(四)一九三八年のニューヨーク、英国総領事館にて
祖父はニューヨーク英国総領事館で、総領事との面談を許可された。
「やあ、アラン・シャハロウ! 十年ぶりじゃないか。あいかわらず若々しいな」
ニューヨーク総領事館の総領事サー・ロナルド・リンザーおじさまは、陽気な笑顔で迎えてくれた。祖父よりも年齢が上に見えたけど、すぐその理由に気づいた。きれいにヘアセットされた後頭部の地肌の艶が透けているのだ。クリームブラウンの髪色のせいだけじゃないわね。
リンザーおじさまは、わたしの祖父とは昔からの知り合いなんだって。
でも、それ以上詳しいことは教えてもらっていない。列車で詳しく聞かされたのは、祖母のことだけだったから。
総領事館については、列車がもうすぐニューヨークに到着するという時刻に、祖父がふと、新聞から顔を上げたのである。
「これから行くのはニューヨークにある英国総領事館だからね」
大使館と領事館は役割が異なるんだって。
大使は国家の代表として外国に派遣され、政治的な外交交渉を担う。けれど、領事は自国民の保護が主な仕事で、外交活動はしないそうだ。
よく聞くのは紛失したパスポートの再発行やビザの発給申請など。旅行者は絶対に覚えておいた方が良い公館である。
また外国で犯罪事件などのトラブルに巻き込まれて困った場合、自国の領事館に行けば保護してもらえる。わたしも万が一のために欧州各地にある英国大使館・領事館の住所は暗記している。
大使館でも保護はしてもらえるけど、大使館を置けるのは一国にひとつ。領事館は州や県に複数置けるので、大使館よりも見つけやすいのだ。
祖父は若い頃、世界中を旅していたから、各国の駐在大使や外交官に知り合いが多いらしい。
リンザー総領事はわたしにちょっと微笑みかけてから祖父に尋ねた。
「この子がシャハロウ家の?」
「ああ、孫のレンカだよ。レンカ、私の友だちのロナルド・リンザー男爵だ。この英国総領事館の総領事だよ」
「よろしく、ミス・シャハロウ」
「初めまして、リンザー男爵。レンカ・シャハロウです」
リンザー総領事はわたしにも礼儀正しく握手をしてくださった。総領事というのは派遣される領事の中で役職がいちばん上の領事さんだって。
「おじいさんと欧州を興行していると聞いたが、そろそろ英国が恋しくなる頃じゃないかい? 紅茶はお好きかな?」
「もちろんですわ」
ティーとはそのまま紅茶のことだが、アフタヌーンティーなど、軽食が出るお茶の時間のことでもある。
英国人は日に七回、お茶の時間を取ると言われるくらい、紅茶が好き。わたしはまだ子どもなので紅茶を飲むときはミルクに紅茶を少し入れたものだけどね。
「わが総領事館自慢のアフタヌーンティーをご馳走しよう。ゆっくり味わっていってください」
最近は何かと忙しくて、朝食と午後のティーがやっとだったから、豪華なお茶菓子の出るアフタヌーンティーと聞いたら、口の中に唾が湧いてきた。
案内されたのは小さめの客間。甘くすっきりしたマスカットブドウに似た香りがする。すばらしいダージリンティーの香りだ。
低いテーブルには色とりどりのお菓子やサンドイッチがたくさん盛り付けられた三段のケーキスタンドが三つ。ほかにも何種類ものクッキーやホールケーキやパイのお皿が並んでいる。
でも、祖父とわたしのためだけではないわね。だって祖父がここへ来ると決めたのは今朝だもの。
お客様は、あと二人いた。客間の奥のドアが開いて、祖父と同じ年代らしい男の人と、まだ二十代半ばらしい若い女性が入ってきたのだ。この人たちが本当のゲストだわ。
「やあ、アラン!」
サー・ドレイトンはストライプのサマースーツがよく似合う、英国紳士らしいおじさまであった。
「何年ぶりだろう。君が孫娘を連れて欧州を興行しているとは聞いていたが、米国で会えるとは予想外だったよ。マリナスは元気だったかい?」
「ああ、元気にしているよ。君も元気そうで何よりだ。急に訊ねてきてすまないな」
祖父とサー・ドレイトンが握手をしている横で、若い女性が微笑んでいる。
「なに、かまわんよ。その件で、君に紹介したいのが彼女だ。ミス・エイミー・バートン。一週間前までウィーンに音楽留学していた」
「はじめまして、サー・シャハロウ。有名なマジシャンにお会いできて光栄ですわ」
ミス・バートンはシックなライトブラウンのスーツを着こなした活発そうな美人だ。髪は茶色で目はブルー。有能な秘書嬢みたいな雰囲気の、中産階級のお嬢様、という感じ。
祖父はわたしを紹介した。
「この子は私の孫娘レンカ。この子の両親がドイツ近郊で行方不明になったのを探して二年前から欧州中を旅をしているんだ」
「それで君はドイツの情報が欲しいんだな」
リンザー総領事は、お茶が冷めないうちに始めよう、と皆に着席を促した。
「ミス・バートンはバイオリンの勉強をしにウィーンへ留学していたんだ。ドイツにも旅行してきたそうでね。今日はその話を聞かせてもらおうと、お茶にお招きしたんだよ」
「ロナルド、お茶を飲む前にひとつ調べて欲しいことがあるんだが」
「なんだね?」
祖父はわたしにあのドイツ人の名刺を出すよう、言いつけた。
わたしが処分していなかったのはお見通し。だって、なんとなく……捨てようとすると、妙にモヤモヤした気分になるんだもん。そのモヤモヤの正体がわかるまでは持っておくことにしたのだ。
わたしは隠しポケットから名刺を出して祖父へ渡した。その際にはマジシャンらしく、手からパッと名刺が出現したように見せかけるのを忘れなかったので、サー・ドレイトンとミス・バートンがわたしの手さばきに微笑んでくれた。
「この名刺の持ち主の正体を知りたいんだ。米国駐在のドイツ大使館の資料を当たればわかると思うんだが……」
「ドイツの大使館関係者か。どうやって入手したのか、訊ねても?」
「昨日、この子が、ボストン歴史公園を散歩していて、たまたま遊歩道に落ちていたのを拾ったんだ」
そう、この名刺はわたしの手の中に勝手に押し込まれてきた。祖父の言葉に嘘は含まれていない。ユーゴの存在がぬけているだけ。
「なかなかユニークな方法で手に入れたわけだ。では、この名刺の男がドイツ大使館の関係者だったとして、君はこの男の何を知りたいのかな?」
「昨日、この男と一緒にボストン歴史公園にいたドイツの外交官が、行方不明の私の息子夫婦を見たかもしれないんだ。居場所を特定する手掛かりになるかもしれない」
「それは千里眼のお告げかね?」
「そういうことだ。頼めるかな?」
「いいだろう」
リンザー総領事は、背後に立つ若い秘書官へ名刺を見せてうなずいた。秘書官は名刺を受け取り、別室へ移動した。
「では、お茶を飲みながら、君のご子息夫妻が行方不明になった経緯を、もう少し詳しく聞かせてもらえるかな」
リンザー総領事が銀のポットでお茶を注いでくれている間に、祖父は、わたしの父母が旅行中にドイツ近郊で行方不明になったこと、私立探偵の調査でも手掛かりが掴めないので二年前にわたしたちが直接捜索の旅に出たことを簡潔に説明した。
ミス・バートンはわたしの左隣の席だ。わたしが子どもなので配慮して、優しそうなおねえさんの隣にしてくださったらしい。
サー・ドレイトンとミス・バートンは真剣に祖父の話に耳をかたむけてくれた。
その間わたしは、テーブルに所狭しと並べられたティーフードの、すべてのチェックをすませた。
まず、ケーキスタンドにはサンドイッチ三種。アフタヌーンティー定番のキュウリのサンドイッチ。ハムとトマトのサンドイッチ。ゆで卵を潰してマヨネーズで和えたサンドイッチ。ローストビーフとクレソンのサンドイッチもある。
真っ赤なゼリー、シュークリームにエクレア。四角い大ぶりなスコーンは、オオカミがパックリ口を開けたように大きく膨らんだ真ん中がグワッと割れている。これは最高のスコーンの証拠だわ。
真っ赤なイチゴジャムとオレンジのマーマレード、ほのかに黄みがかった固めのクロテッドクリームが、それぞれ小型のボウル鉢にたっぷり入っている。
白いクッキーにココア色のクッキー。ジンジャーブレッド。コーヒー&ウォールナッツケーキ。イングリッシュフルーツケーキに、艶やかな輪切りオレンジを飾ったパウンドケーキ。英国風のベイクウェルタルト、定番のチョコレートファッジケーキ。
ぜんぶ食べるには三時間以上かかるだろう。こんなに本格的なアフタヌーンティーの用意をするには数日前から準備が必要だわ。……ということは、今朝がた急に訪問を決めた祖父のために用意されたものではないということね。
こちらの二人のお客様、サー・ドレイトンとミス・バートンが、この領事館へ来る予定があったから。
祖父はそう長くもない事情を語り終えた。
「謎の失踪事件だな。君たちはどう思う?」
リンザー総領事がサー・ドレイトンとミス・バートンに問いかけた。
「お気の毒に思いますわ、ミスター・シャハロウ」
わたしはミス・バートンの声でケーキスタンドのエクレアから現実に引き戻された。
「残念なことに、いまのドイツはそういう国です。ミスター・シャハロウのご子息と奥さまがなぜ攫われたのか理由はわかりませんが、いつの間にか人が消えるのです」
それは夜、密やかに行われる。
一夜明けると、隣人が消えているのだ。その多くは富裕なユダヤ人一家だという。隣人の裕福な暮らしを妬んだ近所の住人が、秘密警察へ何かしらの密告をすれば、次の日にはそのユダヤ人家族は消えているのだ。
家の中に、ほぼすべての家財道具をそのままにして。
住人のいなくなった家の家財道具は競売にかけられ、売りさばかれる。
そのようにして高価な家具や道具を安くで手に入れた人々は、消えた人々の行く末には目を塞ぎ、自分たちは物の豊かな国にいると考えるのだと。
ナチスドイツがユダヤ人を迫害している事実はすでに世界中に報道されている。
ところが、消えるのはユダヤ人とは限らなかったのだ。
「たとえば、ナチ党の熱烈な支持者が、そうではない近所の人のことが気に入らなくて、その人たちが『ナチスの体制批判をしていた』という虚偽の密告をしたりするんです。すると無実でも証明することが出来なくて逮捕されてしまうのですわ。そうしたら疑いが晴れるか刑期を終えるまで――つまり、悪い考えが正しく矯正されたと認められるまで、戻ってくることはできないのです」
ミス・バートンはウィーンの音楽学校の短期留学を終えるとドイツへ移動して、ベルリンの親戚の家に泊まった。表向きは観光旅行、本当は「ドイツの現状の調査」だった。
ミス・バートンが何者なのか、リンザー総領事ははっきり紹介しなかった。勝手に霊視するのは失礼だからしないけれど、ミス・バートンは米国人だ。そのくらいは人間観察でわかる。ミス・バートンは米国のためにドイツへ行って情報を集めてきた人なんだわ。
ミス・バートンのベルリンの親戚の人たちは親切で、ご町内の雰囲気も悪くはなかった。
でもある朝ご近所の住人が、一家まるごと失踪したのを目の当たりにすることになる。
「身の危険を察知して国外へ逃げ出されたのならまだ良かったのですが、後日、反ナチス派だと疑いの密告をされ、政治犯を収容する施設へ送られたと聞きました」
ミス・バートンの親戚は、秘密警察に疑われないように近所のナチス党員の事務所で仕事をしている。そこで逮捕に関わったナチス党員から直接聞いてきた話だという。ミス・バートンの親戚はナチス党員のフリをして外には漏れない情報を集め、ミス・バートンのように海外でナチスの脅威に対抗しようとする人々へ、こっそり情報を渡している協力者なのだ。
陽気な米国人観光客のフリをしていたミス・バートンも、自分の目で恐ろしい光景を目撃したことがある。
従兄弟と一緒に街へ買い物に出たときのことだ。
通りの反対側をごく普通に歩いている男性がいた。
そこへ突然、自動車がやって来て、その男性の側に停車した。降りてきた数人の黒服の男達は、その男性を自動車に押し込め、風のように去った。
あっという間の出来事で、あとには何事も無かったような、普通の街の風景だった。
黒服の男達はナチスドイツの秘密警察だ。
ミス・バートンは親戚からそういった話も聞いていたが、あまりに白昼堂々とした出来事に、その一部始終を呆然と見ているしかなかった。
街中で秘密警察や制服を着た若者達から不当な暴力を受けている人を見ても、通行人は誰も助けにいかない。その人に罪があるとか無いとか、そんな問題ではないのだ。
警察は来ないし、消防も来ない。
秘密警察や褐色の制服の若者達にたてつけば、今度は自分が『どこか』に連れて行かれる危険があるから。そして、二度と戻ってこられないかもしれないから。
「それが日常となっている国でしたわ」
と、ミス・バートンは視線をテーブルへ落とした。
わたしは目の前のサンドイッチを食べたかったが、手を伸ばせなかった。とても美味しく食べられる雰囲気ではない。お茶は冷めるばかりだ。
「私は収容所に送られて無事に戻ってきたという人を知りません。きっとたくさんの人が死んでいる、殺されているだろうと誰もが思っていても、口には出せない。そんな毎日を過ごしていましたわ」
「ヒトラーに反抗する人間に、人権は無しってことか」
サー・ドレイトンが顔をしかめた。
「ええ、商店が襲われて、砕け散ったガラスが道路に散らばって……」
ミス・バートンがそこまで話したときだった。
わたしの背後で、ガシャンと、何かが壊れる音がした。
ガラスが割れたような音だった。
わたしは振り返った。
床いちめんがキラキラしていた。
大量のガラスの破片が散らばっている。
まるでミス・バートンが話していた、襲撃されてウインドーガラスを割られた商店の前みたいに。
なんだろう、床は光っているのに、薄暗く感じるわ。
顔を上げたら、散らばったガラスの向こうには家具や壁すらも無く、ゾッとする漆黒の闇が広がっていた。
わたしはとっさに意識を逸らせた。
あちらへ行ってはいけない。わたしの本能が危険をさけぶ。
あの闇の中には恐るべきイメージが浮遊している。
だが、ちらっと目線をやっただけで、暗いイメージの断片はすごい勢いでわたしの中へ流れ込んできた。
それは、これから起こるだろう戦場の風景。おびただしい血と硝煙。灰色の空の下に積み重なる膨大な死体……何千何百万もの死者と戦死者。
あの暗闇の向こうに保管されているのは、わたしが決して見てはいけない未来の地獄の光景なのだ。
これは最悪の未来だ。もしも、わたしがこの光景が現実になるまでドイツにいたら、父母は助けられない。その暗示なのだ。
怖い。
怖くて、体がうまく動かせない。
わたしは震えながら、なんとか顔をテーブルの方へ向けた。
そこには誰もいなかった。
「おじいちゃま?」
祖父はどこに行ったのだろう?
「君が千里眼なのは知っているよ」
サー・ドレイトンだけが、わたしの対面に座っていた。
「アランとは先の世界大戦からの付き合いだ。彼の千里眼が本物なのは知っている。何度も命を助けてもらったからね。今度は私がアランを助けてやりたいんだ」
祖父の本当に親しい友人は、祖父が本物の千里眼だと知っている。シャハロウ家が代々霊能者の家系だと言うことも。
「よく聞きなさい。ドイツは戦争の準備をしている。チェンバレン首相はミュンヘン会談を行ったが宥和政策は失敗だ。英国も他の国も時間を稼げたと思うが、ドイツも戦争の準備を調えてしまう。欧州は戦場になる」
「英国のチェンバレン首相が失敗するの?」
サー・ネヴィル・チェンバレン首相は英国の現首相だ。ナチスドイツ傘下にあるドイツとの交渉役として期待されているって新聞に書いてあったような……。でも、宥和政策ってなにかしら。
サー・ドレイトンの言葉の途中で、わたしはここが現実ではないことに気づいていた。このサー・ドレイトンは幻影だ。ううん、この領事館と豪華なアフタヌーンティーも、すべてが幻影だったのだ。
そしてサー・ドレイトンが喋った内容は、今じゃない。未来だ。これは予見なんだわ。
でも、わたしはいつから幻影の中にいたのかしら。
何度も瞬きしたら、サー・ドレイトンの姿が消えた。
わたしは椅子から降り、暗闇とは反対の方にある扉へ走った。
この幻影で創造された見知らぬ部屋から、一刻も早く逃げ出すために。
わたしは体当たりするように扉を開けた。
そこは水色の空間が広がっていた。




