(五)リーベンスロールを発つ朝に
「朝早くからすまないね。コーヒーでも飲むかね?」
祖父の声。
わたしはまどろみの暗闇から浮上した。
眠りが浅くなるにつれ、怖かった夢のカケラは千々に砕けて消えた。体はまだ眠りの名残を惜しんでいたが、わたしは目を覚ます方を選んだ。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、室内は明るい。天井の花模様がはっきり見えた。
「ハハッ、ありがたいが、長居は無用だ。ちょっとでも変わった行動をすると、最近は目を付けられちまうからな」
知らない男の人の声だ。
暖炉の上の置き時計は六時を差している。
「おじいちゃま?」
わたしは羽布団を跳ねのけ、ベッドから飛び降りた。寝間着の上からガウンを羽織り、スリッパを履いてダイニングへ急ぐ。
祖父と、知らない男の人。薄茶色の鳥打ち帽に薄茶色のコートを着たその人は、鋭い灰色の目でわたしを見た。
祖父はわたしの後ろに立つと、両肩へ手を置いた。
「紹介するよ、孫のレンカだ。レンカ、このおじさんはスタークさんといって、私の古い友達だよ」
「初めまして。と言っても、俺の方は、舞台で何度も見ているけどね」
スタークさんはにっこりした。目の鋭さが和み、とても優しい印象になる。祖父と同年代だろうおじさんは腰をかがめ、目線をわたしに合わせた。
「君たちのたいへんな事情は聞いているよ。だから、というわけではないが、もしも君がこの街で迷子になったり、困ったことに遭遇したら、俺のところへ来なさい。もしくは街の誰か――商店の人にでも、スタークの友人だと言えば、必ず誰かが手を貸してくれるからね」
「はい、スタークさん」
握手した途端、わたしの頭の中に、スタークさんの圧縮されたプロフィールがどっと流れ込んできた。
スタークさんは、この街の『顔役』だ。
街の人達は自分では解決できない問題が起きると、スタークさんへ相談しに来る。
スタークさんは、たくさんの人に慕われている。すごく頼りになるから。この街には絶対に必要な人。
特に今は、街でも血の気の多い男達をスタークさんが仕切ることで、一触即発の危険な空気を止めている。
とてつもない重要人物。
だけど、市長さんとかじゃないみたい……。
平和に見えるこの街で、スタークさんの言う危険とは何のことだろう?
わたしは透視の視界を広げた。
街の上空には、風が吹いても薄まらない陰鬱な空気がただよう。まるで目には見えない黒雲がたちこめているみたい。
なんだか怖い。
その黒雲を生み出している原因は、街を闊歩する褐色の制服を着た人々だ。
幼い子どもまで同じ制服を着せられ、その団体を支配する組織のトップへ忠誠を誓わされる。
いえ、少し違う。
あの人達は進んで誓っているんだわ。
あの豪華なパレードは、そうすることを自ら選んで行動している人々の群れなんだ。
あの人達は同じ方向だけを見て、自分たちと同じ誓いをしない人々を排斥する。
そのためには暴力も振るうのも平気だ。
自分達が絶対に正しいと信じてる。
どんなひどい暴力も、彼らにとっては正当な行い。
良心の呵責など無いから。
もう何人も殺されている。でも、みんな怖がって、公には告発されたことがない。殺された人が悪いことをしたから罰を与えたことになってる。
それを聞いた警察までもがそれを認めるなんて、なんてひどい!
だが、救いは残されている。
この街の古くからの住人は褐色の制服に良い感情を抱いていない。
もしもスタークさんがいなければ、この街はその団体の影響で、とっくにメチャクチャにされていただろう。
街の人は、ひそかにスタークさんに協力し、昔ながらの落ち着いた暮らしを護ろうと努力している。
スタークさんは、褐色の制服を心の底から軽蔑している。すごく頭のいい人だ。表立ってはけっして敵対しない。褐色の制服団体は過激な思想の集団だから、敵対者だとバレたら即座に暗殺されてしまう。
わたしの頭の中で、フルカラーの映像が閃いた。
これは幻視。
わたしの額の少し前上のあたりに浮かび、そこが四角いスクリーンのようにして、写真のような映像が何枚もスライドショーのように展開され、すぐに映画のように途切れない映像となった。
褐色の制服を着た人々が行進している。変わった十字みたいなマークの旗をたくさん掲げて、なんて盛大なパレードだろう。大きな旗やシンボルマークを掲げ、かつては欧州諸国を支配したという古代ローマ軍のように威風堂々、行進していく。
わたしはその映像に目を奪われていた。
と、幻視の端々で黒い影がチラついた。
危険の予兆。この幻視が進んだ向こうに、わたしには手に負えないものが隠れているらしい。
わたしは慌てて、幻視を打ち切った。
視ようと思って視たわけじゃない。
時として幻視は抗いようのない強さでやってくる。
とても鮮明だったから、もしかしたら後半はスタークさんの記憶から飛んできた情報ではなく、これからわたしが見にいく未来の出来事かもしれない。
透視するのが危険なほどの未来だなんて。……気をつけるしかないわね。
目を開けると、スタークさんと祖父が握手しようと手を差し出したところだった。
「じゃあ、俺はこれで失礼するよ」
「ああ、来てくれてありがとう。気をつけて帰ってくれ」
「君たちも良い旅を。息子さんご夫妻が見つかるように祈っているよ」
スタークさんは帰っていった。
今日は、何も予定は無かったわよね。
わたしはもう一度眠ろうかしらと寝室の方へ顔を向けたが、背後から祖父に「顔を洗っておいで」と言われた。
「もうすぐ朝食だ。リズとユーゴも来る」
昨日の御礼を言ってもらった御礼に、祖父が二人を朝食へ招いたという。
この程度はありふれた社交辞令だ。リズを監視する泥棒貴族の監視人には疑われないだろう。
「そこで大事な話がある。……そういえば、レンカ、一人で顔を洗えるな?」
すごく心配そうに訊かれたので、わたしはムカッとした。
「おじいちゃま、失礼ね。もう、そんなに小さな子どもじゃないのよ」
「そりゃすまん」
祖父には、まだわたしが一人で服を着られないような幼い子に見える時があるみたい。昨日まで祖母兼乳母代わりの魔法人形サアラがつきっきりで世話をやいてくれていたせいかしら。
「それはそうと、顔はひとりで洗えるけど、サアラは起こさないの?」
すると祖父は、部屋の片隅にある大きなトランクをチラリと見た。
「しばらく出番が無いからね」
魔法を解かれたサアラは専用トランクに片付けられている。
サアラは優しく有能な乳母。しっかり躾もしてくれたおかげで、わたしは身の回りのことはたいがい自分で出来るようになった。多少ややこしい構造の舞台衣装でも、ひとりで着られるんだから。
サアラ専用トランクだけは、祖父が大道具とは分けて自分で持ち運んでいる。サアラのパーツは髪の毛一筋まで手作りの魔術具。万が一壊れたら、作り直すのがたいへんだという。
「わかったわ。着替えてくるから待っててね」
わたしは洗面所へ向かった。