第14話 川中さんの事情
肉吸いは長い間土下座していたけれど、しばらくしてスッと立ち上がる。
『……お前らにも迷惑かけてしもたな。……かんにんな』
そう小さな声で言ったあと、うつむいたままどこかへ駆けて行ってしまった。
それを、僕はただ何とも言えないモヤモヤを抱えたまま見送るしかできなかった。
これでよかったんだろうか……。
答えの出ないまま家に戻ると、一時間後の再来を頼んであったタクシーがちょうど門の前についたところだった。庭におきっぱなしになっていた荷物を手に取るとタクシーに乗り込む。
一瞬、もしかして肉吸いがタクシーの後ろからついてきてるんじゃないかって心配になったけれど、後部座席から後ろをのぞいてみても彼女らしき姿はどこにも見当たらなかった。
病院に着いてから、
「あ、そうだ。お見舞いに手ぶらじゃ悪いかな」
一瞬、花か果物でも持っていくべきか迷う。
でも、花の管理は結構厄介だし、倒れたときにお腹を押さえて苦しそうにしていたから食事制限されていることも考えられるので、結局頼まれた荷物だけをもって病室へ向かうことにした。
電話で教えてもらった病室の入口に名札差しが二つ貼られていたけれど、名前が入っているのは川中さんだけでもう一つは空いていた。
どうやら二人部屋で、部屋を使っているのはいまは川中さんだけのようだ。
軽くノックすると、中から「はーい」と男性の声が聞こえてきた。
「失礼します」
そっとドアをスライドさせて開ける。二つあるベッドのうち手前は空で、窓際のベッドに川中さんが横になっていた。
あまりひげも剃れないのだろう。少しこけた頬に無精ひげが生えている。やつれてはいるけど、精悍さも増してイケメンっぷりがあがっているように見えた。
ただ、病院で借りたらしい青いレンタル寝間着姿に、腕に刺した点滴が彼が病人であることを物語っている。
「ありがとう。悪いね、わざわざ」
川中さんは読んでいた雑誌を横のサイドテーブルに置くと、こちらに身体を向けた。
「いえ。ちょうど手が空いたところだったんで。頼まれたもの持ってきました」
紙袋を掲げてみせる。それと僕はボディバッグから彼のスマホを取り出して手渡した。事務所に置きっぱなしになっていた彼のスマホはすっかり充電切れになっていたけれど、来る前に充電しておいたから充電率は100パーセントになっている。
彼はスマホを見て、ほろっと頬を緩ませた。
「ああ、ありがとう。スマホがないと、クライアントに連絡もできなくてこまってたとこだったんだ」
そして、紙袋の中身を確認すると、川中さんは大きく頷く。
「うん。頼んだものは全部そろってる。本当に、面倒かけてしまって申し訳ない。ありがとう。それと……君にここへきてももらったのは、もう一つ話したいことがあったからなんだ。もう少し、時間いいかな」
「はい、大丈夫ですよ」
僕は壁に折りたたんで立てかけてあったパイプ椅子を持ってくると、彼の傍に腰かけた。
「ありがとう。実は、シェアハウスの契約のことなんだけど……。たしかあと、二週間残っていたよね?」
「はい、えっと……そうですね。正確にはあと十三日です」
「そのあと、次の行き先は決まってるの? それとも延長考えてる?」
もともとシェアハウスのあの部屋は、一か月の短期で契約していた。
いまはほかにシェアする人がいないので、一人で広々と気楽に使えるのはかなり快適だ。だから、延長しようかどうしようか迷ってはいたんだけど。
黙っていると、川中さんは小さく息を吐いた。
「……実は、申し訳ないけど。シェアハウスはもう君の契約を最後に辞めようかと思っているんだ」
「……え?」
驚いて川中さんを見ると、彼は申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。
「古谷さんには色々ご迷惑かけちゃったんで話すけど……どうやら胃のガンらしいんだ。それもかなり進んでて、リンパにも転移してるらしくてね。手術してガンをとっても、しばらく抗がん剤も続けなくちゃなんないみたいで。……あの家は、両親から継いだものだったんだけど、ほかに管理を頼める人もいないし。税理士業の方も一旦休業して、治療に専念しようかと思ってるんだ」
そう、淡々とした口調で川中さんは語る。
まるで他人事のように聞こえてしまうのは、彼自身がまだ受け入れ切れていないからかもしれない。
それも、そうだ。五日前までは、まさか自分がガンだなんて思いもせず普通に暮らしていたんだから。
僕だって、いま突然同じ宣告をされたとしてもきっと途方に暮れてしまうだろう。
一介の賃借人に過ぎない僕に、大家である彼の決めたことへ異議を挟めるはずもなく、
「手術、うまくいくことを祈ってます。とても居心地のいいシェアハウスだったから延長も考えていましたが、そういう事情でしたら元の契約通りで構いません。でも、その間できるお手伝いはしますんで、なんでも言ってくださいね」
そう伝えるのが精いっぱいだった。
それから今の家の様子とかいくつか雑談を交わした後、僕は病室をあとにした。
でも病院を出て、タクシー売り場へ向かいながらも僕は気がそぞろだった。
ずっと頭の中に最後に見た肉吸いの顔と、さっき見た川中さんのやつれた顔が交互に浮かぶ。
肉吸いなら、川中さんの病気を治せるんだろうか。
もし本当に治せるならそれにこしたことはない。
でも、本当は人に害をなす存在だったら?
僕もネットで『肉吸い』のことを調べてはみた。でも、彼女たちについて書かれたという伝承はどれも、人を襲う怖い存在として彼女たちを描いていた。
自分の目で見た彼女と、古くから伝わる伝承。どちらが本当の彼女の姿なんだろう。
そんなよくわからない存在を川中さんに近づけていいのかどうか。
あと、ついでにあの子、ストーカー気質あるよね。絶対。
そうやって悩みに悩んでいたら、
「おい。タクシー乗り場はこっちだろ」
アカガネの声に引き留められた。振り返ると、アカガネは十メートルほど手前でお座りして前脚で何かを指さしている。その先には『タクシー乗り場』と書かれた停留所の看板があった。
考え事していて、うっかり見落としてしまったらしい。
「ああ、ほんとだ。ごめんごめん」
僕は小走りでアカガネの元へと戻る。すると、アカガネはギロッと僕のことを見上げた。
「どうした。何を考えてる? すっかり意識がここにあらずだぞ」
「うん……そうだね」
そう返しながらも、脳裏にはまだ二人の顔が浮かんでいた。
「なぁ。アカガネ。どうしたらいいんだろうね。肉吸いは川中さんに会いたがってる。川中さんは当然早く治りたいだろう。でも、本当に合わせちゃって大丈夫なのかな……」
悩んでいたことが、ため息とともにそのまま口から出てきた。
そして口に出してしまうと、自分が本当は何に悩んでいたのかをはっきりと自覚した。
僕は責任を感じるのが嫌なんだ。二人を会わせてうまくいけばいいけれど、もしなにかあったとき、あんなことしなきゃよかったと自分で自分を責めてしまうのが嫌なんだ。
結局、二人のためを思っているようでいて、僕が悩んでいたのは自分自身のことに他ならない。そういう自分が嫌になる。
でも、アカガネは僕の悩み自体が不可解だといった様子で小首をかしげた。
「なんだ。そんなことで悩んでたのか。そんなこと、お前が決めることじゃないだろ?」
「そうなんだけどさ……」
「だったら、全部あの川中とかいう人間に話してしまえばいいだろう。お前が知っている情報だけ渡して、どうするかの判断はあの男に任せてしまえばいい」
アカガネはこともなげに言う。
「でもさ。川中さんに言っても信じてもらえるかな。視えないあやかしの話なんて……」
僕はアカガネをはじめ、あやかしたちが視えているからあやかしの存在を疑うまでもない。でも、ほかの人たちはその実体を視ることができないのだから、話しても信じてもらえるとは思えなかった。
だけど、
「お前は何を言っているんだ。あの男に肉吸いが視えないわけがないだろ。じゃなかったら、どうやって鏡を渡すんだ?」
「あ……」
確かにそうだ。川中さんは以前にも肉吸いと会話して、火や鏡まで渡しているんだった。
「俺のことは視えてないようだから、あやかし全般が視えるタチではないんだろうがな。それでも、あやかし自身が自分を視てほしいと願えば視えることもある」
「そっか。それなら……。僕、もう一度病室へ行ってくる」
病室に行って、今度こそ肉吸いのことを川中さんにちゃんと伝えよう。
僕は今来た道を駆け戻っていった。