温を持ってかれる感じはあるのに、痛みとかは全然ない」
はたから見ている分には、ただ肉吸いが川中さんに抱き着いているようにしか見えない。僕からは肉吸いが何をしているのかまでは見えなかったけれど、そのうち肉吸いは川中さんの身体から離れた。
そして彼女は口を手の甲でぬぐうと、にっこりといい笑顔で笑った。
『悪いところは全部吸えたで。もう大丈夫や』
そう川中さんに言うと、今度は僕たちの方に向き合う。
『アンタらのおかげや。ありがとな。あの神饌とかいうの、すごいな。昔の自分に戻ったみたいや。しゅるってあっという間に吸えてしもたわ』
そう語る肉吸いはさっきよりもさらにはつらつとして健康そうな顔色をしていた。なんていうか、存在がよりはっきりしたというか。どこか儚そうでいつか消えてしまいそうだった雰囲気がいまはみじんもない。
念願の川中さんに敢えて自信がついたのもあるんだろうけど、肉を吸うということ自体、肉吸いにとって存在の維持に必要なことなのかもしれない。
「そうだろうとも。なんせ神からの賜りものだからな」
アカガネは口の端をニッと引いて、鼻高々にいう。
「なんでお前が得意げなんだよ。僕たちはただ神饌を運んでるだけじゃん」
「まぁ、いいではないか。自分の仕事に誇りをもつというのは大事なことだぞ」
「確かにそれは、そうだけど」
当の川中さんはというと、まだ自分の身体に何がおこったのかわからなくて不思議そうにしていた。一見見た目は何の変化もなさそう。でも、彼のほうも、目に灯る生気が前よりずっと強まったように思えた。
これで本当に病が治ってたらいいな。でも、それは身体の中のことだから検査してみるまではわからない。
「すまない。なんか、すごく眠くなってきた……」
川中さんがそう言って目をとろとろさせはじめたので、僕がベッドサイドにおいてあったリモコンでベッドをフラットにしてあげると、彼は横になってすぐに眠り始めた。
もしかして容体が悪化したのかと少し心配になったけれど、彼の寝息はやすらかなものだった。