(三)リゴレスフィード修道院
せっかく用意されたお茶とお菓子をムダにすることはないから、わたしたちはお茶をいただいたが、探偵事務所の人たちはお茶を一杯だけ飲んですぐに帰った。
わたしと祖父は、また旅行トランクを持った。もともとこのホテルは打ち合わせのために取ったので泊まるつもりはない。
当初の予定ではホテルではなく、ロンドンにあるシャハロウ家の別邸に泊まるつもりだった。
ホテルの前からタクシーに乗った。
「リヴァプールへ」
「おじいちゃま、ロンドンへはいかないの?」
「やっぱりシルビィの所へ寄っていこう。一目でも会っていきたい。おまえを会わせたいんだ」
「そうね。わたしも会いたいわ」
わたしを可愛がってくれたという祖母には悪いけど、乳幼児の頃のあいまいな記憶しかない。気分はほぼ初対面だ。
行き先はリヴァプールの近く。
そこにあるもとは古い貴族の館だったという女子修道院に、祖母は居る。
「ようこそいらせられました」
院長という修道女が迎えてくれた。
この院長がシャハロウ家の親戚の人らしい。祖父や曾祖母に似たところはあるだろうかと、つい顔が気になってチラチラと目をやってしまうが、院長は、修道服の被り布を額に引き下ろすように深く被っているので目元のあたりは陰で隠れている。それでもスッと通った鼻筋や、形良い豊かな下唇、繊細な顎の線などから、なんとなくわたしの乳母のサアラに似た細面な顔立ちだと思った。
わたしと祖父は、きれいな庭園の見える応接室に通された。
外界と隔てられた修道院だから、てっきり鉄格子越しの面会だと思っていたけど、あれはもっと厳しい戒律を守る誓いを立てた人たちのやることだそうだ。
ここでは街中へ働きに行く人もいるし、逆にこの修道院内で仕事をするため、街から手伝いに来ている人もいる。
祖父は両手を組んでソワソワしている。
わたしはきちんと足をそろえて淑女らしく背筋をのばして座っていた。
緊張してなんか……じつはかなりしているけど、しかたないわ。
祖母はわたしの世話をしてくれたけど、完全に忘れていたわたしにとっては、初めて会うおばあちゃまと同じなんだもの。
なんて挨拶しよう?
忘れていてごめんなさい、というのもおかしいわね。だって、祖母に世話してもらっていたときのわたしはほんとうに幼くて、ふつうの幼児なら記憶がなくてあたりまえの歳だったもの……。
白いティーセットが載せられたワゴンが運ばれてきた。ワゴンを押してきたのは簡素なグレイと白の見習い修道女の服を着た年配の女性だ。
祖父が立った。
「シルビィ!」
「アラン!」
二人はしっかり抱きしめ合った。
シルビィこと、サリエット・シルビィ・ローレンサル・シャハロウ。
わたしのおばあちゃま。薄茶の髪には少し白髪が交じっているけれど、はっきりした眉の下の目は青灰色で、お化粧はしていないけど、赤い唇の輪郭がはっきりしている。
そしてやっぱりちょっとだけわたしの乳母のサアラに似ている。顔の造形そのものはそうでもないんだけど、雰囲気が。クールな美人なところがね。
若いころはマジシャンをしていた祖父のマネージャーの仕事もしていたそうだから、いかにも仕事ができそうな、賢そうな印象があるわ。
祖父はなかなか祖母を離さなかったが、祖母はわたしを見ていた。
「レンカ」
「はい!」
わたしは勢いよく立ち上がり、祖母へ駆け寄った。
それからの一時間、わたしは祖母の左横にぴったりくっついていた。祖母が左手でわたしの肩を抱いて離さなかったのだ。
祖母からは清潔なリネンとラベンダーの香りがした。優しい手から『時間が惜しい』という哀しみにも似た感情が伝わってくる。
このまま皆で家に帰り、平和な生活ができればいいのに……。
朝は陽の光で目覚め、庭でハーブを摘んで、鶏小屋から卵を集めて料理して、家族で食卓を囲むの。午後には木イチゴが群れ咲く小路を散歩する。足下には子犬がじゃれつき、家の中では白い猫が待っていて……。
わたしが学校から帰ってくるのを、祖母が出迎えてくれる。食卓にはおやつのクッキーがあるわ。もちろん祖母の手作りよ。
そして明日は息子夫婦がロンドンの家から帰ってくる日。明後日にはみんなでピクニックにでもいきましょう……。
それは涙が出そうなほど優しい、祖母が夢見る『まだ見ぬ未来の思い出』。
いっときは曾祖母と、わたしへの教育についての考え方が合わないと思い、この女子修道院へきたけれど、見習い修道女のおだやかな規則正しい生活をしているうちに、気がついたのだ。
祖母の悩みの真の理由は、意見が曾祖母と合わなかったことではなく、曾祖母や祖父のように霊視して判断できる特別な能力が自分には無いことに恐怖にも似た悩みを感じて、あの家には居られないとまで思い詰めてしまったことだった。
ほんとうはそんなことを考えなくてもよかったのに。
わたしたちシャハロウの一族にとって霊能力とは、血筋であり、家系であり、そうあるものだから。
曾祖母も祖父も勘の鋭い人だから、祖母が出ていった事情は理解していたけれど、いったん混乱した祖母の思い込みを解くのは、霊能力では難しかった。
だってそれは、祖母自身の心のバランスの問題が大きかったから。祖母が家に、夫たる祖父の元に帰るには、長い話し合いによって強い思い込みと誤解をほどかなければならず、また混乱して哀しみに沈んでいた祖母の心を癒やすためには、優れたカウンセリングが必要だったの。
ここでは院長さまやシスター達が親身となって話し相手をしてくださった。それでも数年かかったけれど、祖母の心は徐々に癒やされていったのだ。
だけど、それでもまだなんとなく曾祖母や祖父に顔を合わせるのが気まずい気持ちが残っていた祖母は、あと少し、もう少しと、ついつい現実から逃げてしまった。
曾祖母の葬儀のときが、家族が集まる良い機会だったんだけど、このときは曾祖母の最後に立ち会えなかったことで、いっそう自分を責めてしまったのね。
もうだいじょうぶ。祖母の心はすっかり落ち着いた。夫の母親と意見が合わないなんてよくあることで、我が家にとってはまったく些細なことだった。いまはそんなことで曾祖母や祖父が祖母を責めたりしないと理解している。
だって、わたしたちは『家族』だと、大切なことに気がついたから……。
祖父は祖母の右側に座り、両手で祖母の右手を握りしめていた。二人がいまも仲が良いのは明白で、わたしはなんだかお邪魔虫のような気がするわ。
「長い間すまなかった」
「いいえ、私こそ……」
「さっそくだが、電話で話したように、わしたちはこれからドイツへ行く」
「ええ、わかっているわ。……レンカ」
「はい、おばあちゃま?」
「あなたはわたしとここにいたい?」
「いいえ。わたしがいかないと、おとうさんとおかあさんは取り戻せないの」
「それは予知? シャハロウの霊能力なのね」
「そうです、おばあちゃま。……ごめんなさい。わたし、おばあちゃまのことをよく覚えていなかったの。小さかったから……」
いまはだいたい思い出している。というか、祖父に話を聞いてから霊視能力を駆使して、夢の中で自分の過去の記憶を見にいったのである。おかげでおむつ替えされている自分の姿まで視ちゃったけど。
わたしは祖母に可愛がられていた。とても愛されていたことを、知っているわ。
祖母は微笑んだ。なんてきれいな笑顔かしら。祖父が好きになったのがよくわかる、優しい人柄がわかる美しい人。
「なぜ謝るの。私はシャハロウ家の秘密を承知の上で、あなたのおじいちゃまと結婚したの。私もガンコだったけど、いまでは反省しているわ。あなたはちゃんと自分の意思で、ハロルドとハナエを探しに行くことを決めたのでしょう。いいのよ、わたしのことは気にしないで、あなたの両親を探しに行ってちょうだい。だって、あの二人は私のたいせつな息子と義娘でもあるのだから」
院長さまが見にいらっしゃった。
「ミセス・シャハロウ、お話はできまして?」
「ええ、院長さま。ありがとうございます」
「よろしければ、お嬢さんにお庭をご案内しましょう」
わたし?
パッと祖父母を見上げたら、二人は微笑んでうなずいた。
「いっておいで」
「ここはすてきなバラ園があるの。いまは秋のバラが咲いているわ」
あとで、これは祖父母を二人きりにさせてあげるための、院長さまの親切だったと気がついた。
わたしって気の利かない子だったんだ……と、ちょっぴり落ち込んだけど、お庭の白バラがそれは見事だったので、わたしはとても幸運な気分になれたの。
院長様は静かな雰囲気の方だったけど、優しい声で、ときどき花の名前を説明してくださった。
「レンカさんはシャハロウの修行をしているのですか」
「はい。わたしがあの家の跡継ぎです」
「まだとてもお若いのに、シャハロウの自覚がおありなのね」
院長さまは生前の曾祖母にも会ったことがあるそうだ。
じつは、院長さまも霊媒体質なんだって。
でも、わたしや祖父のように、人助けに使えるほど強い霊能力は発現しなかったので、一度は曾祖母に頼んでふつうの生活には必要ない霊能力の回路を閉じてもらった。
しかし、それでも世俗でふつうの人のようにふつうの生活をするのはどうしても性に合わないと感じてしまったので、とうとう誓願を立てて修道女の生活に入ったという。
そのとき、また曾祖母にたのんで、霊能力の回路をもとにもどしてもらったそうだ。
なぜならそういった特別な能力とは、神さまからの贈り物だから。自分が本来の自分のままで生きるために――。
「あなたとはいずれまたお会いすることもあるでしょう。……これは予知です。ですから、あなたは無事に帰ってくるのですよ」
別れ際に院長さまはそういって微笑んだ。
その頃、二人きりになった祖父母は、けっこう重大なお話をしていた。
「シルビィ。少し訊ねたいんだが、ゴドフィン・リート、という名に、聞き覚えはあるかい?」
「ゴドフィン・リート……?」
祖母は名前を確かめるように繰り返した。
「ドイツの方だったわね。むかしハロルドがドイツの中世のお祭りへいったとき、向こうでお世話になったという学者さんの話をしていたでしょう?」
「そういえば……。結婚前にハロルドが何度か行ったな」
「ちょうど9月のこの時期だったわ。ミュンヘンで開催されるドイツでいちばん大きな中世祭があるから見に行ったのではなかったかしら」
欧州のあちこちで開催される中世風のお祭り。甲冑を着けていた時代の騎士の格好をした人たちが剣で闘ったり、中世風の衣装を着た人たちがパレードをしたりするにぎやかなお祭りだ。
英国でもあるけど、わたしはまだ見たことがない。
でも、これでおとうさんが仕事以外でも欧州へいっていた理由がだいたい繋がってきたわ。趣味のほうの友人がいたんだ。
「どうやらその学者がリーベンスロールに住んでいるらしい」
「あら、ミュンヘンじゃなかったの?」
「そこはわからん。仕事の都合で引っ越した可能性も考えられるな」
「これからリーベンスロールへ行くのね」
「ああ、行ってくる。きみはここで待っていてくれ。必ずあの子たちを連れて無事に帰ってくるから」
「約束よ」
「神に誓って」
わたしと祖父は、女子修道院の前から、またタクシーに乗った。
めざすはドーバーの港。
そこからフランスのカレーへ渡り、列車に乗って、ドイツとオランダの国境近くの町リーベンスロールへ向かうのだ。




