(三)トリック前夜のむかしばなし
祖父とリズが戻ってきた。
子どもがいるから、夕食後の紳士のたしなみである葉巻やカードルームの付き合いは辞退してきたという。
リズはユーゴを引き取って自室へ戻っていった。
リズとユーゴがシャハロ魔術団の一員になるのに、問題は無かったが。
シャハロ魔術団が大西洋横断船に乗るとき、リズ母子も新大陸へ向かう船に乗り込んでいる表向きの理由が必要であった。
そのために祖父がどんな方法を使うのかマジックトリックより不思議だったけど、それはリズ自身が解決していた。
泥棒貴族の一族の掟では『いい仕事』を終えた後には報酬代わりの休暇がもらえる。
リズはそれを利用した。
「ジャノに指輪の隠し場所を教えてから、ユーゴを連れてボストン見物に行きたいと言ってみたの」
リズ母子の監視人の名前はジャノ。リズよりも五歳若い男だ。リズ母子につかず離れず同行し、護衛でもあり、窃盗の実行時にはサポートするのが彼の任務。
ホテルでユーゴが盗んで隠したサファイヤの指輪は、昨日のうちに監視人ジャノが回収し、一族の下へ送られたという。
「ボストンには新しい仕事で財を成したお金持ちの人達がいるしね」
それは、リズがホテルで指輪を盗まれる前、アメリア嬢のお茶会で仕入れた情報だった。
「さすがにアメリカへ渡ると言ったら渋い顔をされたけど、アメリア嬢に付いていったらボストンで『いい仕事』になるかも、とほのめかしたら、彼が一族に話を付けてくれたわ」
泥棒一族の首領がジャノをリズの監視人に指名したのは、若手の親族の中でもリズに好意的ではないからだそう。
リズは美人だけど、ジャノの好みのタイプではない。男の人は美人に弱いから、好みのタイプだと監視の目が甘くなるんだって。
リズには、子持ちでもかまわないから結婚したいという男性が引きも切らずに押しかけてくるが、全部断っているそうだ。
一族とは無関係な人と再婚できれば、もういちど一族から逃げられる可能性がある。
でも、リズは今もユーゴのお父さんを愛しているから、再婚したくないそうだ。
ホテルで透視した時、リズの監視人は三人いたけど、いまはジャノひとり。
リーベンスロールのホテルでの盗難事件が新聞で公表されたので、これからしばらくの間、リズの周囲では高価な宝飾品を狙った盗難事件を起こすのは控えるんだそうだ。
『仕事』をしないリズに三人ものサポートは必要ない。
ということで、二人は別の国の別の仕事へ派遣された。
さて、そろそろ寝る時間。
ここでトリックの第二段階が発動。
身代わりと本物との入れ替わりである。
リズとユーゴは隣室へ留まり、二人の代わりに二体の魔法人形がリズ母子の部屋へ戻ったのだ。
船上一日目の朝食の席で、
「明日のショーまでのんびりしているといい」
と、祖父はリズ達へ言ったくせに、
「レンカ、考えたんだが、船上でのショーは背景に海があるから、もう少し派手な衣装の方がいいんじゃないかと思うんだ」
船の上では新しい衣装を仕立屋に注文するわけにはいかないから、ヴェネチアで買ってきた仮面と衣装を手直しする、と言い出した。
祖父曰く、マジシャンはお裁縫が得意でなければならない。マジックのタネを隠す秘密のポケットなどを自分で付けるからである。
マジシャンの手は魔法の手。白いハトやハンカチや小物を、あたかも空中から取り出したように見せるマジックはお手のもの。
あれは服のあちこちに付けた秘密の隠しポケットに、おとなしいハトやハンカチや何百枚ものトランプカードを隠してあるのだ。
だからマジシャンは、かっこいいタキシードや華やかなドレスのシルエットを崩さないよう、自分で舞台衣装を改造するのである。
これにはリズが協力を申し出てくれた。お裁縫が得意だとか。ユーゴの服はほとんどリズが縫っているという。
祖父はわたしの衣装を三着潰すことにし、それを材料に、ベルエポック風ドレスのデザインをスケッチブックに描いた。
全体がストンとしたシルエットに、フリルとレースとスパンコールとリボンをふんだんに縫い付けた、いかにもベルエポックなスタイルの衣装だ。
祖父の考案した新しい舞台衣装はリズの分もあり、そちらはサアラの衣装箱から必要な材料を調達した。
祖父はさらに細かい指示をわたしとリズへ口頭で説明しながら、スケッチへどんどん書き加えていった。
誰が衣装を手直しするかは明白である。
次の日の午前中、祖父は裁縫をリズに頼み、退屈を訴えていたユーゴを連れて甲板へ出ていった。
ユーゴの父が日本人だと聞いたので、わたしの母から習った独楽の回し方を教えてあげるそうだ。
そういえば、マジックの小道具箱に独楽が入っていたっけ。
わたしはリズを手伝って服の縫い目をほどいたりしながら、どこで祖父と知り合ったのかを訊いた。
「私があなたより小さい歳だったわね」
リズが結婚するずーっと昔のこと。
幼いリズは、両親と一緒に普通の旅行で泊まった高級ホテルで、初めて祖父のマジックショーを見た。
若かりし祖父マジシャン・シャハロ率いる『シャハロ魔術団』は、十何人もの団員を抱えていた最盛期。水中脱出ショーに空中浮揚、美女の胴体切りだの、大掛かりなマジックショーをバンバン展開していた頃である。
舞台の他にも、祖父はレストランやロビーの一角でテーブルマジックなんかも披露していた。トランプカードを透視したり、お客様の引いたカードを消したり出したり、ハンカチやコインを使ってのマジックである。
これはマリナスさんに聞いたのだが、若かりし頃の祖父の回りはいつも妙齢のご婦人方が十重二十重に取り巻いていたという。
この話はリーベンスロールのホテルで、お茶の時間にマリナスさんが話してくれた。祖父はわたしに聞かれたくなかったらしく、すごい目でマリナスさんを睨んでいた。マリナスさんは気付かないふりをしていたけど。
幼いリズが滞在していた時期は、ちょうどバカンスシーズンだった。
夜のショーはディナータイムに行われるので、基本的に子どもは見られない。大人がお酒を飲む時間は、子どもは寝る時間だ。
そんな子達のために、祖父は昼間に子ども向けのマジックショーをしていたそうだ。
ぬいぐるみを動かしてハンカチを鳩に変え、シルクハットから花やお菓子やオモチャを出して配ったりする楽しい出しものだ。
豪華絢爛な大舞台のショーに比べたら派手さは無いけれど、初めてマジックショーを見たリズはいたく感動したそうだ。
リズを含めた泊まり客の子どもはそのホテルに滞在中、すっかり祖父になついて、ときどき遊んでもらっていた。
祖父が妻子を英国の家において、興行に回っていた頃の話である。
「おじいちゃま、優しいものね」
仕事以外では無愛想な祖父だけど、子どもと一緒に遊ぶのは上手だ。わたしの父がまだ家に居たとき、祖父がわたしとのボードゲームに夢中になってよく父に怒られていた。
そういった人柄がわかったのだろう子ども達の親も、有名なマジシャン・シャハロとお近づきになれるのを歓迎して、お茶やランチもよく一緒にしたらしい。
「でも、それがどうして、リズがおじいちゃまに頭が上がらない理由になるの?」
わたしの見たところ、リズと祖父の間に流れる空気は、なんだかわたしと祖父の関係に似ている。祖父もリズを、わたしと同じように扱っているみたいだし……。
「ええと、それはね……」
リズは言いにくそうだったが、わたしとはしばらく一緒に居るんだし、お互いに信頼関係を築いておく必要がある。
リズもそう考えて告白してくれたのは、息子のユーゴが席を外していたのと、わたしが頭の良い女の子だとわかっていたからだ。
当時リズは四歳。
その日、たまたま母親とメイドが目を離した隙に、ホテルの庭へ走り出たリズは、急にトイレに行きたくなったが、石畳につまずいて転んでしまった。
そこでおしっこを漏らしたのだ。自分ではどうすることもできず、恥ずかしくて泣き出してしまったリズを見付けたのが、通りがかった祖父だった。
祖父は一緒にいた団員にフロントへ連絡に行かせ、ちょうどリズを探していたメイドが来たので、他の人には見つからないように従業員用通路を使い、部屋まで送り届けてくれたという。
「なるほど、そういう意味では、おじいちゃまは恩人なのね」
その後も、リズと祖父は、ときどき欧州各地で顔を合わせた。
最後に会ったのはリズが18歳、リズが亡き夫と出会ったホテルでのパーティーだ。
リズは求婚された一ヶ月後に結婚式を挙げた。披露宴には祖父も出席していたというから、リズの事をよく知っていたわけである。
「もう、運命の恋だったわ」
旦那様との出会いを思い出したリズは、うっとりと虚空を見つめた。