第10話 山盛りミートソーススパゲティ
肉吸いは僕の視線に気づいたのか、驚いたように僕を見た。
目が合った次の瞬間、彼女は草履が水たまりに入って濡れるのも気にせず、パタパタと走り去る。
そして薄闇に溶けるようにしてすぐに見えなくなってしまった。
それにしても、なぜ彼女がここにいたんだろう。
彼女と出会った五十鈴川の川原からここまでバスで十分くらいだから、このあたりも彼女の行動圏である可能性は充分考えられる。
でも一体彼女はそこで何をしてたんだろう?
僕は彼女がつい先ほどまで立っていた塀のところに行ってみた。昔ながらの古いブロック塀はあまり高くはなく、僕の胸元くらいの高さしかない。彼女は僕より頭一つ小さいくらいだったから、ぎりぎり塀の向こうの敷地の中が見えるかどうかといったところ。
そこから敷地のほうを覗いてみると、川中さんの税理士事務所がよく見えた。事務所は前面に大きな窓が嵌められている。レースのカーテンがかけられていることも多いけれど、いまみたいに外が暗くなるとレース越しに人影が浮かび上がって見える。
事務所の中ではうつむき加減でデスクに座る人影があった。あれはたぶん、川中さんだ。まだ仕事をしているんだろう。
事務所にはほかにはだれもいない。彼一人だ。
肉吸いはそこから川中さんのことを眺めていたのだろうか。
となると、考えられることは一つ。
肉吸いに鏡をあげた男の人っていうのは、彼だったのかもしれない。
それで肉吸いは近くまできたものの鏡を返すに返せなくて、ここで様子をうかがっていたんだろうか。
うーん。これは川中さんに知らせた方がいいのかな。
思わず傘を持ちながら腕組みして悩んでしまう。けれど、知らせたところで信じてもらえるだろうか。肉吸いのあの様子は絶対恋心を抱いているんだと思うんだけど、あやかしっていう普通の人には視えないものがあなたを慕ってますよ、なんて言っても僕のほうが奇異な目でみられるだけかもしれない。
伊勢神宮の内宮でアカガネと話す僕を他の人たちが不気味そうに見ていたのを思い出す。もうあんな風にはなりたくないよなと思い直して、僕はスーパーへと向かった。
その晩、自室のリビングテーブルに置かれた大皿の上にはミートソーススパゲッティの山ができた。
「……作りすぎた」
ミートソーススパゲティといっても、ただスパゲッティを茹でて市販のミートソースをかけただけのお手軽料理だけど。
でも、炒めた挽肉をソースに混ぜ込んであるから、結構食べ応えはある。
ただ、量が多くて食べても食べてもスパゲッティの山が減らない。
アカガネも僕と一緒に三食食べているのでいっぱい作らなきゃと思って用意してたら、つい作りすぎてしまったのだ。
あやかしは必ずしも毎日食事をとる必要があるわけじゃないのだそうだけど、アカガネいわく「神饌が近くにあると、腹が減る」のだそうだ。
それで一緒にご飯を食べるのが日課になってたんだけど。
「どうしよう。明日まで置いておいてもいいけど、スパゲッティって一晩置いておくとのびきって不味くなっちゃうよね」
「俺は明日もこれでいいがな」
と、アカガネはぺろりと赤い舌で舐めとりながら言う。赤い毛並みをしているからわかりにくいけど、取り分けたスパゲティに顔突っ込んで食べてたからきっと口の周りはソースで汚れまくっていることだろう。
「お前の食う量が気まぐれなんだよ。すごくいっぱい食べるときもあれば、ちょっとしか食べないときもあるだろ?」
「俺にも好き嫌いはあるからな」
「……出されたものは、全部食え。にしても、今日はさすがに作りすぎたなぁ」
しょぼんと肩を落として、スパゲッティを口に運ぶ。そろそろ違う味が食べたくなってきた。さっきスーパーに行ったとき、サラダも買ってくれば良かったな。
そんなことを考えていたら、ふと先ほど見かけた肉吸いのことを思い出した。
「そういえば、さっきさ。そこの門を出たとこであの子を見たよ」
「あの子?」
「この前川原で会った肉吸いとかいうあやかし。そこの塀の向こうから川中さんの事務所を見てた。僕が彼女に気づいたらすぐに逃げちゃったけど」
食後の毛づくろいで、前脚の肉球を舐めていたアカガネが顔を上げる。
「ほぉ。じゃあ、アレに鏡を渡したのも」
「たぶん、川中さんなんだと思うよ。世間って狭いよな」
そんなことを言いながらまだ減らない大皿のスパゲッティを眺めていて、「そうだ」と思い付いた。
「川中さんに、おすそ分けしてこよう」
川中さんはほかに家族もいないようで、母屋に一人暮らしだ。僕が買い物から帰ってきたときもまだ仕事してたようだったから、晩御飯の用意もしていないかもしれない。
さっそく大皿からミートソーススパゲッティを皿に取り分けると、ラップをかけた。
「ちょっとこれ、川中さんに届けてくる」
そうアカガネに声をかけて、僕は靴を履いて外に出る。母屋は庭を挟んで同じ敷地内。歩いて一分もかからない。母屋にくっつくようにして建てられている事務所にはまだ明かりが煌々とついていた。
川中さん、まだ仕事中かな。
僕はミートソースの皿をもって事務所まで歩いていく。
窓からひょいっと中を見てみるけれど、あれ? 川中さんの姿が見えない。
どこかに出かけてるのかな。でも、ドアを引くと何の抵抗もなく開いた。
なんとなく嫌な予感を覚えて僕は、
「川中さん? いますか? おすそ分けもってきたんですが」
そう声をかけながら、事務所の中に入って行った。
やっぱり人の気配がしない。おかしいな。鍵も開けたままでどこへ行ったんだろう。
デスクにはノートパソコンがついたまま。そばに置かれた帳簿や伝票の束も出しっぱなしになっていて、ちょっとトイレにでも行くために席を外しただけのようにも見えた。
トイレは母屋にしかないようだったから、そちらに行ったのかな。
そう思って母屋と事務所をつなぐ奥のドアに目を向けたとき、その半開きになったドアの下に人の足のようなものが見えた。
さっと、全身の血の気が引く。
誰かが倒れてる!?
「川中さんっ!?」
そちらに駆け寄ると、ドアに挟まれるようにして川中さんが床に倒れていた。
「どうしたんですか!?」
声をかけると、彼は「ううっ」と小さくうめき声をあげる。
しかし額には玉の汗がいくつも浮かんで、目をかたく閉じた顔は苦痛に歪んでいた。お腹のあたりを押さえて身体を丸めるようにして小さな呻きを上げている。
しゃべることもできないほど苦しいようだ。
「今すぐ救急車呼びますね!」
僕はデスクの上にある電話に飛びつくと、119番を押した。